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「脳が死んでも体で話しかけてくる」 冷たい夏の日の夕方、25歳の青年が自死を図った。彼は意識が戻らないまま脳死状態に。生前、心を病みながらも自己犠牲に思いを馳せていた彼のため、父・柳田邦男は思い悩んだ末に臓器提供を決意する。医療、脳死問題にも造詣の深い著者が最愛の息子を喪って動揺し、苦しみ、生と死について考え抜いた最後の11日間。その日々を克明に綴った感動の手記。
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Posted by ブクログ
ちょっとした好奇心から読み始めたんだけど、望外の収穫が得られる良い本だった。 20年以上前の作品だけど人間の根源に関わる普遍的で全ての人が無関係ではいられないテーマで、まったく古さを感じさせない。それどころか、医学が発達するほどジレンマに陥る脳死という問題。 作者の息子さんの人生を追体験するかのよう...続きを読むな前半と、脳死論の二部構成。 次男の遺した文章を織り交ぜる内容でリアルな人物像が浮かび上がるが、一歩引いた視点でまとめられている。現実には父親として想像を絶する苦悩があっただろうに、ここまで冷静に綴られていることに感服した。それでも我が子への愛情がにじみ出ているのが胸を打つ。同時に、作家というのは因果な商売だなと。芸術家は壁にぶち当たった時にそれを昇華して素晴らしい作品を残すというのを本書で強く感じた。 次男が陥ってしまった不幸な状況、これは時代も大きく関係していると思う。高度成長期を経てバブル絶頂期にいたる過程で、日本人はみな″こうあらねばならない″といういわゆるイケイケな時代に産まれてしまった。現代もそう変わらないとは言え、今なら彼のような天才肌というのか人とは違う感受性の強い子供に多少理解はある社会に変わっているように思う。 科学的考察の後半部については、日本人という民族特有の観点から論じた死生観をからめつつ、作家の目を通した問題提起と彼なりに導き出した答えに概ね同意できた。 単純に知識が広がるだけでなく、自分だけではなかなか到達し得ない、新たなものの見方や考え方の幅が広がる、読書本来の良さが詰まっていると思う。 いのち 永遠にして
「家族にしてみれば、~脳だけを見て語りかけているのではない。温もりのある体全体、喜びや悲しみを表現してきた体全体に語りかけ、その体全体から最後の何かを読み取ろうとし、需要への物語を創ろうとしているのだ。」 とても素晴らしい1文だと思った。 このような考えや姿勢こそが、つまりは愛なのではないかと感じた...続きを読む。 脳死に限らず、人の死について考えることの出来る良書。
家族の生や死を描くことはできても、それと向き合う自分を描くのは簡単なことではない。言葉では何かを描き漏らしているような気がしてしまう。それでも一冊描き上げた柳田邦男はすごい。
誰にも言えず、誰にも理解されない苦しみ。 筆舌に尽くし難い思い。 それでも、人は、生きていく。 この本を通して背中を見せてくださった。
脳死。自分がそうなったら意識がないのだから死と同じ、延命治療は不要。そう思っていた。知ってるつもりでいたけれど、何にも分かっていなかったんだと思った。 脳の機能は失っていても身体が語りかけてきて、それを身内は感じる。そんな状況を経験したらとても脳死イコール死といったドライな考え方を持ち続けることはで...続きを読むきないんじゃないか。自分が声をかけると脳死状態にある人の血圧が上がったら、人工呼吸器を外すなんてことは考えられなくなりそう。 実際に脳死状態に陥った人の家族として経験された方ならではの意見はとても考えさせられるものがある。
この本を古本屋さんで見つけたとき、正直これほど感動するとは思っていませんでした。 打ちのめされました。壮絶な苦悩がこの家庭にはあり、普通ならなぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと運命を憎むかもしれません。 でもこの家庭は違いました。壮絶というより むしろ崇高という言葉がしっくりきます。 ...続きを読む 崇高な生き方ではないでしょうか。犠牲…というタイトルに込められた深い意味を理解するでしょう。
ノンフィクション作家、柳田邦夫さんの息子、洋二郎が自死をはかる。これまでの息子との会話から、息子が何を望んでいたか、父親としてどうするべきなのかを考え、臓器移植を決意していく。その決意までの思考を「生と死」「脳死問題」「臓器移植」などをキーワードにして、一人称、二人称、三人称の視点をおりまぜて書かれ...続きを読むている。 私が「脳死」や「臓器提供」について考えたのは、きっと将来の進路を決めた中学生の終わり、高校生の始まりの頃だった気がする。両親に「脳死になったら臓器提供したい」という意思表示をしたところ、反対された覚えがある。いまだに、臓器提供したい気持ちは変わらないが、私はこれから母親の立場になる。果たして、自分の子が「脳死」「臓器提供」という場面になったら、私は賛成するのだろうか。反対するのだろうか。 このキーワードはもぉ世の中の様々な出来事に埋もれつつあるワード。時代が少し進んだ時に読んでも再考するきっかけを与える本だと思う。
