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食い扶持を稼ぐための仕事と、生きるための仕事。国家と個人、異なるアイデンティティへの対応。新しい時代への適応。現代の我々も抱える葛藤と対峙し続けてきた漱石。漱石がぶつかった問題は、いまの私たちが抱える問題である!
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Posted by ブクログ
それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだということに、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分...続きを読む量の多少すべて他を目安にして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威ともに自己の手中にはないことになる。したがって自分が最上と思う製作を世間に勧めて世間はいっこう顧みなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求を恣(ほしいまま)にしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。この自己を曲げるということは成功にはたいせつであるが心理的にははなはだ厭なものである。なかんずく最も厭なものはいかな好な道でもある程度以上に強いられてその性質が次第に嫌悪に変化するときにある。ところが職業とか専門とかいうものは前申すとおり自分の需要以上その方面に働いてそうしてその自分に不要な部分を挙げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にしていえば当初から不必要でもあり、厭でもあることをしいて遣るという意味である。よく人が商売となるとなんでも厭になるものだと言いますがその厭になる理由はまったくこれがためなのです。いやしくも道楽であるあいだは自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのは已(やむ)を得ない。打ち明けたお話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を括り付けられればどうしたって面白くはゆかないに極っています。元来己を捨てるということは、道徳からいえば已を得ず不徳を犯そうし、知識からいえば己の程度を下げて無知なこともいおうし、人情からいえば己の義理を低くして阿漕な仕打もしようし、趣味からいえば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾き易いから困るのである。たとえば新聞を拵えてみても、あまり下品なことは書かない方が宜しいと思いながら、すでに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌を取らなければ立ち行かない。要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活する自然の理である。 ただここにはどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これ等はまあ特別の一階級とでも見做すよりほかに仕方がないのです。哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入られるわけでもなし、世の中でもこれ等の人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりすることもきわめて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠って深い考に沈んだりして万事を等閑に付している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。それから芸術家もそうです。こうもしたらもっと評判が好くなるだろう。ああもしたらまだ活計向(くらしむき)の助けにもなるだろうと傍の者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人は決してそんな作略はない。ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。もっとも当人がすでに人間であって相応に物質的嗜欲のあるのはむろんだから多少世間と折合って歩調を改めることがないでもないが、まあだいたいからいうと自我中心で、ごく卑近の意味の道徳からいえばこれほど我儘のものはない、これほど道楽なものはないくらいです。既にお話をしたとおりおよそ職業として成立するためにはなにか人のためにする、すなわち世の嗜好に投ずると一般の御機嫌を取るところがなければならないのだが、本来からいうと道楽本位の科学者とか哲学者とかまた芸術家というものはその立場からしてすでに職業の性質を失っているといわなければならない。