Posted by ブクログ
2012年01月10日
“何だろう?何かが、幸子の記憶に触れたのだ。
二階に上ると、幸子は、無人の廊下を、見通した。たった今、人がいたのに違いない。気配がある。空気の乱れ、とでもいうべきものが。
「——どこにいるの?」
と、幸子は言った。
自分の声が、びっくりするほど小さく、震えている。——しっかりして!あなたは以前には教...続きを読む師だったのよ!
自分を叱って、ゆっくりと廊下を歩き出したが、
「そうだわ」
呟きと共に、幸子の足は止まった。
教師。教師だったころ。——その記憶に、あれが触れたのだ。
あの甲高い、男の子の笑い声が。”[P.151]
簡素な文章から滲み出る静かな恐怖。
“「久美。——パパだ」
佐田は、久美の部屋のドアをノックした。
久美が、ドアを開けた。
「パパ……。どうしたの?」
「終ったよ。——何もかも、終った」
佐田の言葉の意味を、久美は分からなかったろうが、しかし、あえて訊こうともしなかった。
「もう……大丈夫なの?」
「ああ。大丈夫だ」
佐田は、力一杯、久美を抱きしめた。
佐田の背中に、貼りつくようにくっついていた、汚れたシャツが、フワリと床に落ちたのには、二人とも気付かなかった。”[P.236]