祖父母が亡くなり,叔母が生死の境を彷徨ってからというもの 死について真摯に考えることが増えました。そして,姪が産まれてから 生について考えることが増えました。 どんなに頑張っても人の命には限りがある。ならば,未来の子孫のために 私には何が出来るのかということ考え,自らに落としこんで考えるならば 劣化...続きを読むしない価値あるデータを,生み出すことであろうと,暫定的な解を導いていました。 それを成し遂げるまでには,自分は死ねないし,まだ取り組み始めに過ぎないとも思っています。 今回「犠牲 わが息子・脳死の11日」を読んで,考えることがありました。 自死をした洋次郎さんは,長らく精神を病んでいた。 精神を病む人は,周りの人にも結構多くいて(研究をする人は心を病む人も多い) それは何故かということを考えた時に,視野が狭くなっているからではないか と思っていました。特定の物差しで測られる世界に囚われ過ぎているから,精神を 病む可能性が高いのではないのかと。彼らのことを気にしつつも,彼らの傷と隣り合うと 自分の精神も引き込まれてしまうことへの恐れがあり,なかなか触れることが出来ない といったこともありました。ずっと気になってはいるんです。ふとした時に,彼らのことを 強く思い出すのです。そして,彼らの発した一言一言を思い出し,それはある面では 真実であったということも同時に思い出すのです。しかし,それが自分も含めた 大多数においては筋ではない,という論理から,それを弾き飛ばしてしまう, 悪く言えば排除してしまうことに微かな違和感も覚えていました。 それに対して,自分には何が出来るかを再考した時に,未だに答えは出ないのですが, 1つ思うことには,心を病みがちな友人のことであり,彼女は卓越した表現者であったということでした。 大学時代に行っていた演劇で,人の心の深層まで沁み入って表現をする必要があるシーン がありました。私は深層まで触れこむことがとても怖くて,客観的にしか役に対峙できなかった。 しかし,彼女は自分自身の心の深層を切り拓いて,役を自分自身に取り込んでいった。 その演技は,観客への大きな共鳴を産んだ。 亡くなった洋次郎さんは,そういった性質を持つ人だったように感じました。 人より感じてしまう,考えてしまう。文学に対して深い洞察を行うことが出来, 自分自身にも取り込んでしまう。ある種卓越した才能を持つ人には違いなかった。 しかし,それを外部の人と共有し発信することに対しても,強い恐怖心を抱いており, 書くことで書き続けることで光を求めようと試みたが,結局死を選んでしまった。 この本の後半のすごさは,そうして亡くなった洋次郎さんが一時的な心肺の蘇生,脳死状態への移行から死に 至った経緯に対して,邦男さんは圧倒的な喪失感と悲しみから, この私的な体験をなんとか公的な制度に反映させるために奔走したという点にあると思います。 家族が二人称としての死を体験した時に、それを受容するには時間と物語が必要であったということから 脳死について以下の様な提案をしています。 以下引用 (1)人はだんだんと死んでいくものだという自然の摂理を基本に置き、日本人の従来の死の概念を壊さないようにする。 つまり、一般的には心停止を持って死とするか、死の「前段階」である脳死の段階で死を受け入れるという人は、脳死での死亡を認められ、従って臓器提供が出来る。 (2)どの段階での死を選択するかは、あくまでも本人の生前の意志による、生前の意志の確認は、原則として自筆の文書(日記などを含む)によるが、 文書がない場合は、本人の意見を裏づける二人以上の信頼しうる証言を必要とする。家族の意思ではなく、あくまでも本人の意思を推定するに足る証言である。 とくに脳死を死とする場合は、本人の意思だけでなく、近親者の同意も必要である。 引用終わり 東洋的なファジーな思想を法律に組み込むべきだという大胆な提案。 結局、脳死は人の死とされ、ばっさりと切る法律になってしまった。家族の同意を取り付けられれば、医療者は臓器を移植できることになってしまった。 しかしながら、このような問題提起と、行動(講演会や文筆活動)を起こされたことは、とても重要なことではないかと思いました。 自分自身を振り返ってみても、自分の身に起こった出来事に対して、批判したり、ひどく落ち込むだけではなく、 現状を変えるための具体的な行動に出る、ということは、非常に重要な事だと感じています。 そして、この本によって、死生観というものが少し、変わりました。 早かれ遅かれ人はいずれ死ぬ。そうした時の命の尊さは死にゆく者と今生きているものとで どれほど違うものなのか。生き続けることの意味、人称による死の意味の違いについても、深く考えさせられました。 今、生きる、私達に、何が出来るのだろうか。何をすべきだろうか。どう生きるべきだろうか。 今も考え続けています。
