【感想・ネタバレ】犠牲 わが息子・脳死の11日のレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

「家族にしてみれば、~脳だけを見て語りかけているのではない。温もりのある体全体、喜びや悲しみを表現してきた体全体に語りかけ、その体全体から最後の何かを読み取ろうとし、需要への物語を創ろうとしているのだ。」
とても素晴らしい1文だと思った。
このような考えや姿勢こそが、つまりは愛なのではないかと感じた
脳死に限らず、人の死について考えることの出来る良書。

0
2023年08月21日

Posted by ブクログ

家族の生や死を描くことはできても、それと向き合う自分を描くのは簡単なことではない。言葉では何かを描き漏らしているような気がしてしまう。それでも一冊描き上げた柳田邦男はすごい。

0
2022年10月25日

Posted by ブクログ

誰にも言えず、誰にも理解されない苦しみ。
筆舌に尽くし難い思い。
それでも、人は、生きていく。
この本を通して背中を見せてくださった。

0
2021年10月24日

Posted by ブクログ

脳死。自分がそうなったら意識がないのだから死と同じ、延命治療は不要。そう思っていた。知ってるつもりでいたけれど、何にも分かっていなかったんだと思った。
脳の機能は失っていても身体が語りかけてきて、それを身内は感じる。そんな状況を経験したらとても脳死イコール死といったドライな考え方を持ち続けることはできないんじゃないか。自分が声をかけると脳死状態にある人の血圧が上がったら、人工呼吸器を外すなんてことは考えられなくなりそう。
実際に脳死状態に陥った人の家族として経験された方ならではの意見はとても考えさせられるものがある。

0
2018年04月30日

Posted by ブクログ

この本を古本屋さんで見つけたとき、正直これほど感動するとは思っていませんでした。

打ちのめされました。壮絶な苦悩がこの家庭にはあり、普通ならなぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと運命を憎むかもしれません。

でもこの家庭は違いました。壮絶というより
むしろ崇高という言葉がしっくりきます。

崇高な生き方ではないでしょうか。犠牲…というタイトルに込められた深い意味を理解するでしょう。

0
2018年03月07日

Posted by ブクログ

ノンフィクション作家、柳田邦夫さんの息子、洋二郎が自死をはかる。これまでの息子との会話から、息子が何を望んでいたか、父親としてどうするべきなのかを考え、臓器移植を決意していく。その決意までの思考を「生と死」「脳死問題」「臓器移植」などをキーワードにして、一人称、二人称、三人称の視点をおりまぜて書かれている。
私が「脳死」や「臓器提供」について考えたのは、きっと将来の進路を決めた中学生の終わり、高校生の始まりの頃だった気がする。両親に「脳死になったら臓器提供したい」という意思表示をしたところ、反対された覚えがある。いまだに、臓器提供したい気持ちは変わらないが、私はこれから母親の立場になる。果たして、自分の子が「脳死」「臓器提供」という場面になったら、私は賛成するのだろうか。反対するのだろうか。
このキーワードはもぉ世の中の様々な出来事に埋もれつつあるワード。時代が少し進んだ時に読んでも再考するきっかけを与える本だと思う。

0
2017年07月24日

Posted by ブクログ

祖父母が亡くなり,叔母が生死の境を彷徨ってからというもの
死について真摯に考えることが増えました。そして,姪が産まれてから
生について考えることが増えました。
どんなに頑張っても人の命には限りがある。ならば,未来の子孫のために
私には何が出来るのかということ考え,自らに落としこんで考えるならば
劣化しない価値あるデータを,生み出すことであろうと,暫定的な解を導いていました。
それを成し遂げるまでには,自分は死ねないし,まだ取り組み始めに過ぎないとも思っています。

