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Posted by ブクログ
身近に認知症の人がいる人のための「心の処方箋」のような本。
認知症が進行していく母を観察する「脳科学者」の視点と、母とともに過ごす「娘」の2つの視点が、淡々と綴られている。
「その人らしさ」とは何か。
著者は「その人らしさ」をかたちづくるのは認知的な要素だけではないことに気づいたという。
身近な人が認知症になったら、とても心穏やかではいられなくなると思うけど、正しい知識を得て、「この人がこういう行動をとるのは、脳のこの部分の、こういう機能がこういう理由で弱くなるからだ」と思えたら、心の平穏を少し取り戻せるかもしれない。
できないことを悲嘆するよりも、ちゃんとそこにある「その人らしさ」に目を向けられる方がいい。
「理解力が衰えてなお、残っているものが、母が人生の中で大事にしてきたものではなかろうか?と、私は母という人を新しく知り直している」という言葉にとても感動した。
今は、私には身近に認知症の人はいないけれど、いつかそういう時が来たら、その人との関係をそんな風に捉えなおせると良いなと思った。
Posted by ブクログ
妻から、ママが最近認知症っぽい感じだと心配そうに言う事が増えた事から、ふとこの本を手に取ってみた。
脳科学者としての客観的な分析と実の母への娘の感情とが鮮やかに書かれててこの人しか書けない本。
アルツハイマーの進行により母が母でなくなる恐怖を感じながら、認知症とは?その人らしさとは?を真剣に考えながら必死で乗り越えていく、まさに血の通った学者の経験談。
愛情だけで越えられない綺麗事で済まない苦労はあるはずだが、この本の内容を知る事で介護する人される人にとって少しでも助けになるのではと感じた。
自分の両親も妻の両親もいい歳だから他人事ではない。少しでも心の準備をする為に良い出会いだった。
Posted by ブクログ
人とはまことに多面的な生き物で、いろんな特性を持っていますが、現代の学校教育では読み書きそろばんと記憶力ばかりが重要視され、それ以外の特性はちっとも評価されない。算数や漢字が苦手だと、勉強ができないヤツだと決めつけられる。このことが、私は以前から不満でした。でも、これからの世の中、AIが発達すれば、読み書きそろばん・記憶力なんかはAIには全く歯が立たなくなるでしょう。その後、人をはかる物差しはどうなるでしょう?
この本を読んで、その物差しは、認知症になった方をはかるのと似ているんじゃないかと思いました。失っていく能力を嘆くのではなく、それでも残る人の心の芯に光をあてて、その人を見る。それができるようになりたいと思います。
著者の脳科学的説明はとても分かりやすく、一方で、娘として母を支える中でのイライラなども隠さずに記され、実際に私が支える立場になった時のための心構えとして、とても役立ちました。
Posted by ブクログ
父方の祖母に最後に会ったのは十歳くらいの頃、病院でのことだった。
遠くに住んでいたから、祖父を急に亡くしたあと、認知症になった祖母に会ったのはその一度だけだった。私のことを、私の妹の名前でしか呼ばず(年子で名前も似ているので混同したのか、妹のほうを気に入っていたのか)、息子である父の顔も忘れてしまった祖母は、それまでの印象とは違う、子供のように純粋な笑顔を私に向けた。自分の名前を呼ばれないことや、息子である私の父を覚えていないことで、おそらく私はショックを受けたのだろう。そのあとも父は何度も会いに行っていたが、私自身は再び会うことなく祖母は亡くなり、お葬式へも行ったはずだが思い出せない。
この本を読んだことで、久しぶりに祖母との様々な記憶が蘇ってきた。お正月に会いに行くと、いつも頭のついた大きな海老を塩焼きにして出してくれた。祖母なりの最上の御馳走だったのだろう、私は今でも殻ごと塩焼きにした海老が大好きだ。朝ごはんはいつも、炊きたての真っ白なごはんと味噌汁に、ハムとピーマンと卵をフライパンで焼いたもの。三色の彩りがきれいだった。アイスクリームのことをなぜか「クリーム」と呼んでいて、「クリーム買うてき」と岐阜の方言で言いながらお小遣いをくれた。優しい声だった。
祖母自身は幸せだったのかもしれない。本書を読み、子供のような笑顔を思い出して、そう思った。自分が悲しかったから、私は父まで悲しかったことにしてしまったのだろうか。あるいは「名前を間違えられた」=「忘れられた」=「悲しい」、というラベルは、大人になってから付けたもので、子どもの頃の私は、「ああ、以前と違う人になったんだな」と思っただけだったかもしれない。本当のことは、自分の過去でもわからない。記憶は、本書でも書かれているように、思い出すたびに変わり続けていく。
