あらすじ
半世紀にわたり、死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち会い続けた教誨師・渡邉普相。「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束のもと、初めて語られた死刑の現場とは? 死刑制度が持つ矛盾と苦しみを一身に背負って生きた僧侶の人生を通して、死刑の内実を描いた問題作! 第1回城山三郎賞受賞。
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読み終わってからも、どう感想を書けばいいのか整理がつかずな内容だった。
被害者遺族の感情に立つと、死刑囚のことはどうしたって許せない。
けれど、人は、人との出会いで変わっていくもの。
それをどう受け入れればいいのかわからなくなってしまった。
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すごい話だった…。“死刑”が法の上で許容されているこの日本は、いわば“殺人”を合法的に犯すことを黙認しているんだと気付かされた。自分から遠い話だった死刑制度の実態が、とても近くに感じた。今まで、重罪を犯した犯罪者が極刑に処されることに対して何も疑問を持たず、その執行が多くの人の苦しみの上に成り立っているなんて知らなかった。
なんて制度だろう。誰も幸せになれない。
どうしたらいいのか、今を生きている、無自覚にもこの制度の上で生きている私たちが考え続けないといけないんだと思った。
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50年にわたって死刑囚と対話を重ねて刑の執行に立会いつづけた教誨師の僧侶の語りに基づくノンフィクション。興味本位で読み始めたが、死刑という刑事罰のあり方について考えさせられた。贖罪とは、犯罪者の人権とは、執行を決める人と立ち会う人の心のありようとは。執行の現場における生々しい描写も多く、「よってたかって人殺しをする」シーンをイメージすると読み進めるのも苦しかった。語り手や死刑囚、死刑執行に携わるすべての人に敬意や配慮が感じられて、取材が丁寧で信頼できると感じた。
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すごかった。
軽率にに死刑制度は賛成か、反対か、なんて答えられない。浄土真宗の悪人正機説、「善人が救われるのであるから、悪人であればなおさらだ」というフレーズが初めはよく分からなかったが、全部読み終わった後なんとなく理解した。
遺族はもちろん、加害者も執行側も教誨師も、一人一人が重いものを背負っている感じがやりきれなかった。
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柚月裕子さんの「教誨」という作品の参考文献として挙がっていた本のひとつ。作者のあとがき、法科大学院の先生の解説までとても読み応えがある。
印象に残ったフレーズが12もあって、文字起こしするのも一苦労。教養本として間違いなく読んでよかったと思えた作品でした。
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死刑囚と対話を重ね、その最期にも立ち会う、「教誨師」という存在。本書は筆者が一人の教誨師の人生を辿ることによって「死刑とは何か」「人を裁くとは何か」についてという根源的な問いを突きつけてくるものです。
僕が本書を読むきっかけとなったのは『AERA』の2014年3月10日号にて、僕が敬愛する作家の佐藤優氏が取り上げていたからでありました。
28歳から死刑囚と対話し、寄り添い、その外語にも立ち会う「教誨師」(きょうかいし)という仕事を戦後半世紀にわたって続け、いまだ日本の中に厳然として存在する「死刑制度」というものが持つ矛盾を一身に背負いながらその生涯を貫いた僧侶、渡邉普相師(1931~2012年)より、筆者の堀川恵子氏が、聞き取ったものをまとめたのが本書であります。
出版するに当たり、堀川氏は渡邉師とひとつの「約束」を交わしており、それは
「この話は、わしが死んでから世に出してくださいの」
ということで、その約束が交わされたのは2010年のことだそうです。