実際今の世で彼等は名前には職業として存在するが実質のうえではほとんど職業として認められないほど割に合わない報酬を受けているのでこの辺の消息はよく分るでしょう。現に科学者哲学者などは直接世間と取引しては食ってゆけないからたいていは政府の保護の下に大学教授とかなんとかいう役になってやっと露命をつないでいる。芸術家でも時に容れられず世から顧みられないで自然本位を押し通す人はずいぶん惨憺たる境遇に沈淪しているものが多いのです。御承知の大雅堂でも今でこそたいした画工であるがその当時豪も世間向の画をかかなかったために生涯真葛が原の陋居に潜んでまるで乞食と同じ一生を送りました。フランスのミレーも生きているあいだは常に物質的の窮乏に苦しめられていました。またこれは個人の例ではないが日本の昔にあった禅僧の修行などというものも極端な自然本位の道楽生活であります。彼らは見性のため究真のためすべてを抛(なげう)って座禅の工夫をします。目前と座していることがなんで人のためになりましょう。善い意味にも悪い意味にも世間とは没交渉である点から見て彼等禅僧は立派な道楽ものであります。したがって彼等はその苦行難業に対して世間からなんらかの物質的報酬を得ていません。麻の法衣を着て麦の飯を食ってあくまで道を求めていました。要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不為になるのであります。 以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明かなようであります。ことに芸術家で己のない芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心で遣る仕事には自己という精神が籠るはずがない。すべてが借りものになって魂の宿る余地がなくなるばかりです。私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種類に属する人間といって差支ないでしょう。しかもなにか書いて生活費を取って食っていけるのです。手短かにいえば文学を職業としているのです。けれども私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間の御機嫌を取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発言の結果が偶然人のためになって、人に気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響してきたのだと見るのがほんとうだろうと思います。もしこれが天から人のためばかりの職業であって、根本的に己を枉(ま)げてはじめて存在し得る場合には、私は断然文学を止めなければならないかもしれぬ。さいわいにして私自身を本位にした趣味なり批判なりが、偶然にも諸君の気に合って、その気に合った人にだけ読まれ、気に合った人だけから少なくとも物質的の報酬(あるいは感謝でも宜しい)を得つつ今日まで押してきたのである。いくら考えても偶然の結果である。この偶然が壊れたひにはどっち本位にするかというと、私は私を本位にしなければ作物が自分から見てものにならない。私ばかりじゃない誰しも芸術家である以上はそう考えるでしょう。したがってこういう場合には、世間が芸術家を自分に引付けるよりも自分が芸術家に食付(くっつ)いていくよりほかにしようがないのであります。食付いてゆかなければそれまでという話である。芸術家とか学者とかいうものは、この点において我儘のものであるが、その我儘なために彼等の道において成功する。他の言葉でいうと、彼等にとっては道楽すなわち本職なのである。彼等は自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵えもしない。いたって横着な道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだから已を得ないのです。そういう人をして己を捨てなければ立ち行かぬように強いたりまたは否応なしに天然を枉げさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果に陥るのです。私は新聞に関係がありますが、さいわいにして社主からしてモッと売れ口の宜いような小説を書けとか、あるいはモッとたくさん書かなくちゃ不可んとか、そういう外圧的の注意を受けたことは今日までとんとありませぬ。社のほうでは私に私本位の下に述作することを大体のうえで許してくれつつある。その代り月給も昇げてくれないが、いくら月給を昇げてくれてもこういう取扱を変じて万事営業本位だけで作物の性質や分量を規定されてはそれこそ大いに困るのであります。私ばかりではないすべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。彼等は一も二もなく道楽本位に生活する人間だからである。たいへん我儘のようであるけれども、事実そうなのである。したがって恒産のない以上科学者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起して、その反響が物質的報酬となって現れてこない以上は餓死するよりほかに仕方がない。