今回「犠牲 わが息子・脳死の11日」を読んで,考えることがありました。
自死をした洋次郎さんは,長らく精神を病んでいた。
精神を病む人は,周りの人にも結構多くいて(研究をする人は心を病む人も多い)
それは何故かということを考えた時に,視野が狭くなっているからではないか
と思っていました。特定の物差しで測られる世界に囚われ過ぎているから,精神を
病む可能性が高いのではないのかと。彼らのことを気にしつつも,彼らの傷と隣り合うと
自分の精神も引き込まれてしまうことへの恐れがあり,なかなか触れることが出来ない
といったこともありました。ずっと気になってはいるんです。ふとした時に,彼らのことを
強く思い出すのです。そして,彼らの発した一言一言を思い出し,それはある面では
真実であったということも同時に思い出すのです。しかし,それが自分も含めた
大多数においては筋ではない,という論理から,それを弾き飛ばしてしまう,
悪く言えば排除してしまうことに微かな違和感も覚えていました。

それに対して,自分には何が出来るかを再考した時に,未だに答えは出ないのですが,
1つ思うことには,心を病みがちな友人のことであり,彼女は卓越した表現者であったということでした。
大学時代に行っていた演劇で,人の心の深層まで沁み入って表現をする必要があるシーン
がありました。私は深層まで触れこむことがとても怖くて,客観的にしか役に対峙できなかった。
しかし,彼女は自分自身の心の深層を切り拓いて,役を自分自身に取り込んでいった。
その演技は,観客への大きな共鳴を産んだ。
亡くなった洋次郎さんは,そういった性質を持つ人だったように感じました。
人より感じてしまう,考えてしまう。文学に対して深い洞察を行うことが出来,
自分自身にも取り込んでしまう。ある種卓越した才能を持つ人には違いなかった。
しかし,それを外部の人と共有し発信することに対しても,強い恐怖心を抱いており,
書くことで書き続けることで光を求めようと試みたが,結局死を選んでしまった。

この本の後半のすごさは,そうして亡くなった洋次郎さんが一時的な心肺の蘇生,脳死状態への移行から死に
至った経緯に対して,邦男さんは圧倒的な喪失感と悲しみから,
この私的な体験をなんとか公的な制度に反映させるために奔走したという点にあると思います。
家族が二人称としての死を体験した時に、それを受容するには時間と物語が必要であったということから
脳死について以下の様な提案をしています。

以下引用
(1)人はだんだんと死んでいくものだという自然の摂理を基本に置き、日本人の従来の死の概念を壊さないようにする。
つまり、一般的には心停止を持って死とするか、死の「前段階」である脳死の段階で死を受け入れるという人は、脳死での死亡を認められ、従って臓器提供が出来る。
(2)どの段階での死を選択するかは、あくまでも本人の生前の意志による、生前の意志の確認は、原則として自筆の文書(日記などを含む)によるが、
文書がない場合は、本人の意見を裏づける二人以上の信頼しうる証言を必要とする。家族の意思ではなく、あくまでも本人の意思を推定するに足る証言である。
とくに脳死を死とする場合は、本人の意思だけでなく、近親者の同意も必要である。
引用終わり

東洋的なファジーな思想を法律に組み込むべきだという大胆な提案。
結局、脳死は人の死とされ、ばっさりと切る法律になってしまった。家族の同意を取り付けられれば、医療者は臓器を移植できることになってしまった。
しかしながら、このような問題提起と、行動(講演会や文筆活動)を起こされたことは、とても重要なことではないかと思いました。
自分自身を振り返ってみても、自分の身に起こった出来事に対して、批判したり、ひどく落ち込むだけではなく、
現状を変えるための具体的な行動に出る、ということは、非常に重要な事だと感じています。

そして、この本によって、死生観というものが少し、変わりました。
早かれ遅かれ人はいずれ死ぬ。そうした時の命の尊さは死にゆく者と今生きているものとで
どれほど違うものなのか。生き続けることの意味、人称による死の意味の違いについても、深く考えさせられました。
今、生きる、私達に、何が出来るのだろうか。何をすべきだろうか。どう生きるべきだろうか。
今も考え続けています。

