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Posted by ブクログ
『咲には信念みたいなものがあった。ご飯さえ炊ければどうにかやれる。いつでもそう思って生きてきたのだ。』
『信義が出張などで居ない夜は自分の炊飯ジャーでお米を炊いたりした。それは咲にまるで浮気のような罪悪感と、罪悪感からくるスリリングな快さをもたらした。』
『それでオシンコとシャケと味噌汁とご飯とか、朝ご飯みたいなものが食卓に上り、信義が渋い顔をし、咲だってこんな朝ご飯みたいなものを夜に食べると蛇が来るよ、とおばあちゃんに言われたことはないけど、どうも、なんか文化的な何かに反抗しているみたいで気持が悪いのだった。』
『何か、そういうビジネスが出来ないだろうか? 時間とエネルギーが余っていて筋肉をつけたい人を安価に雇って筋肉がつくような単純な仕事に従事させる。つまりそれは給与をお金で払うのではなく、筋肉で払うということなのか。』
『信義は今日もスーツを着ていった。夏用に薄い生地のスーツを新調したのだけど、全く意味が分からない。そんなことならスーツの模様の刺青をしろ、と思っていた。』
『近づいて見ると仕切りに直接店の広告が書かれており「占いの館 手相、星座、顔相、占い出来ます」とあった。占いの館なんだから「占い出来ます」は特筆するべきことじゃないんじゃないかと思う。』
『咲はとりあえず両手を広げてゆっくりクルクル回ってみた。しかしこの行動は咲本来の欲望の希求ではなく、26年の社会生活から学んだ「気持ちの良い広い場所に出たとき取る行動の中で割と好感度の高い行動」のひとつを実践したに過ぎなかった。』
『しかし、今日のご飯は咲にとってどうでも良い一食に過ぎない、今日のご飯を捨石にすることになんらためらいはなかった。これが旅行の途中とか、友達との会食なんかであれば負けは許されないものであったが、今日のご飯はいつもの何でもないご飯のうちの一回だ。やがて完全に忘れ去られる類のものだろう。だったら、負けても思い出に残る試合がしたい。』
『草津とかは?』
『意外と遠いよ。箱根は?』
『ああ、いいね、どこでもいいや温泉あってのんびり出来れば』
『でも、超混んでんじゃない?』
『うーん、DVDで温泉のやつでも見るか?』
『「あなた悩んでるわね」と言った。「悩んでます」とだけ言ってみて、出方を窺うことにした。「何に?」占い師はもう訊いちゃった。訊いちゃ駄目だろ。そこを当てて私の信頼を得ないと。咲はそう思うのだが、少し、意地悪をしてみるかという気になった。「当ててみてください」
「うん。うん、」老婆は二度うんと言うのだが、咲にその意図は測れない。老婆はそのまま咲の顔を見る「色々悩んでるわね」と言うのだった。
当たってる。』
『地獄甘エビ?』
『地獄の名産です』
『へー良いですね』
『ええ、甘くて身がプリッとしてて美味しいんですよ、エビじゃないんですけど』
『え?』
『生物学的にはエビじゃないんですけど』
『言葉がどうしても剥き出しになってしまう。単純な言葉を選んで使うとそういうことになるのだった。気遣いや、微妙なニュアンスなんかは、音の大きさや調子、表情といったものに託さないといけない。ヨシコと話していると自分が表情豊かになっているのに気付く。表情を会話の道具として使うのなんていつ振りだろう。咲は信義としかほとんど話さないけど、お互い大抵言葉でどうにかしようとする。案外そういうところに原因があるんじゃないか? などと考えて、原因て何の? と思い返す。私たちって上手くいってなかったんだっけ。私、ちょっとそう思ってたのかもな。』
『結婚するときも、付き合ってるという状況に慣れすぎてそれをぶち壊すような気持があった気がするし、だけど、今度は結婚生活に慣れてしまったら私たちは、離婚するしかないのかなんて考えたこともあったけど、子供を産むとかもまあぶち壊しの一種だな、面倒だから嫌だけど。そうなるとやっぱり比較的簡単に起こせるぶち壊しはやっぱり旅行なのかもしれない。凄いところに来てしまった。日常に比べたらどこでも凄いところだよね。』
