Posted by ブクログ
2018年03月18日
文明史の視点からSMの成立を考察している本です。
キリスト教の教父たちは北ヨーロッパに布教する際に、サクリファイス(供犠)をおこなうケルト人の信仰にあわせて、キリストの磔刑を利用しました。これは、ゴシック建築が北ヨーロッパの聖なる森の代用として作られたのと同様だと著者はいいます。こうして、キリスト...続きを読む教の宗教感情の中核に「苦悩」が位置づけられることになります。つまり、精神的・肉体的な苦しみを介さなければ神に近づくことができないということが、教義の根本とされるに至ったのです。
ところが近代に入ると、こうした「苦悩する人間」に対する神の座を、人間自身が占めるようになります。サドの小説の登場は、「近代の目覚め」だと著者は指摘しています。このような意味で、「キリスト教が人間の自由を束縛している」という近代的な自我の確立と、「アンチ・クリストは自由を束縛するくびきを断ち切る」というサドの宣言は等しい意味をもっています。
さらに著者は、中世から近代を経て、それ以後に至るまでの歴史を、「自我」というパイの配分というたとえを用いて説明します。つまり、リビドーの備給が神から自我へ向かうことになり、さらにそのリビドーを他者と分かちあうことで民主主義が成立したのです。こうした歴史的経緯とかさなる仕方でマゾヒズムが成立したと著者は主張します。それは、自我に備給されていたリビドーを他者に振り向けるということであり、「支配している相手に支配されること」を意味します。こうして著者は、M願望は本質的に自己本位だと結論づけます。
このほか、皮と鞭を用いる西洋のSMが「苦痛」を求めるのに対して、縄を用いる日本のSMは「自由の拘束」を求めるという、比較文化的な考察もなされています。