2012年に渡邉師が他界し、本書は発刊されることになって、僕もこうして手にとって読み、感想をこうしてしたためているわけですが、いやはや…。ここに書かれてあるのは一人の宗教者が背負った『死刑制度』という重い「闇」の部分であり、それは渡邉師のみならず、刑務官を始めとする死刑執行に携わる人間たちにもまた、心の中に深い傷を抱え、懊悩しているのだ、ということでありました。
広島県の代々続く寺で生まれ育った渡邉師は8月6日の原爆投下の際に九死に一生を得て、龍谷大学に進学します。そこで渡邉師は花街で春を鬻ぐ女性達と出会い、そのうちの一人に心を寄せるわけでありますが、それがきっかけで彼女達を何とか救おうとするも結局かなわず、ほろ苦い思い出を抱えたまま教員生活を経て26歳のときに「婿入り」という形で東京の寺の女性と結婚し、上京を果たすのです。
そこで出会ったのが、後に渡邉師を教誨師への道へと誘う篠田龍雄(りゅうゆう)師であり、渡邉師は篠田師に手を引かれる形で教誨師としての歩みを進めていくのでした。
それは壮絶の一言であり、数多くの死刑囚と対話を重ね、時には茶を飲んでは雑談ばかりして帰る死刑囚に苛立ったり、生まれてから収監されるまで字の読み書きが全く出来ない死刑囚には字を教えるなどして、彼らと対話を重ねていくわけですが、やがて、彼らとの「別れ」。即ち死刑の執行に立ち会う場面は、本当に強烈な印象を残すものでした。
ここで少し話はずれますが、僕は幼少時、在りし日の祖父と共に観た映画のひとつに『東京裁判』というドキュメンタリー映画があり、その中では絞首刑となった「戦犯」たちの処刑の様子が映し出されており、ガターーーン!!という音と共に上から吊り下げられ、その後には2度、3度とブラーン、ブラーンとゆれる様子は、この文章を書いている現在でもありありと脳裏に思い浮かべることが出来、本書を読んでいると死刑囚の最期にはこのときの映像が思い出されるのでした。
先述した死刑執行の際の精神的なダメージは、死刑を執行する刑務官たちの心の中にも蓄積され、あくまでも「仕事」として機械的に死刑を執り行わなければならない側の人間と、
「一瞬でも長く生きたい」
と願う人間としての本能をさまざまな形で発露する死刑囚たちとの思いが交錯する瞬間を、本書では淡々と、感情を交えずに描いており、それが逆に重いものを僕の胸に投げつけるのでした。
渡邉師もまた、心の負荷に耐え切れなくなり、晩年は重度のアルコール依存症に苦しむことになるのですが、渡邉師はそれを入院治療などによって克服する様子は、「澱」のようなものが長い年月をかけて渡邉師の心の中に溜まっていったのかを偲ばせるものでした。
かなり重い内容ではございますが、
「Memento mori. Memento vitae. (死を忘るな。生を想え)」
というこの言葉をこれほど深く感じさせるものも他になく、「死刑制度」というものが持つ「矛盾」を我々の前に突きつけてくる一冊です。
※追記
本書は2018年4月13日、講談社より『教誨師 (講談社文庫 ほ 41-5)』として文庫化されました。
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死刑について考えるときに、加害者と被害者にばかり目がいきがちだけど、死刑を執行する人がいる、ということにも目を向けなくてはいけないな、と気付かされた。
以前ツイッターで安楽死の議論があるが殺すことを医者に丸投げしていることに誰も気づいていない。自分は立場的にもし安楽死が可能になったら殺す立場になるだろうけど心底嫌だ、みたいな意見を見かけて、それを思い出した。
あと、加害者は心情的に自分を被害者だと思っていて(生い立ちの不幸などから)それを取り除かないと自分が殺した人への謝罪や反省の気持ちなんて持ち得ない的な事を渡邉さんが言われていて、なるほどと思った。確かにそうかも。
でもそれがいかに困難なのかも読んでわかった。
とにかく実際に現場に立って活動している人の言葉は重たいなと思った。
渡邉さんもすごいけど、師匠の篠田龍雄さんもすごかった。
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常々疑問に思っていた死刑という制度について、改めて考える作品であった。
