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戦争は悪だ。しかし、悪であって、なお正義であり得るのはなぜか。そして、戦争を悪だと告発することがアリバイ証明と自己弁護、他を非難するための手段として利用されるのはなぜか。「道徳問題としての戦争と平和」ほか、ギリシャ哲学の碩学が戦中・戦後の政治的問題を考察した一七篇。文庫オリジナル。
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Posted by ブクログ
私たちは戦争の時代を生きているのかもしれない。いま私たちの生活が直接に脅かされるという現実を目の当たりにしていなくとも、いつこの生活がなくなるとも知れないことを、各地で起こっている戦争の出来事を通してふと思わされるのである。田中美知太郎のエッセイ集『戦争と平和』を読んでいてその感をますます強くした...続きを読む。この本は昭和の保守の論客として知られていた田中美知太郎の姿を垣間見させてくれる一冊である。田中美知太郎の文章はエッセイであれ、講演であれ、古典研究であれ、読者をはっとさせる哲学的洞察に満ちている。本書もまた、時事的な内容を掘り下げていきながら、読者の思考を揺さぶる一冊である。 本書には、こんな一節がある。「戦前においては、ぜいたくな積極的意味の国防問題はあったけれども、今日のわれわれが当面しているような安全保障の問題はなかったと言っていいだろう」(本書336頁)。この言葉に突然、はっとさせられた。というのも「ぜいたくな」という形容詞が付いていたからである。平和の実現についての省察を積み重ねていく文脈で語られたこの一言は、私たちが過ごす日々がいかなるものに基づいているのかを考えさせるものである。これを田中美知太郎は、ある種のまとめとして書き記しているのであり、どういう意味であるかは説明していない。しかしこの文章は読者に問いかけを残し、それまでに著者の記した言葉の意味を改めて考えたり、あるいは読者自らの現実と照らし合わせて考えさせることを促す一節なのである。歴史認識をめぐって実(じつ)のない言葉のやり取りが現在も繰り返されているように思われる。しかし言葉をどのように受け止めるべきか、そのことを考えさせてくれる本書は、実のある言葉のやり取りを求める人に確かな手応えを与えてくれるものである。 本書には、終戦直前の折に発表中止となった原稿が幾つか含まれている。田中美知太郎のこれらの文章が発表されなかったことの意味を考えさせられる。それはあるいはソクラテスのことを何としても守ろうとしたクリトン、あるいはプラトンのことを思い出させるかもしれない。本書に採録された、そのような文章の一つ「ソクラテスの場合」は愛国心をめぐるものであるが、これ以上にない仕方でクリトンの根本問題を闡明し、プラトンが対話篇で自らの言葉に託した政治的理想を思わせるものである。戦時にあってソクラテスその人も、不正に加担しないがために当時の民主政権に異を唱えて自らの命を危険に晒し、そのことを次の寡頭政権において追及されたが、その政権の崩壊という時のいたずらによって生き延びた(プラトン「ソクラテスの弁明」32e参照)。田中美知太郎の著作もまた、この時にこの書き手の命が途絶えていたなら私たちは今とは全く違った世界を生きていたことであろう。時代の空気を纏いながらも直截に事柄の根本を問い詰めていくその言葉はその人が希代の哲学者であることをありありと示しているのである。
この政治・哲学論集には、「サルディス陥落」(1941年)や「ソクラテスの場合」(1942年)、「公共体国家としてのポリス」(1942年)が収録されている。いずれも諸々の理由で発表中止となっている。そして終戦を挟む形で、「自由と独立」(1947年)、「理想国家について」(1946年)、「自主性の問題」...続きを読む(1946年)、「今日の政治的関心」(1947年)の発表へと続く。 私がある意味感動したのは、田中美知太郎の論調が、戦前と戦後とでまったく変わっていないことだ。つまり、戦後教育を受けた私たちは、戦時中の言論がいかに抑圧されていたであるとか、戦後の論壇がいかに転向者であふれ返っていたかとかについて、伝聞で知り得ている。しかし田中の論文は、発表年を隠してしまえば、それが戦前のものなのか戦後なのかが区別できない。そこまで一本の筋の通った研究者があの混乱した時代にも存在したという事実を知っただけで私の背筋は伸びる。 自称愛国者の歴史修正主義者や、自分の思想を他人に押しつけて正義を気取る“癌細胞”たちよ。次に掲げる田中の文章を精読してみるがいい。 (59ページ)本当のところ、厳密な史学の方法のみが、今日の歴史的現実が何であるかを私たちに教えてくれるのである。そしてこのいろいろな報告を批判的に取り扱う方法というのは、何よりもまず為政者に必要なのである。近代史学の教養なくしては、どんな情報を集めても、これを本当に処理することはできないであろう。その結果は状況判断を誤り、国政を危うくするようなことにもなるからである。一般にわが国の教養のうちには、いろいろな報道を吟味し、批判する教育が欠けていはしないであろうか。(「サルディス陥落」より。『倫理学』1941年12月12日、発表中止) (76ページ)『クリトン』において見られたように、ソクラテスは死の危険においても、私の利害を国家的利害のごとくに錯覚することはしなかった。私利私欲と知って、これを追求する人間はまだ救われる。それを国家のためであると信じ込む人間は、国の災であり、呪いである。このことを区別するためには、私たちはソクラテスと共に自己批判を厳にしなければならぬ。国を愛するということは、かくて容易とも見えるが、また容易ならぬことでもあると知られる。(「ソクラテスの場合-愛国心について」より。『学生叢書』1942年3月、発表中止) (78ページ)古今東西の歴史には、互いに相似したところもあり、また無論いろいろ異なるところもある。私たちの歴史的感覚は、同じと見えるものの中に異なりを発見し、異なると思われるものの間にも同一性を見出す。いわゆるわが国独特などと称する主張のうちには、東西の歴史や土俗を知らぬ無智の言論が少なくない。これと同じく、二三の類似点を捉えて、特定の国、特定の時代の歴史から、現代の歴史を類推したりするのも危険なことである。(「公共体国家としてのポリス」より。『中央公論』1942年9月23日、発表中止) (78ページ)いわゆる歴史的教訓というものは、厳正な批判によって、何よりもまず歪められない歴史的事実に立脚し、それの特殊な条件や制約を明らかにした後に、これを学ぶべきであって、我田引水、自己の主張に都合のよいような教訓のみを引き出すのでは、私たちは幾度歴史をかえりみても、本当には何も学ばないことになるであろう。(同) 私が思うに、田中の文章は例えるならばラヴェルのボレロだ。はじめのうちは日本から遠く離れた古代ギリシアの事例引用などもあって、文意を追うので精一杯。しかし田中の一貫した歴史精神や哲学への造詣が、まるで波が押し寄せるように繰り返されていく。そして私の引用でわかるとおり、ボレロのフィナーレのように、時代や世論に決して流されない確固たる田中の至言がフォルテッシモで現われるのである。 それでもこの本を冒頭から少し読んだものの難渋さを感じた人は、先に巻末の解説を読めばいい。大阪大学名誉教授の猪木武徳先生による「真理は静かに語られる」という、田中の論調をこれ以上的確に言い表せられないというくらい的を射たタイトルの解説が、理解を助けてくれる。
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戦争と平和 田中美知太郎 政治・哲学論集
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