0
2014年12月11日

Posted by ブクログ

精神を病んで自死を図り、その後脳死状態になった息子との11日間の記録。
大きく二部構成になっていて、前半は突然の息子の自死から、彼の臓器移植を決意するまでの過程が丁寧に書かれています。そして後半は脳死について柳田さんの思いが綴られています。

著者の柳田邦男さんはノンフィクション作家さんだけあって感情を抑えた文章で語られています。それが却って痛々しく辛い。
25歳の若さで死を選んだ柳田さんの次男洋二郎さんの書いた日記や短編小説がいくつか紹介されていますが、鋭い文章で書かれた短編小説を読むと、ご存命であったら今頃素晴らしい作家さんになられたのではないかと、尚更その死が惜しまれます。
ホスピスやターミナルケア、グリーフワーク(遺族の喪失感や悲しみのケアをすること)というと、ある程度の年月を生きた人の死に関わるものだと決めつけていましたが、この本では小児病院のホスピスも紹介されています。治癒できない症状を持って生まれてきて、短い生涯を閉じる子供の親にとって、これはとても必要なもの。普及を願います。

祖母は本人の遺志により献体し、母は死を迎えるまでの数ヶ月間植物状態だった経験から、臓器を含む身体は容器に過ぎない、脳が死んだ時が私が死ぬ時だと思って子どもたちにもそう伝えてきましたが、この本を読んで、例えば私が脳死状態になったとしても、彼らにも私の死と向き合う時間を与えてあげるべきかも知れないと思うようになりました。せめてそうやって遺族の感情と向き合ってケアしてくれる病院を探しておこうと思います。まだ考えはまとまりませんが、「延命措置はいらないからね」と言うだけでは無責任だと考えるようになりました。

最後の、医師を目指す高校生の読書感想文もとてもよかった。
いろんなことを考えさせられる本でした。

0
2014年06月11日

Posted by ブクログ

「冷たい夏の夕暮れに」、神経症というこころの病を抱えた次男洋二郎が25歳で自死を図り,脳死に至る。その11日間の揺れ動く家族の記録と、そこに生前の彼の日記、遺稿集、友達からの追悼の手紙などをはさみ、彼がどう生きていたのかを浮き彫りにしている。生きていた証しを、父親として丁寧に記している。

著者は脳死の専門家。<今こそ「科学知識による自己コントロール」という生活信条を実践しなければ>と考える。

しかし、著者は医療に関する本は数千冊、「脳死と臓器移植に関する本」も数十冊持っているが、「確実に脳死状態に陥っていく息子に対し」それが「ほとんど役に立たないことに気づいた」。

それは三人称の死ではなく、二人称の死だからである。

こころの病を持っていた「彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった」。これをガルシア=マルケスの「百年の孤独」に重ねていた。

一方、彼は詩人で映画監督のタルコフスキーの映画「サクリファイス(犠牲)」に感動し、「名も知れぬ人間の密やかな自己犠牲」に「こころを惹かれていた」。

彼は骨髄バンクに登録していた。骨髄移植のドナーである。

脳死をもって死とするという考え方が多い。ここには臓器移植による要請がある。

しかし、大事な家族、二人称の死を受け入れるには、最後に静かな時間と場が必要なのだ。物語る時間が必要なのだ。

そして死はプロセスであり、急いではならない。どこを持って死とするかは本人の意思と近親者の同意によるべきであると、著者は考える。ファジーな死である。

「脳死患者だからといって、放置するのではなく、私たちは生きている患者さんと同じように最後までお世話します」と医者が言ってくれた。

「なるべく話しかけてくださいね」と看護師も言ってくれる。「言葉はしゃべらなくても、体が会話してくれる」と家族は思う。

著者たち家族は彼の意志を叶えるために、骨髄移植の可能性を探るが、それが困難と分かった時点で、可能性のある腎臓移植へ方向転換し、結果的に二人の人に移植は成功する。

友達は彼のことを、「何事にも悩んだり迷ったりするチャーリー・ブラウンに例えて『チャーリー』と呼んでいた。」

彼はカフカと阿部公房が好きだった。私と同じだ。
大江健三郎が好きだったのは違う。大江の文学に救いを求めたのだった。

大江の作品の中で、エリアーデの「indestructibility(破壊し得ないこと)」という言葉を知り、「自分の生への支えとしようとしていた」のだった。

この本は、著者の息子の自死に対する、グリーフワーク(悲しみを癒す作業)である。同時にそこで得られた、二人称の死という概念と、脳死、臓器移植という現代的な問題に対する著者の説得力のある体験と深い思索の結晶である。

