Posted by ブクログ
2018年07月26日
広島の平和記念公園は設計者の丹下健三氏の思想から、原爆ドームを悲劇と平和の象徴として中心に据えることを意図してつくられており、訪れた人が平和の祈りを捧げる目線の先にドームがくるように周辺施設は配置された。
しかしその原爆ドームから少し離れた場所に原爆供養塔という、原爆の犠牲になった七万柱の遺...続きを読む骨が安置されていることは、あまり知られていない。
広島や原爆に関する本は少なからず読んできたと思っていた自分も、原爆供養塔というものがあることを初めて知った。見た目は巨大な土饅頭で、一見してもなんだかわからない。古墳と説明されても納得しそうな外観だ。
昭和33年のある日、被爆者のある女性が平和記念公園に立ち寄った。その折に公園の片隅にあった土饅頭と呼ばれる塚の前に立った。この塚の下には何十万人もの原爆犠牲者の遺骨が安置されていると聞いていた、しかし、そこは掃除がされている様子もなく、草が伸び放題だった。原爆慰霊碑には手を合わせていく人は多いのに、原爆供養塔には誰も手を合わせない。原爆慰霊碑には原爆犠牲者の名簿は納められているが、遺骨は原爆供養塔のほうにある。なにか違和感があった。
その日から彼女の供養塔への日参がはじまる。一年中休むことなく。それが犠牲者への供養となり、生きのびたことへの自責の念を浄化させることにつながるように思えたから。
彼女の名前は佐伯敏子。何十年にもわたって体が動く限り、原爆供養塔の祈りと日々の清掃を続け、安置所内の遺骨を家族のもとに帰す活動を続けた人だ。病気で動けなくなってからも常に気にかけ続けた。
彼女の原爆体験は壮絶だ。被爆直後に母親を探すために中心部へとむかった彼女は、ひどい熱傷で顔の判別がつかなくなった多くの被爆者の足を踏みつけ、痛みで声をあげさせた。顔では判断できないから声で母親を見つけようとしたのだ。
その当時は必死で、ごめんなんさいと言いながらも、仕方ないことと心を傷みることもなかったが、時間が経つにつれて、なんて酷いことをしたのかと心を痛めるようになった。
被曝の後遺症で、下痢や嘔吐を繰り返して痛みでのたうちわまって死んでいった兄を、看取ることもなく牛小屋でひとりで死なせてしまったこともあった。当時は感染のリスクがあるからと納得していたが、あんなにやさしくしてくれた兄にひどい仕打ちをしてしまったという悔いは時がたつほどに募った。
あるとき供養塔の内部の遺骨を掃除すると、骨壺のなかには名前や被爆時にいた場所、住所まで書かれているメモがあることに気づいた。どうしてここまで詳しいことがわかっているのに、この遺骨は家族のもとに帰れないのだろう、と不思議に思った。そんな骨壺は無数にあった。
「もしかしたら、ここに遺骨があることを知らないのではないか」
彼女はそれらのメモ書きのなかで比較的近い場所を訪れてみようと決めた。彼女のこの些細な行動から、家族の帰りを待ちつづけた多くの遺族のもとへ、遺骨が帰る大きな物語へとつながっていく。
詳しくは本書を読んでいただきたい。
平和記念公園が整備計画が進むにつれて、行政は供養塔の維持管理をほっぽらかし、存在なんて無くしてしまいたいかのように扱う。
佐伯さんは「平和公園」という言葉を使いたがらなかった。あそこは「地獄公園」だ、と言っていた。なんでもかんでも平和というきれいな言葉にして、原爆慰霊碑に眠る七万体もの犠牲者と、その苦しみを忘れさせようとする、その言葉が佐伯さんは気に入らなかった。
この言葉が自分には一番響いた。
平和への祈りはもちろん大切だ。平和記念公園の存在意義が否定されているわけでもない。 しかし、平和を最も希求した被爆者たちの、地獄が、苦しみが後世に薄らいで伝っていいはずがない。薄らいだ分だけ、平和への願いも薄らいでいく。もしかしたら、そのうち原爆は必要悪だったなんて言葉が広島からも聞こえてくるようになるかもしれない。
この本、第47回大宅賞を受賞したのに、全国的には全く売れていない。
広島や原爆を語る上で、もっと広く読まれていい本だ。文庫化されて手に取りやすくなったことだし、大人だけじゃなく、夏休みの課題図書に選定して、高校生にも読んでほしい。