己を枉げるということと彼等の仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。 私は職業の性質やら特色についてはじめに一言を費やし、開化の趨勢上その社会に及ぼす影響を述べ、最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような一種の変体のあることを御吹聴に及んで私などの職業がどの点まで職業でどの点までが道楽であるかを諸君にだいたい理会せしめたつもりであります。これでこの講演を終わります。 もっと定義を下すについてはよほど気を付けないととんでもないことになる。これをむずかしく言いますと、定義を下せばその定義のために定義を下されたものがピタリと糊細工のように強張ってしまう。複雑な特性を簡単に纏める学者の手際と脳力とには敬服しながらも一方においてその迂闊を惜まなければならないようなことが彼等の下した定義を見るとよくあります。その弊所をごく分り易く一口にお話すれば生きたものをわざと四角四面の棺の中へ入れてことさらに融通が利かないようにするからである。 この「積極的」「開化」に対する「消極的」な「開化」は、「活力節約の行動」となって現象する。「職業」がまさにそういう領域なのだ。他者から「強いられて已を得ずする仕事はできるだけ分量を圧搾して手軽に済ましたい」と人は思うのである。「人から強いられ」た仕事を片づけて、「早く自由になりたい」と思う「根性が常に胸の内に付け纏わっている」、この「根性」が「活力節約の工夫となって開化なるものの一大原動力を構成する」と漱石は力説している。 まず、他者から強いられた、自発的にやりたいわけではない、義務としての「仕事」がある。この考え方は「道楽と職業」における「他人本位」の「職業」のとらえ方と重なっている。やりたくあい「仕事」なのだから、なるべく自分の「活力」を使わないで済む、「節約」のための「工夫」をすることになる。これが「価値力節約の行動」にほかならない。 これに対して「活力消耗の趣向」の場合は、「外界の刺激」は、自分の「求め」る欲望の対象なのであり、その欲望を実現すれば「快」を得られるのだから、自分の「活力」をいくらでも「消耗」してもかまわないのである。 「活力」を「消耗」すればするほど、「快」が得られるのだから、「消耗」するための「工夫」としての「趣向」が練られていくのである。 「活力節約の行動」と「活力消耗の趣向」は、「節約」と「消耗」だけに注目すると二項対立的な概念のようにとらえられてしまうが、少し考えてみると、全く異質な論理の下にある、非対称な関係に措かれていることが分かる。 第一に「活力」を使うことに対して前者の場合は不快で、後者は「快」となる。第二に前者では他者から「義務」が与えられて行動するのに対し、後者では自己の欲望にしたがって行動するのである。第三に前者の場合、なるべく「仕事」に力を使われないための「工夫」に力が注がれるのに対し、後者の場合は「外界の刺激」そのものに身をゆだねることが「快」につながる。 「積極的」な「開化」は、人が自分の「個性」から発する欲望とその実現による快楽に忠実になり、そこに「活力」を使って、「消耗」していくときに現象する。「道楽と職業」との関連で言えば、「自己本位」としての「道楽」をしているときが、「積極的」「開化」なのだ。 「積極的」「開化」の成果は、「道楽」と「職業」の論点でもあったように、多くの場合芸術の領域や学問の領域であらわれることになる。 それに対して「消極的」「開化」の場合は、同じ「仕事」をするにしても、「工夫」をすれば「活力節約が可能になる」ことを追求するのだ。その実践が「活力節約の行動」である。いわゆる西洋からもたらされた、機械文明としての文明開化は、この「消極的」「開化」にすぎない、と漱石は断定する。 活力節約のほうからいえばできるだけ労働を少なくしてなるべくわずかな時間に多くの働きをしようしようと工夫する。その工夫が積り積って汽車汽船はもちろん電信電話自 動車たいへんなものになりますが、元を糾せば面倒を避けたい横着心の発達した便法にすぎないでしょう。 まず産業革命以後の、「汽車汽船」が槍玉に挙げられていく。化石エネルギーである石炭を燃やして水を水蒸気にし、それによって動かすものだ。 次に電気エネルギーを使用する電気通信システムとしての「電信電話」、液状の化石エネルギーである石油から精製される軽油やガソリンを爆発させる内燃機関で駆動する「自動車」、機械文明の輝かしい成果だとされてきた交通交信手段が、一括されて「横着心の発達した便法にすぎない」と漱石によって切り捨てられるのだ。 利便性という近代資本主義システムを貫いている、根底的な価値観の一つによって生み出されてきた機械文明を、「横着心の発達した便法にすぎない」と批判しつくしたところに、百年以上前の夏目漱石の文明批評の要がある。 「できるだけ身体は使いたくない」となると「人力車」が発明され、「自転車」となり「電車にも変化し自動車または飛行機にも化け」るのだ。「歩かないで用を足す工夫」をして、「訪問が郵便になり、郵便が電報になり、その電報がまた電話になる」のである。