あのとき、祖母があらわした表情のまま、心から幸せそうに見えるそのままを、ようやく今私は受け取った。過去の出来事は変わらなくても、見方が変わることで、出来事の意味は変化する。幼い私と父と祖母、私の中にこれからも存在し続ける三人が、「忘れられる=悲しい」という通念のレッテルから救い出された。私はきっと祖母のあの笑顔を、安心してこれからも思い出すことができるだろう。レッテルによる痛みが、想起を妨げていたのかもしれない。
著者が専門とする脳科学と、認知症についての最新の知見を得ながら自ら徹底的に考えた「その人らしさとは何か」の探究の道筋を辿るうちに、自分という存在もまた許容されているように感じられた。「その人らしさ」は、能力の多寡によって「だけ」でできているのではない。むしろ中心にあるのは、感情の動きという、これまでの通念では理性によってコントロールされ、そのまま表出すべきではないとされていたものが、実は自分が生まれる以前から、そして意識しないままに自分でも積み重ねてきた生命の叡智であり、各々の個性を形づくっているということだ。緻密な道筋で語られるこの事実に驚くとともに納得し、私自身も他の一人一人と同様に、全く同じものはどこにもない、一回きりの可能性のあらわれた存在であると感じることができたのだ。
愛情深い洞察が、著者の母のみならず、ひとつひとつの生命の肯定として聞こえてくる。「自分らしさとは何か」に悩む人に向けた耳障りのいい言葉が連なっている本は数多あるが、まったく質が異なる。そういう本は往々にして、新たな依存心の矛先を示しているように私には思えてしまうのだが、本書は著者とともに、読者も自ら思考し、自分自身を救い出す力を自然と喚起される。認知症の母親と暮らす上で起こる、現実生活の細やかなディテールと、そこから導かれた考察を読むうちに、読んでいる私まで、存在を許されている安全地帯に連れてきてもらったように感じられた。この安全地帯から、我々読者も、自分に備わった力を発揮することができるはずだ。表面を取り繕うのではなく、心から他者を肯定するように行動していなければ、文章にこのような感じは決して現れないものではないかと思う。そういう著者の心の質感が、文体から感じられる。
「死んだ後までつながる方法があるのなら、家族で行って見ておきたい、と思った」、と著者は「あとがき」の冒頭で言う。あまりに自然な言い方に、私はまたも動揺した。人柄の現れた、衒いのない文体がそうさせるのだろう。ここまで本書を読んできた人なら、彼女の言葉に嘘も誇張もないことを私と同じように感じているはずだ(そんなに自分を責めなくても……と思ったこともきっと一度ではないだろう)。
私は誰に対しても、そんな風に思ったことがない。もちろん普通に、育ててくれた両親や家族のことは大切に思っているのだが、「死んだ後までつながる方法」まで考えたことはない。
自然にこうした言葉が出てくるような関係をもともと持っていた人だからこそ、このような真摯な頭脳と感性の鍛錬が可能だったのか。もしくはこの本に書かれている痛切な経験が、著者にこのような自覚を齎したのか。
両方なのではないか、と感じながら文庫版のあとがきを読む。
人間が自由であるとはどういうことだろう。
著者は現実と「闘って」いるのでは決してない。家族のことを、自由を阻む「敵」だとか「軛」だなどと感じているのでもない。
そのような抽象的な「自由」を求めているのではなく、どんな状況にある人でも求めてやまない、人間の尊厳を実感し続けるための原資である、心の自由が損なわれないことを、どのようにしたら誰もが感じ続けることができるのかを、具体的に実践的に考え続けている。
どこまでも真摯なその姿が、これからもいつまでも私の心に残り続けるだろう。
Posted by ブクログ
前に読んだ本だが文庫化を機に再読。
認知症のメカニズムと関連した脳科学・認知科学の知識が、実例を、しかも実感を持って書かれているだけによくわかる。ただ、結論部の”感情”についての議論の後半部分はちょっとまとまっていないと感じた。著者が母の現状について、それでも意味があることを納得したくて、唯一大きく残っている「感情」に重きを置きたい、とも読める。行動に付随するものとしての感情と、その人らしい反応としての感情は、同じものなのだろうか。その人ならではの反応は、やはり”性格”のようなもので、反射的に表れる”感情”とは重なるところもあるけれど、重ならないところもあるのでは。
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