こころを揺さぶられる、素晴らしい本である。

0
2014年06月01日

Posted by ブクログ

読みながら、本当にいろんなことを考えた。
犠牲という意味。
この本は、本当にたくさんの角度から読むことができるだろう。
読む時の心境によって、受け止める場所もどんどん変わってくるだろう。
そして、読めば読むほど、人生の深みに連れて行ってくれる本でもあると思う。
柳田さんが、こうして本にしてくださったことを感謝している。

0
2013年04月03日

Posted by ブクログ

私も歳をとったので、二人称の死が身近に感じられるようになったきた。
作者の考えに触れ、新しい知見を得ることができたと思う。

0
2022年11月03日

Posted by ブクログ

精神病により自殺を図った息子が脳死を経て心停止するまでの11日間において、父親として臓器移植等を体験し考えたことを綴ったノンフィクション。

海外文学作品を引用した心情表現、医学の専門的な内容等、難解な部分はあるものの、あとがき、解説等が充実しており、読みやすく工夫されている。
家族が脳死になったら家族としてどう向き合うか、また、自分が脳死になった場合の臓器提供をどうするか等、考えずにはいられなくなる内容だった。

読後に少し調べてみたところ、本書が発行されてからの25年の間に臓器移植法が制定・改正され、本書発行時は認められていなかった心停止前の脳死患者からの臓器移植も行えるようになっているようだ。
本書の著者は、息子が脳死となってから心停止するまでの数日間の猶予があったからこそ、息子の死を受け入れることが出来ていた。
心停止を待たずとも臓器移植を行える現代においては、脳死した患者家族の葛藤は、より大きいと思う。
本書の影響により、そのような家族の心に負う傷を少しでも小さくしてくれる枠組みが構築されていることを期待したい。

0
2021年11月11日

Posted by ブクログ

赤裸々にご自分の家族を描いたノンフィクション。精神を病んで自殺された次男、やはり精神を病んでいる奥様、長男も一時生死を彷徨う病気になる等これだけ大変な中作家活動を続けられるのは凄い。本作は、自死された息子さんの為に、彼が残した日記、文章、親子の会話の記憶等から、彼自身が確かに存在した証を残したい、それを自己犠牲という形で実現したいという考え方に惹きつけられていた事を理解して、その実現を助けようともがく残された家族の実像が見事に表現されている。ノンフィクション作家ならでは、と言おうか。

0
2020年09月03日

Posted by ブクログ

脳死に向き合う父親の、情に寄り切らず、理にも寄り切らない、率直な思いと考えを述べたドキュメンタリーである。洋二郎氏は存命であったなら恐らく優れた作家になってであろう感性と文章力を感じさせられるが、彼自身の好きだった作品名を章名に用いて作品名もタルコフスキーの「サクリファイス(犠牲)」から拝借している

愛する人の「実感とは異なる死」と対峙したとき、医学的法的解釈では到達し得ない「何か」を11日間の感情や思考の変遷とともに的確に言い表している。死は点ではなくプロセスと捉え、死を状態ではなく受け止める側の在り方なのだと感じさせられる。特に臓器移植を決意したあとに、腎臓の提供は許諾したものの膵臓は見送る行は遺族の微妙な感情の立ち位置を理解させる。洋二郎氏が逝去したとき「マタイ受難曲」のアリアの「憐れみ給え、我が神よ」が流れたのは、クリスチャンでないものに対しても死の神秘と尊厳な印象を与えざるをえない。