死刑についての話を考えると、気分が落ちてしまい嫌になるのに、どうしても気になって読んだ。自分には関係ないと思っている自分がいたが、これはやはり日本に生きる人が真面目に考えなければならない問題であると思う。
残忍な殺害が行われて、自分の親族がその被害者となったことがないからあくまで想像になってしまうが、その人が死刑になったからと言って自分の気持ちが晴れることもなければ、なんの解決にもならないと思う。
毎日後悔しないように生きていきたいと、生と死に対しても考える作品であった。
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50年に渡り死刑囚に教え諭し、死刑執行に立ち会い続けた教誨師への取材ルポ
教誨師 渡邉普相
「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束のもとで語られた教誨の現場
教誨師は、死刑囚と対峙して対話を重ね、死刑執行に立ち会う宗教家
仏教系、キリスト系各宗派からボランティアで行われている
教誨を行うことと、どの宗派を選ぶかは死刑囚に委ねられている
教誨師は、面会の制限が厳しい死刑囚に会うことのできる数少ない一般人
本作は浄土真宗僧侶 渡邉普相への取材によって語られた内容が綴られている
浄土真宗といえば親鸞
そして、「歎異抄」であり「悪人正機」という説が本作で重要な意味を持つ
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
渡邉普相は悪人正機をこう捉えていたようだ
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「自分は善人だと思い上がっているような偽善者が救われるというのならば、自分の内なる悪を自覚して苦しんでいる人間はなおのこと救われるのだ」
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渡邉普相は広島で被爆した経験を持つ
たまたま爆心地にせを向けていた、長袖の服を着ていた、帽子を被っていた等の偶然により大火傷を負いながらも死を免れた
しかし、その経験は大勢の人を見殺しにして逃げたことへの悔悟を抱え、原爆症はがいつ再発するかという恐怖の怯える事となった
寺の子として生まれたが、継ぐ立場ではなかった幼少期
被爆の経験、
大学生の時には、身売りされて売春に身を落とした女の救済の思い
そして、上京して出会った教誨師 篠田龍雄
渡邉普相は教誨師をこうも捉えている
真面目な人間に教誨師は出来ません
突き詰めて考えておったりしたら、自分自身がおかしゅうなります
「二度と外の社会に出て気分転換すらすることの叶わぬ死刑囚たちに、精神的な広がり(空間)を与えるよう努めるべきだ」という篠田隆雄
教誨師の役割とは何なのか?
死刑囚が社会から求められたものは更生ではなく、隔離され二度と社会に戻ることなく刑罰により死を迎える事
教え諭したところで社会的な意味はあるのだろうか?
教誨師として死刑囚と対峙することで、死刑囚の様々な面が見えてくる
発覚していない余罪についてはなすもの、文字を書けないくらいの生い立ちを語るもの、自らを捨てた母への恨みを吐き出すもの
裁判は淡々と進み、死刑が確定した後に教誨でわかる死刑囚の生い立ちや心境
渡邉普相は後に教誨は上段から教え諭すものではなく「聴く」事だと悟っている
聴く事で、死刑囚はどのような影響があるのだろうか?
死刑執行の現場
やっていることは「人殺し」であると断言している
法により死を与えることは、死刑が存在する限り誰かがやらなければいけない
死刑が執行されても、幸せになった人間は、誰ひとりもいない
加害者、被害者、被害者家族にしても
その現場に宗教家を立ち会わせることが重要なのだという
本人が求めようが求めなかろうが、必ず教誨師を用意しなくてはならない
殺される本人のためだけではなく、殺す側の刑務官たちを含めて、人殺しの現場に宗教家がいる事に意味があり救いがある
教誨を繰り返した上での執行、宗教家が見届けることで心の救いになるという
宗教家が立ち会わなければ、それこそ本当の「人殺し」だとも
この考えを聞くと教誨師という存在意義も理解できる
私は、教誨の目的とは?
救われる必要はあるのか?
という疑問を持っていた
自分のやった行いに向き合わせる意味で教誨が存在するのならばともかく
死刑囚を救うという目的は必要なのだろうか?
