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21歳の多喜子は誰にも祝福されない子を産み、全身全霊で慈しむ。罵声を浴びせる両親に背を向け、子を保育園に預けて働きながら1人で育てる決心をする。そしてある男への心身ともに燃え上がる片恋――。保育園の育児日誌を随所に挿入する日常に即したリアリズムと、山を疾走する太古の女を幻視する奔放な詩的イメージが谺し合う中に、野性的で自由な女性像が呈示される著者の初期野心作。
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Posted by ブクログ
シングル・マザーとなって、家族との葛藤や仕事をするうえでの苦悩をかかえながら生きる小高多喜子という女性の物語です。 役所に勤める前田宏という男と数回関係を結び、彼の子どもを身ごもることになった多喜子は、中絶という道を積極的にえらぶことのないまま、子どもとともに生きていく道をあゆんでいきます。ただし...続きを読む彼女は、自分の人生の選択として積極的にシングル・マザーとして生きることを決断したのではありません。自分と子どもとの具体的なつながりをしっかりとつかんでおくことで、彼女の進んでいく道はおのずと定まっていったのです。しかし、家族をはじめとする周囲の人びとは、そうした彼女と子どもの具体的なつながりについて考えおよぶことはなく、あくまで「シングル・マザー」というレッテルだけで彼女にかかわろうとし、そのことに彼女は苦悩させられます。 やがて多喜子は「三沢ガーデン」で働く道を発見し、ダウン症の子どもをもつ神林という年上の男に魅力を感じるようになります。彼女たちは、「山」と呼ばれている郊外の農園で宿泊することになり、多喜子は夜に神林のもとへ向かいます。 本作は、性と出産をテーマにしているという点で、想像妊娠を主題的にとりあげた『寵児』と表裏をなす作品だと解釈することができます。男の視点を前提として性と出産を切り離したうえで、両者の接続を文学における普遍的な主題であるかのようにあつかった小説を、斎藤美奈子は「妊娠小説」と呼びましたが、『寵児』では両者のつながりが女性の主人公の視点からたどられました。ただしその試みは、刊行当時にあっては「女流作家」ならではの視点から性と出産というテーマをあつかった作品という、本質主義的に解釈されることもあったかもしれません。本作は、性から出産へと進んだ『寵児』の道を逆にたどっており、本質主義的な解釈が成り立たないことをはっきりと示しているように感じられます。
日本の現役作家では、津島佑子が好きだ。それこそ段違いに抜けた小説群だと思う。 シングルマザーという言葉も生まれていない時代に、私生児を育てる決意をした21歳の若い主人公。殴る実父、病む実母、乳児の入院、職探しの挫折。暗澹たる生活描写が続くなかで挿まれて描かれる育児日誌が哀切で、雄弁。文章が流麗なわけ...続きを読むでもなく、筋立てが巧緻なわけでもないが、滋味あふれる。
ゼミで読むので読んだ本。長かった。 大筋は、私生児を孕ってしまった21歳の女性、小高多喜子が息子の晶を生んでからの1年間を描く子育て小説。1980年という時代柄もあり、婚外子に対する家族と世間の視線は厳しく、晶が生まれるまでの間、母は多喜子に中絶を勧め続け、父は家の恥として罵声と暴力を浴びせ続け、会...続きを読む社は辞める意思を訊き、同僚の女子社員は多喜子を相手にしなくなった。誰からも祝福されることなく、晶は多喜子のお腹の中で育つことになる。 それにしても、多喜子の暮らす家は、迷路のような路地の先にあり、日のささない暗闇の中にある。それは、多喜子の置かれた状況をそのまま象徴するようにも見える。 家は曲がりくねった、細い路地に面している。古い木造のアパートがより集まった区域で、路地もあちこちで袋小路になっているため、住人ではない人がそこを通り抜けることはむずかしかった。多喜子の家はアパートではなかったが、多喜子にはアパートの住人の方がうらやましかった。日当たりの悪い一帯ではあっても、二階の窓の多くは、朝から夕方までのいずれかの時間に、日の光を浴びていた。多喜子が会社に勤めだしてから、石油ストーヴや、カラー・テレビを買い替えたり、風呂場にシャワーをつけたりしたが、暗い平屋建ての家に日の光を招き寄せることだけはできなかった。(p9) 多喜子は、日の光が差し込む他者の家をうらやましく思う。それは、明るいということが一般的な感覚からして、何か良いものに見えるからだろう。しかし、普通の人にとって希望に見える明るい光は、多喜子にとっては、孤独を表す光である。実際、多喜子の孤独と光は、物語の序盤において、分かちがたく結びついているように見える。 タクシーは産院に多喜子を運んでくれ、産院は多喜子を決まり通りに扱ってくれる。一人きりのあの眩しい時間は終わったのだ。過ぎてみれば、呆気ないほどの短い時間だった。(p15) 産院に辿りついた多喜子が、病室の窓からまるで光っているかのようなポプラの木を見る。その光は次第に周囲に広がっていき、やがて、高校生の時代に男友達と見た映画のワンシーンを多喜子の記憶に呼び起こす。 女は太陽の熱ですべてがゆらめいて見える白い平原を、遅い足取りで歩き続ける。村のテントの影が見えなくなっても、歩き続ける。子えが届かないところまで、女は進み続けなければならない。平原では、おとがよく伝わる。女は歩き続け、ひとつのいわの前でようやく立ち止まる。岩陰に腰を下ろし、自分の赤ん坊が生まれる時を待つ。(p29) この小説のタイトルが「山を走る女」であることを考えれば、この映画のワンシーンの記憶は、多喜子が歩むことになるその後を分かりやすい形で象徴してくれている。