脳死というものを考えるとき理論や定義ではなく死生観への配慮はもとより、賢一郎氏が語るように臓器提供=医療に参加するという敬意の念が求められるのであろう。息子の死という痛みを伴いながら脳死というものに対して改めて議論を提起しており色々と考えさせられた。

0
2018年01月03日

Posted by ブクログ

まず、毎日なかなか意識しない「生と死」の存在を再確認させられた。次に、うやむやにしていたドナーの意思表示。おそらく高校生の頃、なにかの校内での集会で渡されたカード。カードで意思表示するだけでなく、家族にも伝えておこうと思う。

0
2017年11月29日

Posted by ブクログ

ノンフィクション作家として、航空機事故、医療事故、災害、戦争などのドキュメントを多数発表している柳田邦男氏が、1993年に25歳にして精神疾患から自殺を図り、脳死状態で11日間を共にした次男・洋二郎氏を追悼するために著した作品。1994年に文藝春秋に掲載されたものに加筆、再構成し、更に別途発表した脳死・臓器移植論を加えて、1995年に出版、1999年に文庫化された。1995年に菊池寛賞受賞。
内容は、洋二郎氏が自殺を図った日から、脳死を経て、心肺停止状態になるまでの11日間を、洋二郎氏が精神を病み始めた中学時代以降の追想、及び洋二郎氏の残した日記や文章を断章として加えて、克明に綴ったものである。
柳田氏は、本作品の執筆の動機を、「あえて簡潔にいうなら、彼の究極の恐怖心を取り除いてやるためだといおうか。・・・彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった」と語っており、また、洋二郎氏の生前の意思に沿って、心肺停止後、腎臓移植(自らドナー登録をしていた骨髄移植はできなかったが)も行っている。
しかし、洋二郎氏の持っていた“究極の恐怖心”とは、実は全ての人間のものであり、我々は、自分の死に対し、自らがどのように折り合いをつけるのか、死んだ人間に対し、残された人間がどのように対処するのか、自らのこととして常に考えておかなければならない。
自ら及び大切な人の死と生について、改めて考えさせる一冊である。
(2006年7月了)

0
2016年04月23日

Posted by ブクログ

脳死は人の死か?

臓器移植
遺された家族のグリーフケア
リビングウィル

納得できる物語を家族がつくりこころを整理するための時間を医師や看護師がつくってあげること

二人称の死

選択のできる死
ファジーな死の定義


など。

0
2014年08月03日

Posted by ブクログ

感情が表にですぎず冷静に書かれているので、それゆえ感傷的な部分が純粋に心に入ってくる。
脳死についても良く考えられていて説得的。私自身がどう考えるかはまた別だけど、その考えをはっきりさせるためにも、これをきっかけにもう少し勉強してみたいと思った。

洋一郎という男が素敵だと思った。彼の感性と知性、彼の書く文章が好き。

0
2013年11月22日

Posted by ブクログ

読み終わっても、しばらく考えさられる作品だった。
「死」には、一人称、二人称、三人称があり、それぞれまったく異なるものであるという認識は今までになかった。

延命治療の必要性も感じることができた。

0
2013年10月22日

Posted by ブクログ

精神を患った息子が自殺を図り救命救急センターで植物状態、脳死を経て死に至るまでの11日間のこと、息子の死を著者がどう受け入れていったかが、よくわかりました。死の形は人それぞれで、死をめぐる家族の物語も十人十色。死を語ることは、その人の生を語ることに他ならないのだと思います。フランクル関連本から手にとった本ですが、いつか突然自分のそばで起こるかもしれない脳死について、すごく勉強になりました。