精神を病んで自死を図り、その後脳死状態になった息子との11日間の記録。 大きく二部構成になっていて、前半は突然の息子の自死から、彼の臓器移植を決意するまでの過程が丁寧に書かれています。そして後半は脳死について柳田さんの思いが綴られています。 著者の柳田邦男さんはノンフィクション作家さんだけあって感...続きを読む情を抑えた文章で語られています。それが却って痛々しく辛い。 25歳の若さで死を選んだ柳田さんの次男洋二郎さんの書いた日記や短編小説がいくつか紹介されていますが、鋭い文章で書かれた短編小説を読むと、ご存命であったら今頃素晴らしい作家さんになられたのではないかと、尚更その死が惜しまれます。 ホスピスやターミナルケア、グリーフワーク(遺族の喪失感や悲しみのケアをすること)というと、ある程度の年月を生きた人の死に関わるものだと決めつけていましたが、この本では小児病院のホスピスも紹介されています。治癒できない症状を持って生まれてきて、短い生涯を閉じる子供の親にとって、これはとても必要なもの。普及を願います。 祖母は本人の遺志により献体し、母は死を迎えるまでの数ヶ月間植物状態だった経験から、臓器を含む身体は容器に過ぎない、脳が死んだ時が私が死ぬ時だと思って子どもたちにもそう伝えてきましたが、この本を読んで、例えば私が脳死状態になったとしても、彼らにも私の死と向き合う時間を与えてあげるべきかも知れないと思うようになりました。せめてそうやって遺族の感情と向き合ってケアしてくれる病院を探しておこうと思います。まだ考えはまとまりませんが、「延命措置はいらないからね」と言うだけでは無責任だと考えるようになりました。 最後の、医師を目指す高校生の読書感想文もとてもよかった。 いろんなことを考えさせられる本でした。
「冷たい夏の夕暮れに」、神経症というこころの病を抱えた次男洋二郎が25歳で自死を図り,脳死に至る。その11日間の揺れ動く家族の記録と、そこに生前の彼の日記、遺稿集、友達からの追悼の手紙などをはさみ、彼がどう生きていたのかを浮き彫りにしている。生きていた証しを、父親として丁寧に記している。 著者は脳...続きを読む死の専門家。<今こそ「科学知識による自己コントロール」という生活信条を実践しなければ>と考える。 しかし、著者は医療に関する本は数千冊、「脳死と臓器移植に関する本」も数十冊持っているが、「確実に脳死状態に陥っていく息子に対し」それが「ほとんど役に立たないことに気づいた」。 それは三人称の死ではなく、二人称の死だからである。 こころの病を持っていた「彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった」。これをガルシア=マルケスの「百年の孤独」に重ねていた。 一方、彼は詩人で映画監督のタルコフスキーの映画「サクリファイス(犠牲)」に感動し、「名も知れぬ人間の密やかな自己犠牲」に「こころを惹かれていた」。 彼は骨髄バンクに登録していた。骨髄移植のドナーである。 脳死をもって死とするという考え方が多い。ここには臓器移植による要請がある。 しかし、大事な家族、二人称の死を受け入れるには、最後に静かな時間と場が必要なのだ。物語る時間が必要なのだ。 そして死はプロセスであり、急いではならない。どこを持って死とするかは本人の意思と近親者の同意によるべきであると、著者は考える。ファジーな死である。 「脳死患者だからといって、放置するのではなく、私たちは生きている患者さんと同じように最後までお世話します」と医者が言ってくれた。 「なるべく話しかけてくださいね」と看護師も言ってくれる。「言葉はしゃべらなくても、体が会話してくれる」と家族は思う。 著者たち家族は彼の意志を叶えるために、骨髄移植の可能性を探るが、それが困難と分かった時点で、可能性のある腎臓移植へ方向転換し、結果的に二人の人に移植は成功する。 友達は彼のことを、「何事にも悩んだり迷ったりするチャーリー・ブラウンに例えて『チャーリー』と呼んでいた。」 彼はカフカと阿部公房が好きだった。私と同じだ。 大江健三郎が好きだったのは違う。大江の文学に救いを求めたのだった。 大江の作品の中で、エリアーデの「indestructibility(破壊し得ないこと)」という言葉を知り、「自分の生への支えとしようとしていた」のだった。 この本は、著者の息子の自死に対する、グリーフワーク(悲しみを癒す作業)である。同時にそこで得られた、二人称の死という概念と、脳死、臓器移植という現代的な問題に対する著者の説得力のある体験と深い思索の結晶である。 こころを揺さぶられる、素晴らしい本である。
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犠牲 わが息子・脳死の11日
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柳田邦男
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