犯人が悔い改めたところで被害者家族の感情に影響はあるのだろうか
生きることを否定された人間の精神的に救済する必要はあるのか?
悔い改めたとしても、その先にあるのは死のみ
そんな矛盾を感じていた
死刑の是非は色々あるだろうけど
死刑執行の方法や、それを行う人へのフォローは確実に必要であると終える
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教誨とは、受刑者が改善更生し、社会に復帰することを支援する仕事。しかし、本書が扱うのは「死刑」の教誨。これは大変な仕事と思います。
未来のある懲役囚ならまだしも、死刑囚に神仏の教えを諭したり、人生に絶望しきっているような人間の心を救うことが果たしてできるのか。本書は50年のあいだ、死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち合い続けた教誨師・渡辺普相の生涯を描くノンフィクション小説です。
本書は死刑囚の人となり、死刑囚の日々の苦しみと孤独感、後悔や怒り、死刑囚との対話や交流における悩み、そして執行の際に見せる死刑囚の言動を詳細に描きます。教誨という仕事により、渡辺は悩み、アルコールの力を借りるようになります。
この本は死刑廃止論や存続論には全く触れていません。それでも、現在の死刑囚の処遇については疑問を抱くようになりました。また、渡辺の「本人が執行されても、幸せになった人間は、誰ひとりいません」ということばは重いです。
教誨師という仕事の苛酷さ、日本の死刑制度をある程度理解するには格好の本。一気に読みました。
Posted by ブクログ
教誨師という言葉、仕事を知らなかった。
死刑執行のとき、僧侶が立ち会うことは知識と知っていたが、これほどのことだとは。
P98
一方で、教誨師の存在が批判されるたびに持ち出される実話。
「自分は冤罪だからと再審を請求しようとする収容者に対しても『これは前世の因縁で、たとえ無実の罪であっても先祖の悪業の因縁で、無実の罪で苦しむことになっている。その因縁を甘んじて受け入れることが、仏の意図に沿うことになる』と再審の請求を思いとどまらせるような説教をする僧侶がいる。こんな世の因果をふりかざして、再審請求を妨げる僧侶が少なくない」
冤罪が確定して釈放された免田栄獄中記の中の文章。
P188
つまり教誨面接では、二度と外の社会に出て気分転換さえ叶わぬ死刑囚たちに、精神的な広がり(空間)を与えるように務めるべきだという。
半世紀もの間、死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち会い続けた教誨師・渡邉普相。
「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束のもと、初めて世間に知らされた死刑制度の現実。
その矛盾と苦しみを一身に背負って生きた僧侶の人生を通して、死刑の内実を描いた作品。
死刑囚に向き合う、ただ一人の民間人である教誨師は、その職務上、他言厳禁。
だからこそ知らなければいけないのに知られていない。
ご苦労が、悩みが多いと思う。
いつか分からない執行の日まで、死刑囚の精神的安定と自殺防止などの大変さが、教誨日誌で垣間見ることができる。
この本を読み、死刑反対、死刑囚に対しての同情が出てくる。その同情してしまう死刑囚の最後を見守る宗教者とは、なんと気持ち的に負担のある仕事であろうか。
スイスにある安楽死をできる施設のように点滴を入れてスイッチを自分で押す、もしくは医者が押す、そのような形に変えていくことはできないのだろうか。
今の形式では、まず見た目にも悲惨さがうかがえる。
渡邉が初めて恩師の篠田龍雄と執行に立ち会った日のこと。
何度も面会を重ね、仏教の教えを学び、写経や読経をし被害者の命日を弔ってきた死刑囚がついに
執行されることとなる。
刑場に立たされた死刑囚が直前になって、上半身をよじり「先生!私に引導を渡してください!」
と篠田に乞う。
浄土真宗に「引導」などない。
しかし篠田は迷いもせず、それを引き受ける。
「よぉっし!!行きますぞ!!死ぬるんじゃないぞ!生まれ変わるのだぞ!」
「喝ーーー!!!」
死刑囚の表情から恐怖が消え、「生まれ変わるんですね」と救われた表情を見せる。
「あんたが先に行くけど、わしもあとから行きますぞ!」