0
2013年09月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

柳田さんのご子息が自殺を図り、脳死状態に陥った。家族の11日間の体験と苦悩、そして脳死が人の死と定義するか、医療と家族の意識の違いも書かれています。
脳死と臓器移植についての話も興味深かった。
タイトルの「犠牲」とは映画のタイトルと内容に関わってくるが、世界が平和で誰かが幸せであるためには、何かが、あるいは誰かが犠牲になっているのだと言う話も出てくる。
精神患者の多くが、人よりも繊細で優しく感じやすい特徴を持っている。
それ故の苦悩、それゆえの自己犠牲。理解できない人もいるかもしれないが、自分の存在理由や意義を考え過ぎてしまうと生きるのがとてもつらくなるのだ。
作者は作家ゆえ何が真実か知ろうとしている。その中で、心臓死、脳死、遺伝子死の話が出てきたり、「死」とは何なのか、作者とともに考えさせられる作品です。

0
2013年07月21日

Posted by ブクログ

精神病だった息子が自殺を図り脳死した。その父親の手記。

息子の死から立ち直る為
脳死と臓器移植の関係に一石投じる為
に書かれた作品。

最近ノンフィクション系を立て続けに読んでいる。大体、精神が病んでたり、余命数ヶ月だったりする訳で、物語の至る所で死の影がチラついている。正直未だ「死」について深く考えたことは無いが、「死」にとって最も大切なことは、それに至るまでのプロセスなんだろうと思った。

余命を宣告された癌患者はその日に向かって、思うが侭に「死」へのプロセスを歩み始める。

脳死から心停止するまでの僅かな時間は、周りの人々がその「死」を受け入れる為のもの。つまり脳死とは「死」ではなく、「死」へのプロセスの途中である。

かなり考えさせられる作品だった。いつも以上に長文を書いてしまった。多くの人が「死」は身近なものだと言う。ならばその日の為に僕は既にそのプロセスを歩いているのだろうか。

0
2013年07月20日

Posted by ブクログ

『脳死』というものを、私は医学生の立場としてしか理解していなかった。例えば脳の状態がどうとか臓器移植がどうとかである。そんな私にとってこの本は衝撃であった。
この本は、遺族の視点で脳死をみることができるのが本書のポイントであろう。これは、脳死の息子が亡くなるまでの様子、家族の心情の変化をその父親が書いている。しかも作家の柳田邦男だけあってすごく克明に深く考えられて描かれている。柳田邦男は家族として脳死と向き合った。そして、息子の脳死を通して改めて脳死について考えるのである。この内容は是非本書で読んでいただきたい。本書を読むことで脳死について深く考えるきっかけが得られるはずだ。

0
2013年05月31日

Posted by ブクログ

精神を病み、自死を計り脳死状態となった青年。青年の手記を交えながら、その父親である筆者・柳田邦男が息子について、脳死について語る。

この本の何よりも素晴らしい点は、この本の存在自体が柳田邦男の息子を救うものであるということ。人間存在の根源的孤独に苦しんだ彼の記録としての本書が、破壊され得ないものとして存在する事実。それを彼の父親が、息子の人生の完成のために創り上げたこと。孤独と悲劇の記録が、その記録が成されることによって希望になる、それが本当に素晴らしいと思う。

本書は息子の死、息子の手記、それに対する父である筆者の語り、という非常に個人的な話題と共に、脳死、臨床治療といった社会的話題が取り上げられている。柳田邦男は息子の自死というあまりにもつらい事態に対して、自身の持つ科学的知識の利用によって自己コントロールを試みた。主観的な問題に対して、客観性を用いてバランスを取ろうとしているんですね。でも当然ながら客観性だけでは解決し得ない苦しみがあって、それに対してきちんと向き合うこともしている。結果として、一般と個が混ざり合った内容になっている。ここが素敵だなあと思った。どちらが欠けてもいけないと思うから。

精神を病んだ青年が夢見た「自己犠牲」、どこの誰の手によるものかわからない犠牲によって、平凡な毎日が支えられていると思うことは、この世界を辛うじて人間に値するものにすることが出来る唯一のもの。いまこのとき人に残されているのは、不毛なものを希望に変え続ける意志である、と。
生きる意味を見いだす物語が「犠牲」を主軸としたものであることがあまりに切ない。だけど、世界と人生に価値を与える、そんな物語を病の苦しみのなかで彼が発見したことを想うと、胸が詰まる。