なるべく「活力消耗」をしないようにする工夫、「身を粉にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするない冗談じゃねえという発奮」こそが、「怪物のように辣腕な器械力と豹変した」と漱石はとらえている。「器械力」が発明される歴史的経緯それ自体が「現代日本の開化」なのだ。 すべて政治家なり文学者なりあるいは実業家なりを比較する場合に誰より誰のほうが偉いとか優っているとかいって、一概に上下の区別を立てようとするのは、たいていの場合においてその道に暗い素人のやることであります。専門の知識が豊かでよく事情が精しく分っていると、そう手短に纏めた批評を頭の中に貯えて安心する必要もなく、また批評をしようと知れば複雑な関係が頭に明瞭に出てくるからなかなか「甲より乙が偉い」という簡潔な形式に追って判断が浮んでこないのであります。幼稚な知識を有った者、没分暁漢あるいは門外漢になると知らぬことを知らないで済しているのが至当であり また本人もそのつもりで平気でいるのでしょうが、どうも処世上の便宜からそう無頓着でいにくくなる場合があるのと、一つは物数寄にせよ問題の要点だけは胸に畳み込んでおくほうが心丈夫なので、とかく最後の判断のみを要求したがります。さてその最後の判断といえば善悪とか優劣とかそう範疇はたくさんないのですがむりにもこの尺度に合うようにどんな複雑なものでも委細お構なく切り約められるものと仮定してかかるのであります。中味は込み入っていて目がちらちらするだけだからせめて締括った総勘定だけ知りたいというなら、まだ穏当な点もあるが、どんな動物を見ても要するにこれは牛かい馬かいと牛馬一点張りですべて四つ足を品隲(ひんしつ)されてはだいぶ無理ができる。門外漢というものはこの無理に気が付かない。また気が付いても構わない。どんな無理な判断でも与えてくれさえすれば安心する。だからお上でも高等官一等を拵えてみたり、二等を拵えてみたり、あるいは学士・博士を拵えてみたりして門外漢に対して便宜を与え、一種の締括りある二字か三字の記号を本来の区別と心得て満足する連中に安慰を与えている。以上を一口にしていえばものの内容を知り尽くした人間、中味のうちに生息している人間はそれほど形式に拘泥しないし、また無理な形式を喜ばない傾があるが、門外漢になると中味が分らなくってもとにかく形式だけは知りたがる、そうしてその形式がいかにそのものを現すに不適当であってもなんでも構わずに一種の知識として尊重するということになるのであります。 ここに学者なるものがあって、突然声を大にして、それは明かに矛盾である、どっちか一方が善くって一方が悪いに極っている、あるいは一方が一方より小さくて一方が大きいに違いないから、一纏めにしてモッと大きなもので括らなければならないといったならば、この学者は統一好きな学者の精神はあるにもかかわらず、実際には疎い人といわなければならない。現にオイケンという人の著述を数多くは読んでおりませんが、私の読んだかぎりでいえば、こんな非難を加えることができるようにも思います。こう論じてくるとなんだか学者は無用の長物のようにもみえるでしょうが私は決してそんな過激の説を抱いているものではありません。学者はむろん有益のものであります。学者のやる統一、概括というもののお陰で我々は日常どのくらい便宜を得ているか分かりません。まえに挙げた進化論という三字の言葉だけでもたいへん重宝なものであります。しかしながら彼等学者にはすべてを統一したいという念が強いために、でき得るかぎりなんでも統一しようとあせる結果、また学者の常態として冷然たる傍観者の地位に立つ場合が多いため、ただ形式だけの統一で中味の統一にもなんにもならない纏め方をして得意になることも少なくないのは争うべからざる事実であると私は断言したいのです。 冷然たる傍観者の態度がなぜにこの弊を醸すとの御質問があるなら私はこう説明したい。ちょっと考えると、彼等は常人よりもはっきりした頭を有って、普通の者より根気強く、しっかり考えるのだから彼等の取扱う材料から一歩退いて佇立む(たたずむ)癖がある。いい換えれば研究の対象をどこまでも自分から離して目の前に置こうとする。徹頭徹尾観察者である。観察者である以上は相手と同化することはほとんど望めない。相手を研究し相手を知るというのは離れて知るの意でそのものになりすましてこれを体得するのとはまったく趣が違う。いくら科学者が綿密に自然を研究したって、畢竟ずるに自然は元の自然で自分も元の自分で、決して自分が自然に変化する時期が来ないごとく、哲学者の研究もまた永久局外者としての研究で当の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしていない場合が多い。学校の倫理の先生がいくら偉いことを言ったって、つまり生徒は生徒、自分は自分と離れているから生徒の動作だけを形式的に研究することはできても、事実生徒になって考えることは覚束ないのと一般である。傍観者というものは岡目八目ともいい、当局者は迷うという諺さえあるくらいだから、冷静に構える便宜があって観察する事物がよく分る地位には違ありませんが、その分り方は要するに自分のことが自分に分るのとは大いに趣を異にしている。