今世では死刑囚だったが、次に生まれ変わるときには、必ず人様のお役に立てる人間に
と願っていたのか・・・。
渡邉も何度も壁にぶつかり、お堂にひっくり返って
「阿弥陀様、わっしは、また(死刑囚に)可哀想なことをしましたぜ・・・」と涙している。
後半、渡邉は自分がアル中であることを告白する。その事実は思いの外、死刑囚たちに受け入れられた。
人は神ではない。
好きで飲んでいる、とは言っているものの、それでなければやっていられないのだろう。
どんな形であれ、人が人の命を奪う(やらされる)ことに深く考えさせられる。
これは、ぜひ多くの人に読んでほしい。
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渡邉普相は、絞首刑の現場を
「落ちた時に筋が切れて打ち首したのと同じ」
「本人の意識はなく楽」
「執行までが辛く、執行そのものは辛くないはず」
と話していた。
そのほか、
・執行までの教誨師の役割や死刑囚の日常
・執行する刑務官の苦労
などが描かれている。
「生きる」ことを含め「当たり前」として捉えるのではなく、一つひとつの「当たり前」に感謝して生きていかなければならないと考えさせられた本であった。
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メディアで取り上げられる凶悪犯罪者に対して
「死刑になればいい」そんな思いを誰もがいだいたことがあるだろう。
教誨師という職業を通して、死刑制度について思考させられた作品。
死刑囚は毎日死と隣り合わせ。
残された時間を自分の犯した罪と向き合い、残された遺族と向き合う。
この作品で取り上げられた人々は、描写のせいか
更生したように感じ、死ぬ必要はないのではないかと。同じ過ちは犯さないのではないかと思ってしまう。
閑話休題
死刑制度があるならば、それに携わる人間がいる。
そして、執行する人間も同じく「人殺し」をしている。
同じ人殺しで人間が人間を捌く制度。
とてつもなく矛盾している。
世論が「死刑制度の廃止反対」の声をあげている限り、矛盾は終わらず、執行するもの、残されたものの苦しみは終わらない。
しかし、犯罪者はやってはいけないこと、罰則があると知っているにもかからわず犯罪を犯している。
その側面からみると、死刑囚になってしまう可能性も承知なのではないか?
このテーマに関しては様々な知見に触れてみたい。
そして、作者の取材力には脱帽された。
見事なノンフィクション作品。
作者の作品は他にも読んでみたい。
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みんなで人殺しをしている、という言葉も、そこに第三者の宗教者を置いた方が良いとの助言も、読めば読むほど本当に自分が何も考えられていないことに気付かされた。 教誨師として接していくうちに再審の運動をした者、その行動になってしまうことの方が自然なのではないかと思わされる。話していくうちに感情移入してしまうような中、あくまでも教誨師として接していた渡邉さんの言葉や行動、思考は、深く重すぎる。 これを読んで死刑制度への価値観が変わると軽率に言えないが、そこに関わる人への視点は持ちたい。
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教誨師という、死刑囚と向き合う「仕事」。
ただ単なる1人の僧侶と死刑囚たちのドキュメンタリーではなく、生きるとはなにか、死ぬとはなんなのかを強烈に問いかけてくる。
私は個人的には、死刑は必要だと感じている。
凶悪犯罪の抑制力として、また死刑という罰でしか償えないその罪の重さに対して。
しかし、その刑を執行するためにどれだけの人達が辛い思いをしているのか。
死刑を「人殺し」と表現する普相。
「外」の世界を生きる私たちには、過去も未来もない。ただ今を生きる。
懸命に生きる。
私はそれができているだろうか。
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死刑囚につく主に宗教者たちの束ねていた浄土真宗のある僧侶のオーラルヒストリー。
現在では守秘義務から表に出ないが各死刑囚へ寄り添い、寄り添うことが重要だが難しいことへの悩み、死刑になることへの複雑な感情を後世に伝えるという意味で世に出すことを自分の死後許可している。