そして青年の読書に対する情熱に、衝撃を受けた。読書に対する姿勢があまりにも真摯で、真剣で、それがそのまま人生に対する真摯さに通じているように思えて、心を打たれました。わたしはこんな誠実さを持っていない。彼のこの誠実さは、人間の根源的孤独への気づきに至り、結果として非常に彼は苦しんで自死を選んでしまったので、鈍感さはある意味で自分と自分の周りを生かすための武器なのかなあ、と思いつつ、この気づきを受けてなおかつ乗り越えて行けるだけの叡智がどこかに存在すると信じたい。ただ、苦しみ抜いたその潔癖が、こういった鈍感さの払うべき対価を引き受けてくれたようにも思う。だれかの犠牲によって購われている鈍感さ。どう受け止めるべきか、まだわたしにはわかりません。

0
2012年01月13日

Posted by ブクログ

代表作「遠野物語」や、医療・死生観・戦争など日本の現場を知るうえでかかせないノンフィクションライター。

そんな柳田氏が、精神的に病んでいた息子「洋二郎」の自殺・・そして脳死の11日間を素直に見つめなおした自伝的良書。

自伝に留まらず、脳死判定の是非に関する科学的・心理的考察や、柳田氏自身の「アイデンティティー」の新たな模索、人として生きていくことの苦悩や希望など、生々しく語られています。

人間の根源を垣間見る感動ノンフィクションです。

0
2011年11月27日

Posted by ブクログ

著者の息子が心の病から自死にいたり、脳死判定を受け、腎移植を決断する。
脳死という考えを、当事者というか、肉親の立場から考える。科学上、また、医学上、脳死は、一定の判定をクリアするとそういう判定となるが、死というものは、ここまでが生きていて、ここからが死んでいると言う風にスパッと決められるものではない。肉親は、特にそうだ。少しずつその死を受け入れていく。
自分の息子の死を題材にしているので、主観が入るのは当たり前だし、仕方がないが、ちょっと感情的な文章というか、表現になっているところもあった。それが悪いというわけではなく、だからこそ本書の意味があるといえる。

0
2021年05月14日

Posted by ブクログ

心を病んでしまった息子(洋二郎)が自殺を図って病院に搬送されてから脳死に至るまでを綴ったエッセイ。
臓器移植や脳死判定の手順等が詳細に書かれていてます。
洋二郎が書いた短編小説も収録されており、心を病んだ洋二郎の心境の考察を試みていました。
エッセイなので著者の主観も入っています。 自分は個人的に、この著者は生理的に受け付けられないタイプだと思いました。なんとなく「そんなんだったから、俺は言ってやったよ」とか、「こんなに苦しんでいる人がいるんだからお前もこうしろ(著者はこうは言っていません。あくまで私の感想です)」といタイプが苦手な方にはお勧めできません。

0
2016年05月15日

Posted by ブクログ

脳死とか、臓器移植について考えさせられるけど、自分がその立場にならないと分からないことだと思います。

0
2014年03月08日

Posted by ブクログ

著者の二男が自殺を図り、脳死状態となり、臓器提供を行うまでの11日間の手記。

死を受け入れること、そのうえでなお生きられる方法を探すこと、生前骨髄バンクに登録していた息子のためにできることを探したこと―

いろんなことを考えさせられる一冊。ここまで突き詰めて考えることから、逃げてる気がする。

0
2013年07月14日

Posted by ブクログ

仕事の上でも、親としても、考えさせられる事はたくさんあった。
学ぶ事も多かった。
しかし、何より、読んでて違和感を感じずにはいられなかった。
洋二郎の原点について、ブレがあるような、彼の本心は、どこなのか。
洋二郎の辛かった気持ちも、わかるような気がする。
彼自身の、言葉を聞いてみたい。

0
2012年09月24日

「ノンフィクション」ランキング