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半世紀にわたり、死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち会い続けた教誨師・渡邉普相。「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束のもと、初めて語られた死刑の現場とは? 死刑制度が持つ矛盾と苦しみを一身に背負って生きた僧侶の人生を通して、死刑の内実を描いた問題作! 第1回城山三郎賞受賞。
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Posted by ブクログ
なんというか、感想しずらい、、というか残しづらい。。フィクションならすらすら述べれるけど。 ずっしりと覆い被さる。圧迫感を感じた。
すごい話だった…。“死刑”が法の上で許容されているこの日本は、いわば“殺人”を合法的に犯すことを黙認しているんだと気付かされた。自分から遠い話だった死刑制度の実態が、とても近くに感じた。今まで、重罪を犯した犯罪者が極刑に処されることに対して何も疑問を持たず、その執行が多くの人の苦しみの上に成り立って...続きを読むいるなんて知らなかった。 なんて制度だろう。誰も幸せになれない。 どうしたらいいのか、今を生きている、無自覚にもこの制度の上で生きている私たちが考え続けないといけないんだと思った。
50年にわたって死刑囚と対話を重ねて刑の執行に立会いつづけた教誨師の僧侶の語りに基づくノンフィクション。興味本位で読み始めたが、死刑という刑事罰のあり方について考えさせられた。贖罪とは、犯罪者の人権とは、執行を決める人と立ち会う人の心のありようとは。執行の現場における生々しい描写も多く、「よってたか...続きを読むって人殺しをする」シーンをイメージすると読み進めるのも苦しかった。語り手や死刑囚、死刑執行に携わるすべての人に敬意や配慮が感じられて、取材が丁寧で信頼できると感じた。
すごかった。 軽率にに死刑制度は賛成か、反対か、なんて答えられない。浄土真宗の悪人正機説、「善人が救われるのであるから、悪人であればなおさらだ」というフレーズが初めはよく分からなかったが、全部読み終わった後なんとなく理解した。 遺族はもちろん、加害者も執行側も教誨師も、一人一人が重いものを背負ってい...続きを読むる感じがやりきれなかった。
柚月裕子さんの「教誨」という作品の参考文献として挙がっていた本のひとつ。作者のあとがき、法科大学院の先生の解説までとても読み応えがある。 印象に残ったフレーズが12もあって、文字起こしするのも一苦労。教養本として間違いなく読んでよかったと思えた作品でした。
死刑囚と対話を重ね、その最期にも立ち会う、「教誨師」という存在。本書は筆者が一人の教誨師の人生を辿ることによって「死刑とは何か」「人を裁くとは何か」についてという根源的な問いを突きつけてくるものです。 僕が本書を読むきっかけとなったのは『AERA』の2014年3月10日号にて、僕が敬愛する作...続きを読む家の佐藤優氏が取り上げていたからでありました。 28歳から死刑囚と対話し、寄り添い、その外語にも立ち会う「教誨師」(きょうかいし)という仕事を戦後半世紀にわたって続け、いまだ日本の中に厳然として存在する「死刑制度」というものが持つ矛盾を一身に背負いながらその生涯を貫いた僧侶、渡邉普相師(1931~2012年)より、筆者の堀川恵子氏が、聞き取ったものをまとめたのが本書であります。 出版するに当たり、堀川氏は渡邉師とひとつの「約束」を交わしており、それは 「この話は、わしが死んでから世に出してくださいの」 ということで、その約束が交わされたのは2010年のことだそうです。 2012年に渡邉師が他界し、本書は発刊されることになって、僕もこうして手にとって読み、感想をこうしてしたためているわけですが、いやはや…。ここに書かれてあるのは一人の宗教者が背負った『死刑制度』という重い「闇」の部分であり、それは渡邉師のみならず、刑務官を始めとする死刑執行に携わる人間たちにもまた、心の中に深い傷を抱え、懊悩しているのだ、ということでありました。 広島県の代々続く寺で生まれ育った渡邉師は8月6日の原爆投下の際に九死に一生を得て、龍谷大学に進学します。