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死刑囚に寄り添うこと。死が確定した人間に救いはあるのか。憎悪や狂いはマスコミの餌食として消費されるが被害者や加害者の悲しみを和らぐ術はどこにあるのか。この本に出会わなければ教誨について知る事も無かっただろうし、生きることの重みを知ることができた。
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死刑囚に向き合う教誨師という仕事。先輩教誨師篠田龍雄の後任として28歳で、教誨師の道を歩み始めた浄土真宗の僧侶渡邊普相氏の日誌とインタビューをまとめた(と一言で済ますのは気が引ける内容だが)ものである。大変な仕事だというのは、相手が死刑囚だということだけでも、想像して余りある。自分が死んだ後に発表してくれ、という固い約束。ほとんど誰も口にしなかった、死刑の現場、言いたくないこと、思い出したくないこと、苦しくてたまらないことまで、吐露してくれた渡邊氏に心から敬意を表したい。そして、それを勇気を持って綴った、作者堀川恵子氏にも感謝だ。
まず、思うことは、死刑の現実について、隠されすぎだということ。関係者の口は硬く、守秘義務ということもあり、闇の中に沈めるしかなかったが、やはり、国の名で、法律の名で、人殺しを(あえて渡邊氏と同じ表現を使うが)している以上、もっと公にすべきではないのか?簡単に「死刑にすればいい」というが、そこに至るまでに、何があるのか?死刑を前にした受刑者、死刑を執行する刑務官たち、立ち会う宗教者たち等に、どれほどの負担を強いているのか、国民は知るべきだと私は思う。それを知らずに死刑存続も廃止も語れないのではないか?と思う。向き合うのはつらい。だから隠す、のでは、死を穢れとして隠した、平安時代と変わらないとさえ思う。
登場する死刑囚一人一人、当然、生まれも育ちも違う。が、登場するほとんどが、親に捨てられたり、不遇な幼少時代を過ごしているものが多い。
事件は社会を映す。歯車がどこかで噛み合っていれば、殺人などという手段を取らずに済んだ人も多いのではないか?という気持ちも拭えなかった。
Posted by ブクログ
前半の具体的な死刑囚とのやりとりから中盤以降、老教誨師の苦悩に焦点が移る。アルコール依存症にまでなり、入院。死刑囚たちにそれを告白してから関係性が変わった云々。
終盤の重さ、真剣さ、真摯さは、浄土真宗の僧侶との長きに渡る対話がなせるものか。
良い本を読んだ。
今の所、堀川惠子のドキュメンタリーに外れ無し。
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50年もの間、死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち会い続けた教誨師・渡邉普相。「自分が死んでから世に出す事」という約束のもと、語られた死刑の現場とその内実とは。
刑務所で服役中の囚人に対して、過ちを悔い改め徳性を養うための道を説く「教誨師」を長く務めた僧侶、渡邉普相さんの人生と告白を書いた本。
教誨師の目を通して書かれるのは、生死に対する無力感や人殺し(=死刑)の手伝いをしながら人を救う事に対しての苦悩。どんなに徳の高い宗教者やベテランの刑務官であったとしても、彼らもまた一人の人間であり、人の死に対して達観しきっているわけではないことを実感します。
恥ずかしながら、今まで死刑制度について、そこまで深く考えた事がありませんでした。それは、馬鹿みたいだけど、自分と周囲の善性について根拠のない自信があったからですが、そんな事を考えていたのが恥ずかしくなりました。死刑が執行されても、被害者も加害者も誰も幸せにしないと渡邉普相さんは語っていたそうです。そんなことになる前に、犯罪自体を減らす、犯罪者予備軍を減らす社会づくりを、今後は考えていかないといけないのかもしれません。
ただ”死刑囚”、”僧侶”、”被害者”、”被害者遺族”、”加害者家族”という名称だけでなく、そこに”個”を認識してしまうと、何の疑問も持っていなかった社会システムについての重みがぐんと増して、ましてや死刑囚個人と個々に向き合う事になる教誨師ともなればなおさらその苦しみはどれほどのものなのか。
言いたいことは色々あるのに言語化が難しくもどかしいですが、ただ、読んでよかったです。
Posted by ブクログ
読みやすく、面白かった。
死刑囚との対話を通して、死刑囚の人となりが理解できる一方で、彼らは死にゆく運命にある。死刑の描写も生々しく、辛いものがある。
死刑は残虐であるという認識はあったが、それは死刑囚に対してだけではなく、死刑に関わる人々にとっても残虐である。国家は、権力によって人を殺すだけではなく、殺す人を作り出す。望んでなくとも、仕事として、人を殺さなくてはならない。死にゆく人を見届けなくてはならない。私自身に見えていなかった観点かもしれない。
しかし、この本の中では、死刑囚の心情に近づくが、被害者の心情に近付くことはできない。死刑が残虐なのは分かったが、被害者にとって、その償いとなるのはどんな刑罰か。
Posted by ブクログ
昨年末に柚月裕子さんの『教誨』を読んで教誨師の仕事に関心をもち、本書を手にしました。
読後、「よくぞ本書を世に送り出してくださった!」と、著者の堀川惠子さんには敬意を表する以外にありません。
全く知らない異世界事実の重さに、圧倒されました。50年間にわたり、死刑囚と対話し刑の執行に立ち会った教誨師・渡邉普相。本書に記されているのは、ひとりの僧侶の目に映った「生と死」、そして「教誨師としての苦悩」の告白です。
法治国家日本の「死刑制度」への疑問は、本書を読むほどに増します(個人的に死刑反対論者を公言するものではありません)。被害者遺族の心情も大切ですが、死刑廃止により凶悪犯罪の抑止力が落ち、増加の懸念が‥などあるでしょうか?
この問題には、死刑判決を下す司法、刑を執行する行政いずれにも高いハードルがありそうです。
そもそも、人は人を裁けるのか、人が人に死刑を執行できるのか、更には人は人を救えるのか‥。これらは、当事者でない圧倒的多数の私たちにとっては、全くの他人事です。だからこそ、本書の価値が高く、多くの方々が読むべき必読書だと思います。
ちなみにネット情報によると、世界的には死刑の廃止が進んでおり、(2021年現在)死刑廃止は108カ国(196カ国中)。10年以上執行がない事実上の廃止を加えると144カ国とのこと。ただ、死刑存続国は、先進38カ国加盟のOECDの中では日本のみ(※米国は50州中23州が廃止)だそうです。
死刑制度の是非についての議論が進むことを願って止みません。
Posted by ブクログ
「この話は、わしが死んでから世に出して下さいの」
教誨師という仕事をご存知だろうか。
死刑囚と唯一自由に面会することを許された民間人。対話を重ね、最後はその死刑執行の場に立ち会う。報酬もなく、精神的にも肉体的にも過酷なボランティアである。
生とは、死とは。
法の裁きとはいえ、寿命がまだあるものに強制的に死を与える。
これを「人殺し」と呼ばずして、何と呼ぶのか。
約50年間 教誨師の職を担った渡邉普相(わたなべ ふそう)の遺書的作品である。
☆構成がえぐい
ニュースだけでは伝わってこない死刑囚1人1人の性格を丹念に描き、教誨師との何気ないやりとりで読者を和ませ、親近感を覚え始めたところで死刑執行の現場を克明に記す。
読者は読み進めるうちに知らず知らず場に引き込まれているため、教誨師と死刑囚の絆が無情にも引き裂かれる瞬間 精神的に大ダメージを受ける。
特に第5章「娑婆の縁つきて」の篠田龍雄と桜井の最期のやりとりは涙なくして読むことができない。
☆読みやすさ◎
小説を読むような気持ちで最後まで読める作品。
ノンフィクション初心者にオススメしたい本。
ただ、渡邉の少年時代の話は若干集中が切れる。
☆テーマ
生と死
Posted by ブクログ
「死刑囚」という少しそそられる単語で「教誨師」が何かすらもイマイチ分からないまま読んでみたけど、地上波では堂々と語れない内容を遺言書として長きに渡る教誨師人生を公にした本作は、読み終わった後の重みが凄すぎた…
自分の国の事なのに、死刑なんてドラマの中か、短期的に移り変わるニュースくらいでしか知らなかった無知な自分に対して、色々考えさせられました。自分が結論付けるにはあまりにも重すぎますが、かと言って考える事の放置は、自らの国(法律)の責任転移になると思います。自分らの知らぬうちに、知らない職種があり、知らぬ間に、世間が忘れてしまった事件の犯人を死刑に処する。これで一体誰が報われるというのでしょうか。
もっともっと、多くの国民に読んで頂きたいです。
Posted by ブクログ
表紙が仏像なのはどういう意味か?