こういう分り方で纏め上げたものは器械的に流れ易いのは当然でありましょう。換言すれば形式のうえではよく纏まるけれども、中味からいうといっこう纏まっていないというような場合が出てくるのであります。がつまり外からして観察をして相手を離れてその形を極めるだけで内部へ入り込んでその裏面の活動からしておのずから出る形式を捉ええないということになるのです。 古今道徳の区別はこれで切上げておいて話は突然文芸のほうへ移ります。もっとも文芸のほうの話は詳しくいうつもりではないから、必要な説明だけに留めて、ごくざっとしたところを申しますが、近年文芸のほうで浪漫主義および自然主義すなわちロマンチシズムとナチュラリズムという二つの言葉が広く行われてまいりました。そうしてこの二つの言葉は文芸界専有の述語でその他の方面には全く融通の利かないものであるかのごとく取扱われております。ところが私はこれからこの二つの言葉の意味性質をきわめて簡略に述べて、そうしてそれを前申し上げた昔と今の道徳に結び付けて両方を総合してごらんに入れようと思うのです。つまり浪漫主義も自然主義も文芸専有の言語ではないという意味が分ればその結果自然の勢いでこれ等がまた前説明した二種の道徳と関係してくるというのであります。 この浪漫主義自然主義の文学についてちょっと申上げるまえにあらかじめ諸君の御注意を煩わしておきたいことがありますが、前もお断り申したごとく今日のお話はすべて道徳と文芸との交渉関係でありますから、二種類の文学のうち(ことにロマン主義の文学のうち)道徳の分子の交ってこないものは頭から取除けて考えて頂きたい。それからよし道徳の分子が交っていても倫理的観念がなんらの挑撥を受けない――いな受けうべからざる底の文学もまた取り除けて考えていただきたい。それ等を除いたうえでこの二種類の文学を見渡してみると浪漫主義の文学あってはそのなかに出てくる人物の行為心術が我々より偉大であるとか、公明であるとか、あるいは感激性に富んでいるとかの点において、読者が倫理的に向上遷善の刺激を受けるのがその特色になっています。この影響は昔流行った勧善懲悪という言葉と関係はありますが、決して同じではない。ずっと高尚の意味でいうのですから誤解のないように願います。また自然主義の文学では人間をそう伝説的の英雄の末孫かなにかであるように勿体つけて有難そうには書かない。したがって読者も作者も倫理上の感激には乏しい。ことによると人間の弱点だけを綴り合せたように見える作物もできるのみならず往々その弱点がわざとらしく誇張される傾きさえあるが、つまりは普通の人間をただ有りの儘の姿に描くのであるから、道徳に関する方面の行為も疵瑕交出するということは免れない。ただこういう浅間しいところのあるのも人間本来の真相だと自分も首肯き他にも合点させるのを特色としている。この二つの文学を詳しく説明すればそれだけでだいぶ時間が経ちますから、まあ誰も知っているくらいの説明で御免を蒙って、この二つの文学がまえの二傾向の道徳をその作物中に反射しているということにさえ気がつけば、ここにはじめて文芸と道徳とがいずれの点において関係があるかということも明かになってこようと思います。 かえすがえす申すようですが題がすでに文芸と道徳でありますから、道徳の関係しない文芸のことは全然論外に置いて考えないと誤解を招き易いのであります。道徳に関係のない文芸のお話をすればいくらでもありますが、たとえば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に観てなにか話をしている最中になにかの拍子で、卑陋なお話ではあるが、大きな放屁をするとする。そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか。そこが問題なのである。というといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。まず私の考では相手が諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。もっとも実際遣ってみなければ分らない話だから、どっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである。これに反して相手が西洋人だと怒りそうである。どうしてこういう結果の相違を来すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだといわなければならない。すなわち西洋人が相手の場合には私の卑陋の振舞をいちずに徳義的に解釈して不徳義――なにも不徳義というほどのこともないでしょうが、とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかもしれません。ところが日本人だと存外単純に見做して、徳義的の批判を下すまえにまず滑稽を感じて噴き出すだろうと思うのです。私の鹿爪らしい態度と堂々たる演題とに心を傾けて、ある程度まで厳粛の気分を未来に延長しようという予期のあるやさきへ、突然人前では憚るべき音を立てられたのでその矛盾の刺激に堪えないからです。