インディアンの女は、何もない平原を歩いている。そして、見知らぬ男に見守られて、一人で子どもを生むことになる。 この物語の中で、「平原を歩く」ことは、見知らぬ男の目に晒されながら、孤独な出産を迎えることを意味しており、その孤独な平原は、太陽の光にさらされた「白い平原」なのである。と考えれば、「山を走る」ことは、もちろんその逆を表しているように思われる。 物語の後半、”三沢ガーデン”で働くことになった多喜子は、職場が管理する「山」へ行くことになる。その「山」で職場の同僚の家に泊めてもらうことになった夜、心を惹かれるようになっていた神林という男と一夜をともにすることになる。しかし、神林は、それまで多喜子が関わってきた男たちのように、欲望のままに多喜子を抱くということをしなかった。 あの夜、多喜子は雨の中を何度も転びながら、泣き声と共に、走り続けた。(p331) 男性がその欲望を抑制する姿を、多喜子は神林によってはじめて知ったのだった。抑制の苦痛のなかで、欲望のあからさまな力を、多喜子ははじめて実感もした。はじめて味わった深い性の快感として、その実感があった。(p332) それは、多喜子にとってはじめての経験だった。ここで、多喜子は新しい人間関係の存在を知ることになる。それまでの多喜子には、多喜子を孤独にする人間しかいなかった。それは、まず第一に家族であり、職場の同僚であり、産院で同じ病室にいた、あるいは、息子の晶を預けることになった保育所にいた他の母親たちだった。 唯一、多喜子と赤ん坊を受け入れてくれたのは、馴染みのジャズ喫茶であり、そこで働く年下の川野という青年だった。しかし、そのジャズ喫茶と川野が、多喜子の孤独を本質的に癒すことはない。ジャズ喫茶もまた男友達と過ごすことで父親から淫売と罵られた記憶と結びつく場所であり、川野も、多喜子の体を求める男であり、多喜子を妊娠させた前田宏にいくらでもなりかわりかねない男だった。しかし、そうした男たちとは違う存在として神林と出会うことで、多喜子は、最初は拒んでいた母親の存在をも受け入れられるようになり、あの暗い自分の家に帰ってくることになるのである。 それにしても、自分の息子を中絶させようとしていたことに対して、怒りを持っていた多喜子が母をすんなりと受け入れられるようになったのはなぜなのだろうか。そこには、多喜子と母親が、晶を媒介に交換可能なものであることを受け入れることが重なりあう。 母親の郷里を思う時、いつもそうなるように、多喜子には母親と自分との区別がつかなくなっていった。 少女は下界を熱心に、毎日、見つめ続ける。少女には下界に行くことができない。遠い、別の世界なのだ。水色の山よりも、そこは遠い。けれども、はっきりと見える。見えなければよいのに、小さいなりに、なにもかも見えてしまうのだ。それで、少女は葡萄と水晶の空に囲まれながら、悲しい感情になる。家がある。道がある。畑がある。大人がいる。子どもたちがいる。どれもあまりにも小さく見えるので、おもちゃの世界のようだ。それで、少女はもっと悲しくなる。(p108) 母親の郷里の記憶とは、「葡萄と水晶の空に囲まれ」る「山」である。そこにいるのは、幼い頃の母親の姿だけで、他に誰の姿も浮かばないのであるが、多喜子には、自分と母親との区別がつかない。 これは、現実の世界でも同じである。母親は、世間体を心配して、晶を自分たちの養子にすることを提案する。それに対して多喜子は反発するのであるのだが、その根底には、母親である自分が別の誰かに代替可能なのではないかという不安がある。 自分が母親だから、この赤ん坊とは離れられない、と思うことはできなかった。確かに、自分の体を使って、この世に産みだした赤ん坊ではあるが、だからと言って、その赤ん坊にとって自分が特別な意味を持つ者だとは感じられない。乳児院で毎日、世話を受けるようになれば、晶は必ず、今の自分に甘えるのと同じよう仕種、表情で、そこの保母たちに甘えるはずだった。それはいけない、とは言えない。けれども、多喜子には晶から離れることは考えられなかった。そのことが晶をはじめとして自分の家族を侵し続けることになるにしても、晶のやわらかな肉体を感じ続けていたい。晶の体以外には、自分の時間を見つけることができなくなっていた。(p243) 晶の存在によって自分の孤独を埋めようとしていた多喜子だったが、晶からしてみれば、自分を育てる「母」としての存在は、多喜子の母親や保母にとって代わられるものなのかもしれない。そうした不安により、多喜子は、晶を自分だけのものにしようとした。そして、その不安は、郷里の記憶に重ね合わされるようにして、多喜子の中にはじめからあった不安なのであった。 この物語は、孤独ゆえに私生児を生むことになり、私生児を生んだことで再び孤独になった女が、自分自身の代替可能性を受け入れることによって、はじめから身の回りにいた人間を受け入れられるようになる物語である。受け入れることによって、多喜子は自らが出たいと望んでいたあの暗い家に、再び帰ってくることになる。 しかし、その可能性は、初めから母親の郷里の風景の中に、多喜子の中にあった可能性でもあった。その可能性に、現実に「山を走る」という経験を経て、多喜子は気づくことになるのだと思う。 孤独から抜け出すための一つ形が示されているという意味で、明るい物語である。しかし、その形とは、自分自身が、必ずしも必要ではないかもしれないということを受け入れるという暗さを持っているものでもあったのだと、読んだ。
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津島佑子
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