死刑囚。
教誨師。
死刑制度。
過去の大きな罪、人を殺して今度は法に殺される人。
冤罪は。
心は?
罪とは?
反省とは?
自分も考えてしまう。
Posted by ブクログ
絶対読むべきです!
『死刑反対か賛成か』
そんな薄っぺらい言葉で語られるような、
本ではありません。
人間が人間を赦すということが
どういうことか?
読んでいて時に、
その重さに押し潰されそうになります。
死刑囚の重荷を一緒に背追い込んで、
それを墓場まで持っていかなければならない
(そんな苦痛を伴うにも関わらず、ボランティア)
教誨師の苛烈な苦悩。
その活動には、
尊敬の念しかありません。
この本によって、
教誨師としての活動が
もっと多くの人に認知され、
死刑制度について沢山の人が議論する
きっかけが生まれることを願います。
Posted by ブクログ
大杉漣氏が残した映画作品の教誨師を観て、この職業に興味を持った。
殺人の罪を犯したものは死を持って償うのが当然だと単純に思っていたけれど・・・・。
冤罪だと思われる人が死刑になったり、
自分から死刑でなければいけないと思う者。
罪の意識が薄い者。
突発的に殺人を犯し、深く反省する者。
著者も書いておられたが、悲惨な事件を一つでも減らすには、これらさまざまな者たちの心情を知ることに意味があるのではないかと思う。
Posted by ブクログ
忘れることのない本になると思います。
半世紀に渡り教誨師を勤め上げた渡邉さんには敬服いたします。
死刑執行の場面は自然に手に汗が湧いてくるほど重い。
死の直前のふるまい。緊迫する刑務官。読経の響き。
ロープがギッシギシと音を立てる。
加害者側の背景や死刑執行までの過程が描かれていくが、もしここに被害者のほうからの視点も織り交ぜながら描かれていれば私はどうしても死刑制度はありと答えてしまう…
そもそも、死刑制度について賛成か否定か そんな話ではないくらい深い本でした。
Posted by ブクログ
以前この方の本を読んだので
引き続き読んでみたいと思ってこの本を選びました。
死刑囚という人達を見たこともない私にとっては、
メディアの情報のみから受ける印象しかありませんでした。
数々の接点やタイミング 条件が違っていれば
彼らは死刑囚というほどの犯罪を犯さずにすんだかもしれない。
私達は人を裁く事は できない。
でも、罪を犯した人をほおって置く事もできない。
まして 死刑を!と 声高々に言えないし、廃止!とも 言えません。
この教誨師の死刑囚に対する態度などは
他の場面でも共通の事なのかもしれないと思った。
多くの人の命を 目の前で失い
僧侶といっても つらかった事だと思います。
しんどい本ですが 若い人たちにも読んでもらいたい
一冊です。