この笑う刹那には倫理上の観念は毫も頭を擡(もた)げる余地を見出し得ないわけですから、たとい道徳的批判を下すべき分子が混入してくる事件についても、これを徳義的に解釈しないで、徳義とはまるで関係のない滑稽とのみ見ることもできるものだという例証になります。けれどももし倫理的の分子が倫理的に人を刺激するようにまたそれを無関係の他の方面にそらすことができぬように作物中に入込んできたならば、道徳と文芸というものは、決して切り離すことのできないものであります。両者は元来別物であっておのおの独立したものであるというような説もある意味からいえば審理ではあるが、近来の日本の文士のごとく根柢のある自信も思慮もなしに道徳は文芸に不必要であるかのごとく主張するのははなはだ世人を迷わせる盲者の盲論といわなければならない。文芸の目的が徳義心を鼓吹するのを根本義にしていないことは論理上しかるべき見解ではあるが、徳義的の批判を許すべき事件が経となり緯となりて作物中に織り込まれるならば、またその事件が徳義的平面において吾人に善悪正邪の刺激を与えるならば、どうして両者をもって没交渉とすることができよう。 道徳と文芸の関係はだいたいにおいてかくのごときものであるが、なおまえに挙げた浪漫自然二主義についてこれ等がどういうふうに道徳と交渉しているかをもう少し明瞭に調べてみる必要があると思います。すなわちこの二種の文学についてどこが道徳的でどこが芸術的であるかを分解比較して一々点検するのであります。こうすれば文芸を道徳の関係がいっそう明瞭になるのみならず、また浪漫自然二文学の関係もまた一段とはっきりするだろうと思います。第一、浪漫派の内容からいうと、前申したとおり忠臣が出てきたり、孝子が出てきたり、貞女が出てきたり、その他いろいろの人物が出てきて、すべて読者の徳性を刺激してその刺激によって事を為す、すなわち読者を動かそうという方法を講じますから、その刺激を与える点はとりも直さず道義的であると同時に芸術的に違ない(文学というものが感情性のものであって芸術的であるけれども、その内容の取扱方に至るとあるいは非芸術的かもしれません。という意味はどうもその書き方によくない目的があるらしい。こういう事件をこう写してこう感動させてやろうとかこう鼓舞してやろうとか、術作そのものに興味があるよりも、あらかじめ胸に一物があって、それを土台に人を乗せようとしたがる。どうもややともするとそこに厭味が出てくる。私がこうやって演説をするにしても、私の一字一句に私というものが付きまつわっておってどうかして笑わせてやろう、どうかして泣かせてやろうと擽(くすぐ)ったり辛子を嘗めさせるような故意の痕跡が見え透いたらさらめしお聴き辛いことで、ために芸術品として見たる私の講演は大いに価値を損ずるごとく、いかに内容が良くても、言い方、取扱い方、書き方が、読者を釣ってやろうとか、挑撥してやろうとかすべて故意の趣があれば、その故意(わざ)とらしいところ不自然なところはすなわち芸術としての品位に関ってくるのです。こういう欠点を芸術上には厭味といって非難するのです。これに反して自然主義からいえば道義の念に訴えて芸術上の成功を収めるのが本領ではないから、作中にはすいぶん汚ないことも出てくる。鼻持のならないことも書いてある。けれどもそれが道心を沈滞せしめて向下堕落の傾向を助長する結果を生ずるならばそれは作家か読者かどっちかが悪いので、不善挑撥もまた決してこの種の文学の主意でないことは論理的に証明できるのである。したがって善悪両面ともに感激性の素因に乏しいという点から見て、そこが芸術的でないと難を打つことはできる。その代りその書振りや事件の取扱方にいたっては本来がただ有りの儘の姿を淡泊に写すのであるから厭味に陥ることは少ない・厭味とか厭味でないとかいうことはまえにも芸術上の批判であるとお断りしておきましたが、これが同時に徳義上の批判にもなるからして自然主義の文芸は内容のいかんにかかわらずやはり道徳と密接な縁を引いているのであります。というのはただ有りの儘を衒わないで真率に書くというのが厭味のない描写としての好所であるのであるが、その有りの儘を衒わないで真率に書くところを芸術的に見ないで道義的に批判したらやはり正直という言葉を同じ事象に対して用いられるのだからして、芸術と道徳も非常に接続していることが分りましょう。のみならず芸術的に厭味がなく道徳的に正直であるということがこの際同じ物を指しているばかりではなく理知の方面から見れば真という資格に相当するのだから、つまりは一つの物を人間の三大活力から分察したと異なるところはないのであります。三位一体と申しても可いでしょう。 こう分解してみると、一見道義的で貫いている浪漫派の作物に存外不徳義の分子が発見されたり、またちょっと考えると徳義の方面になんらかの注意を払わない自然派の流を汲んだものに妙に倫理上の佳所があったり、そうしてその道義的であるやいなやが一にその芸術的であるやいなやで決せられるのだから、二者の関係はいっそう明瞭になってきたわけであります。また浪漫・自然と名づけられる二種の文芸上の作物中にこの道徳の分子がいかに織り込まれるかもたいてい説明し得たつもりであります。
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