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Posted by ブクログ
平仮名ばっかりで読みにくそうと思ったのもつかの間、みるみる引き込まれて読み終えてしまった。
適切かどうかわからないけれど、「きれい」な物語だと思ってしまった。
主人公がしんちゃんのことを愛していなかったと語るシーンはとても切ない。
以下引用
陽葵さんがシンちゃんに向けていたような感情が、私の中にはなかったんです。陽葵からシンちゃんと何度もセックスしてました、って聞いたときに辛くなかったのも傷つかなかったのも、そもそも私がシンちゃんをそういう意味で愛していなかったから。シンちゃんが泣きながらすがってくる姿を見たとき、何も感じなかったんです。でもそれは全部私がした、させたことの結果でした。わたしはそのことに気が付きました。わたしはたぶんシンちゃんのお世話をしていた時から長い長い時間をかけてずっと、シンちゃんに私を愛するように仕向けていたんです。
それは他人からちゃんと愛されてみたかったから。大切にされるってどんなのだろうって、ずっとずっと思ってたからです。お父さんからされたのは、あれは虐待と搾取だったから。でも結局私はお父さんと同じことをして、シンちゃんから搾取したんです。
Posted by ブクログ
2123年。もう誰もいなくなった、そんな日本の山奥で、主人公が「かぞく史」を綴っています。
父親によって機械との融合手術を受けされられた主人公「わたし」。家族や周りの人は年老いて死んでしまいますが、ずっと若いまま生き続ける未来。
手術前の主人公の境遇と、手術後の気が遠くなるような感覚。ずっと淡々としていて切なくて、このひらがな多めの文章がその切なさをさらに加速させます。
昔聞いていたボーカロイド(気になって検索しました!)のエモさを回想するシーンとか痛快な夢とか。この子にこういう思い出があってよかった、としみじみ思うのですが…それも読んでいくと強烈に切ない。
終盤の主人公の気づきと、ラスト第3章がまるっとホントに、苦しくなるくらい。
いやー、私コレ大好きですね。
Posted by ブクログ
とあるマンガで、登場人物がこの小説を絶賛しているシーンがあり、購入。独特の読みづらさを1~2ページ感じたが、あっという間に物語にぐいぐい引き込まれた。
主人公は、家庭内においても自分の出産と共に母が亡くなったことから、兄姉から母が亡くなった原因として嫌われ、父からは母の代わりとして精神的・肉体的搾取を受けている、「わたし」(名前は空白によって非常に可視的に伏せられている。)。胃下垂で食べるものをほとんど吐いてしまうなど健康にも恵まれず、人生の多くを家の中で過ごす。また、希死念慮があるが死ぬことはできず、25歳の時に、身体を改造する「融合手術」を受け、老化しない体となる。その後もほとんどを家の中で過ごしたため、彼女が客観的に描かれる描写はほとんどない。物語の終盤、人工知能との融合手術を受けた非常にロジカルな存在と描かれる第三者によって、はじめて彼女の置かれてきた情報が文章として説明されるという構造。このため、主人公の置かれた状況は彼女の主観という強烈なフィルターを通じて見続けることになり、彼女の客観的評価は終盤まで待たなければならない。
このためか、主人公目線で彼女の人生のほとんどを読んできて、終盤で「実の父親から受けた肉体的、精神的虐待によって引き起こされた心的外傷」「お姉さんを自殺に追いやってしまった」「甥である方と関係を持ってしまったこと」といった客観的な言葉で語られると、確かにそうだよなとも思いつつ、そうした言葉に物語を当てはめることに不思議な戸惑いを覚えてしまった。
この違和感の正体が知りたくて、私はこの小説をすぐにもう一度読み直し、その違和感は、こうした事象がすべて家庭の中で起きた出来事であることに起因するのかな、と思った。
「幸福な家庭は、全て互いに似通ったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸の趣が異なっているものである。」という、トルストイ『アンナ・カレーニナ』の冒頭の有名な一文がある。主人公の家庭も、その異なる趣の不幸の一つなのだろう。他方で、よその家庭の不幸の中身というのは実際に見ることはなかなかなく、自分が不幸な家庭にいたとして、それは他の家庭と比較することが容易でなく、時として不幸を不幸と認識できないものだ。私も、育った家庭が不幸というわけではなかったにせよ、大学時代にメンタルを崩したときに受けたカウンセリングで、家庭について話したときに、「あぁ、これは普通ではなかったんだな」と目の覚めるような思いをしたことがあった。
主人公も、希死念慮を抱いており、自分が幸せではないという自覚はあったのだろうが、諦めのような気持ちで、淡々と不幸を受け入れ、生きる希望のようなものを求めず、手術により人間であることをやめ、その不幸(と客観的に判断される)を悪意なく他人に伝播させてゆく。
そこには、家庭内の不幸という客観性を持つことが難しいものに対し、毅然と立ち向かう術がなかったことが想像できる。程度の差はあっても、家庭という引力に逆らうのは誰にとっても難しいのではないだろうか。
だからこそ、家族史を書いたがために自分の人生を急に分析・評価され、主人公は戸惑い、その衝撃が読者たる私に伝播したのだろう。
それだけに、そうしたトラウマをすべて捨てて、人生をやり直すチャンスが降ってきたにも関わらず、自分のすべての経験を受け止めた上で、その上に人生を積み上げることを決めた主人公が非常に強く胸を打った。「でもまずは、わたしはわたしと、ちゃんとともだちになるところから。」(p.122)という主人公の台詞には、自分のことが好きになれず、大切にすることもできなかった、彼女が不幸になり不幸を生み出した原因の一つとの決別を感じることができる。そうした大きな一歩を踏み出そうとすることにものすごい勇気がいるんだよな、何もかも諦めてしまった方が楽だよな、リセットできるならしたいよな、そんな中で、暗闇の中で心を打ったもの(この小説であれば合成音声であり人間対将棋の対戦だ。)が少しずつ自分を支えてくれるんだよなと、共感が止まらなかった。
私は趣味で山に登るが、山で泊まる際に見る水蒸気を含んだ夕陽の橙色は柔らかく、日の出前から登った際に見る清冽な空気を貫く朝陽の橙色は非常に輪郭が明確で、どちらも形容し難い、この世の物とは思えないような美しさがある。しかしながら、この物語の最後に見た、主人公の眼に映った「あさなのかゆうがたなのかわからなくなるような、とてもきれいなけしき」(p.122)は、現実世界には存在し得ない、どちらの美しさも併せ持った、この物語を通じてこそ見ることのできる景色だった。
月並みな言葉ではあるが、この小説を読むことができたことを心から幸せに思う。
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