そこで渡邉師は花街で春を鬻ぐ女性達と出会い、そのうちの一人に心を寄せるわけでありますが、それがきっかけで彼女達を何とか救おうとするも結局かなわず、ほろ苦い思い出を抱えたまま教員生活を経て26歳のときに「婿入り」という形で東京の寺の女性と結婚し、上京を果たすのです。 そこで出会ったのが、後に渡邉師を教誨師への道へと誘う篠田龍雄(りゅうゆう)師であり、渡邉師は篠田師に手を引かれる形で教誨師としての歩みを進めていくのでした。 それは壮絶の一言であり、数多くの死刑囚と対話を重ね、時には茶を飲んでは雑談ばかりして帰る死刑囚に苛立ったり、生まれてから収監されるまで字の読み書きが全く出来ない死刑囚には字を教えるなどして、彼らと対話を重ねていくわけですが、やがて、彼らとの「別れ」。即ち死刑の執行に立ち会う場面は、本当に強烈な印象を残すものでした。 ここで少し話はずれますが、僕は幼少時、在りし日の祖父と共に観た映画のひとつに『東京裁判』というドキュメンタリー映画があり、その中では絞首刑となった「戦犯」たちの処刑の様子が映し出されており、ガターーーン!!という音と共に上から吊り下げられ、その後には2度、3度とブラーン、ブラーンとゆれる様子は、この文章を書いている現在でもありありと脳裏に思い浮かべることが出来、本書を読んでいると死刑囚の最期にはこのときの映像が思い出されるのでした。 先述した死刑執行の際の精神的なダメージは、死刑を執行する刑務官たちの心の中にも蓄積され、あくまでも「仕事」として機械的に死刑を執り行わなければならない側の人間と、 「一瞬でも長く生きたい」 と願う人間としての本能をさまざまな形で発露する死刑囚たちとの思いが交錯する瞬間を、本書では淡々と、感情を交えずに描いており、それが逆に重いものを僕の胸に投げつけるのでした。 渡邉師もまた、心の負荷に耐え切れなくなり、晩年は重度のアルコール依存症に苦しむことになるのですが、渡邉師はそれを入院治療などによって克服する様子は、「澱」のようなものが長い年月をかけて渡邉師の心の中に溜まっていったのかを偲ばせるものでした。 かなり重い内容ではございますが、 「Memento mori. Memento vitae. (死を忘るな。生を想え)」 というこの言葉をこれほど深く感じさせるものも他になく、「死刑制度」というものが持つ「矛盾」を我々の前に突きつけてくる一冊です。 ※追記 本書は2018年4月13日、講談社より『教誨師 (講談社文庫 ほ 41-5)』として文庫化されました。
常々疑問に思っていた死刑という制度について、改めて考える作品であった。 死刑についての話を考えると、気分が落ちてしまい嫌になるのに、どうしても気になって読んだ。自分には関係ないと思っている自分がいたが、これはやはり日本に生きる人が真面目に考えなければならない問題であると思う。 残忍な殺害が行われて、...続きを読む自分の親族がその被害者となったことがないからあくまで想像になってしまうが、その人が死刑になったからと言って自分の気持ちが晴れることもなければ、なんの解決にもならないと思う。 毎日後悔しないように生きていきたいと、生と死に対しても考える作品であった。
50年に渡り死刑囚に教え諭し、死刑執行に立ち会い続けた教誨師への取材ルポ 教誨師 渡邉普相 「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束のもとで語られた教誨の現場 教誨師は、死刑囚と対峙して対話を重ね、死刑執行に立ち会う宗教家 仏教系、キリスト系各宗派からボランティアで行われている 教誨を行...続きを読むうことと、どの宗派を選ぶかは死刑囚に委ねられている 教誨師は、面会の制限が厳しい死刑囚に会うことのできる数少ない一般人 本作は浄土真宗僧侶 渡邉普相への取材によって語られた内容が綴られている 浄土真宗といえば親鸞 そして、「歎異抄」であり「悪人正機」という説が本作で重要な意味を持つ 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 渡邉普相は悪人正機をこう捉えていたようだ ----------------- 「自分は善人だと思い上がっているような偽善者が救われるというのならば、自分の内なる悪を自覚して苦しんでいる人間はなおのこと救われるのだ」 ----------------- 渡邉普相は広島で被爆した経験を持つ たまたま爆心地にせを向けていた、長袖の服を着ていた、帽子を被っていた等の偶然により大火傷を負いながらも死を免れた しかし、その経験は大勢の人を見殺しにして逃げたことへの悔悟を抱え、原爆症はがいつ再発するかという恐怖の怯える事となった 寺の子として生まれたが、継ぐ立場ではなかった幼少期 被爆の経験、 大学生の時には、身売りされて売春に身を落とした女の救済の思い そして、上京して出会った教誨師 篠田龍雄 渡邉普相は教誨師をこうも捉えている 真面目な人間に教誨師は出来ません 突き詰めて考えておったりしたら、自分自身がおかしゅうなります 「二度と外の社会に出て気分転換すらすることの叶わぬ死刑囚たちに、精神的な広がり(空間)を与えるよう努めるべきだ」という篠田隆雄 教誨師の役割とは何なのか? 死刑囚が社会から求められたものは更生ではなく、隔離され二度と社会に戻ることなく刑罰により死を迎える事 教え諭したところで社会的な意味はあるのだろうか? 教誨師として死刑囚と対峙することで、死刑囚の様々な面が見えてくる 発覚していない余罪についてはなすもの、文字を書けないくらいの生い立ちを語るもの、自らを捨てた母への恨みを吐き出すもの 裁判は淡々と進み、死刑が確定した後に教誨でわかる死刑囚の生い立ちや心境 渡邉普相は後に教誨は上段から教え諭すものではなく「聴く」事だと悟っている 聴く事で、死刑囚はどのような影響があるのだろうか? 死刑執行の現場 やっていることは「人殺し」であると断言している 法により死を与えることは、死刑が存在する限り誰かがやらなければいけない 死刑が執行されても、幸せになった人間は、誰ひとりもいない 加害者、被害者、被害者家族にしても その現場に宗教家を立ち会わせることが重要なのだという 本人が求めようが求めなかろうが、必ず教誨師を用意しなくてはならない 殺される本人のためだけではなく、殺す側の刑務官たちを含めて、人殺しの現場に宗教家がいる事に意味があり救いがある 教誨を繰り返した上での執行、宗教家が見届けることで心の救いになるという 宗教家が立ち会わなければ、それこそ本当の「人殺し」だとも この考えを聞くと教誨師という存在意義も理解できる 私は、教誨の目的とは? 救われる必要はあるのか? という疑問を持っていた 自分のやった行いに向き合わせる意味で教誨が存在するのならばともかく 死刑囚を救うという目的は必要なのだろうか? 犯人が悔い改めたところで被害者家族の感情に影響はあるのだろうか 生きることを否定された人間の精神的に救済する必要はあるのか? 悔い改めたとしても、その先にあるのは死のみ そんな矛盾を感じていた 死刑の是非は色々あるだろうけど 死刑執行の方法や、それを行う人へのフォローは確実に必要であると終える
教誨とは、受刑者が改善更生し、社会に復帰することを支援する仕事。しかし、本書が扱うのは「死刑」の教誨。これは大変な仕事と思います。 未来のある懲役囚ならまだしも、死刑囚に神仏の教えを諭したり、人生に絶望しきっているような人間の心を救うことが果たしてできるのか。本書は50年のあいだ、死刑囚と対話を重ね...続きを読む、死刑執行に立ち合い続けた教誨師・渡辺普相の生涯を描くノンフィクション小説です。 本書は死刑囚の人となり、死刑囚の日々の苦しみと孤独感、後悔や怒り、死刑囚との対話や交流における悩み、そして執行の際に見せる死刑囚の言動を詳細に描きます。教誨という仕事により、渡辺は悩み、アルコールの力を借りるようになります。 この本は死刑廃止論や存続論には全く触れていません。それでも、現在の死刑囚の処遇については疑問を抱くようになりました。また、渡辺の「本人が執行されても、幸せになった人間は、誰ひとりいません」ということばは重いです。 教誨師という仕事の苛酷さ、日本の死刑制度をある程度理解するには格好の本。一気に読みました。
渡邉普相は、絞首刑の現場を 「落ちた時に筋が切れて打ち首したのと同じ」 「本人の意識はなく楽」 「執行までが辛く、執行そのものは辛くないはず」 と話していた。 そのほか、 ・執行までの教誨師の役割や死刑囚の日常 ・執行する刑務官の苦労 などが描かれている。 「生きる」ことを含め「当たり前」として...続きを読む捉えるのではなく、一つひとつの「当たり前」に感謝して生きていかなければならないと考えさせられた本であった。
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