『そしてお湯はビーフシチューのような色をしている。だんだん冷静さを取り戻してきてよくよく見ればもうビーフシチューにしか見えない。なにせ具のようなものも浮いている。「これはビーフシチューじゃないか」信義はそんな人生で初めて言うようなセリフを発していた。』
『これから二人で過ごす時間を考えるとうんざりするほど長い。結婚ていうものはそういうものだと割り切った。だけど、何も今からうんざりする必要はないんだよな。本当にうんざりするまでは、うんざりしないよう努力してみるべきなのかもしれない。確かに少しサボっているのかもしれない。たまにはこうして体力と気力と時間とお金を使ってみるのも良いのかもしれない。うんざりしないのには努力が必要なんだ。その努力はそう悪いものではない。そう思う。』
『二人は荷物を持ち替えて片手を空けると、手を繋いで歩いた。ずっと繋いでいるわけにはいかないから、きっとなんかの拍子に離さなくてはいけないのだけど。まあとりあえず手を繋いでいたい気持だったので、二人は手を繋いで真っ暗な階段を一歩一歩下りていった。』
Posted by ブクログ
久々の前田さん。
やっぱりこの感じ好きだなあ。
日常に侵食してくるグレーな感触。
それが何かは掴めなくて
無意識に覆われているような。
ぼやーんとしている大木夫妻が
さびれたデパートの屋上から
地獄へ温泉旅行へ。
設定は無茶苦茶なのに、
地獄ってどんなとこ??と読まずにはいられません。苦笑
うしろを振り返っちゃだめ、
沼に頭から入っていく、
あか鬼にあお鬼、
ビーフシチューのような温泉、
埋まっている猫、
とにかく出てくるものみんなシュールだし
大木夫妻も
何が面白くて笑ってるんだか
でも笑わないとおかしくなりそうな感覚でいます。苦笑
ただ、
そんな非日常空間に
めちゃめちゃ平凡なふたりが
時折ふっと人間味のある感情を思い返したりします。
そーゆーとこは映画で繊細に描かれてるんでしょうか。
奈落の裂け目を自由に行き来できる、蝶々。
ふんわり、ひらひらと飛んでいる先は奈落。
現実世界は奈落の底なのかもしれません。
でもきっと手をつないで。
美味しいご飯を食べて。
明日からもきっと平凡な日常なんだけど
それでも本当に少しだけ変わるかもしれない。
そんな一冊でした。
通勤途中で読んでましたが、
もっとゆっくり読みたかったなあ。
Posted by ブクログ
新婚夫婦が盗まれた炊飯器を探すついでに、五反田とうきゅうの屋上から地獄へ新婚旅行に行く話。
映画を観たのち、原作があると知り購入。
映画で「ああ、ここいいな」と思ったところが原作にはない、ということが結構あったけれど、「えー映画の方がよかったー」ではなく、「わー違うバージョンだーなんか得したー」と思わせるだけの魅力がある。
でもまあ、文体も内容もそれぞれ激しく好き嫌いがわかれるタイプであるなあ、と思うので、人には熱心に薦めがたい。
でも薦めたい。
川上弘美「椰子・椰子」「神様」、紺野キリフキ「キリハラキリコ」、バリー・ユアグロー「一人の男が飛行機から飛び降りる」、あと岸本佐知子のエッセイが好きな人なんかは好きなんじゃないでしょうか。
Posted by ブクログ
映画版を見て、原作小説に興味がわいたので。
何だか余分な脱線的な描写は多いし、
舞台はなぜか地獄だし、
かといっておどろおどろしくなくゆる~いし、
何とも捉えどころがないのだけれど、
それでいて、日常でいつの間にか変容している感覚とか、
「どうでもよさげなこと」の大事さとか、
旅に出ることの楽しさと効能とか、
いろんなことが浮かび上がってくる物語。不思議です。
文章で読んでしまうと、
やはり映画版はゆるさとコメディ的なところばかりが
引き立ってしまっていたなぁと実感。
やはり、文章の些細なところに紛れ込んでいる機微を
映像で再現するのは難しいですねー。
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