NHK「ハーバード白熱教室」制作チームの作品一覧
「NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム」の「ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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ビジネス・実用
Posted by ブクログ
正義を考えるためには善を考えることが必要。
善を考えるためには「原理と具体例を相互に往復しながら考えていくというアプローチを取るべき」
by ロールズ(反照的均衡)
カントの考えでは、人間が自律的に行動していると言えるのは、義務という名の下に何かを追求している時だけで、自分の個人的な利益のためではなく義務のために、何か善い道徳的な行為をしているときだけ。
その行為は自由から生じている。
なぜなら強制されたのではなく、道徳法則を受け入れることを自分で選んだから。
道徳法則は主観的な条件に左右されないので普遍的な法則である。
純粋理性とはどんな外部条件にも左右されず自分自身に適用されるもの。
「正義の原理は、仮設的契約から最もうまく導かれる」by ロールズ
「すべての正義は差別を内包する」byアリストテレス
アリストテレスの考え方は
「目的論的道徳理論」という考え方
目的、目標から論理を組み立てる
アファーマティブアクションへの反論を「大学教育にふさわしい目的や目標とは何か」という問いに置き換えることは、目的論的道徳理論の考え方
アリストテレスの政治論
政治とは、善い人格を形成すること、市民たちの美徳を高めること。つまり、善き生をもたらすもの。
カントやロールズの政治論
政治は私たちを善くするものではなく、私たちが善や価値、目的を選択する自由を尊重し、他者にも同様の自由を認めること。
コミュニタリアニズム
「自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定され、負荷をかけられている存在である」という考え方。
負荷ありし自己
コミュニタリアニズム批判
「責務が、そのコミュニティの構成員というアイデンティティによって定義されてしまったら、責務どうしが対立したり、重複したり、競合したりするかもしれない。そこに明らかな原則はないから」
Posted by ブクログ
哲学というのは人をして距離を置かせ、衰弱させるような活動のため、精神が未熟なうちにしてしまうと社会との距離のバランスがとりづらくなってしまう。
①どこから、基本的な権利はきているのか?
②公正な手続きはどんな結果も正当化するのか?
③同意の道徳的な働きは何か?
ベンサムの功利主義をジョン・スチュアート・ミルが発展させた
「満足した豚より、不満足な人間である方がよい。満足した愚者より不満足なソクラテスである方がよい。」by スチュアート・ミル
「正義とは道徳の最も神聖な部分であり、他とは比べようもないほど拘束力の強い部分である」by ミル
ノージックは分配の公正さは
①「取得の正義」または「最初の保有」
②その分配が自由な意思決定によるものかどうか
リバタリアニズムの課税による考え方
「個人の所得を取り上げるのは、個人の労働を取り上げることと同じであり、個人の労働を取り上げることは、個人を奴隷にするのと同じことである」
リバタリアニズムへの反論
「私たちは本当は自分で自分を所有していないのではないか」
Posted by ブクログ
上巻を読んでから随分経つので、またイチからだったのだけど、とても刺激的で面白い議論が展開されていく。
私が生きることと哲学は切り離せない。
偶然、今日読んだ本の中でも、まさに東京大学で交わされたような、日本人が戦争中に起こした過ちについて謝り続けるべきか?というテーマが論じられいた。
私が培ってきた思想や価値観、つまり考えの土台となる部分はこの国の教育が成したものだ。
私のアイデンティティの少なからずは日本的なものと結び付いているし、離れたいとも思わない。
この意味でコミュニタリアンの言わんとすることに重なる部分もある。
例えば自分の家族が過ちを犯したとして、私にその責任を負う義務があるのだろうか。
親の育て方だとか、犯罪者の家族だとして後ろ指をさされ続けることは、是としなければいけないのだろうか。
後半の結婚という社会的承認のことも、考えさせられる。
結婚が、生殖を目的としたものであるなら、男女間での結婚以外は認められないのか。
また、宗教的信念が交わるのであれば、結婚という制度そのものを、国の手から離すことは可能だろうか。
「私には、他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会にはより適切でふさわしい理念のように思える。私たちの道徳的・宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善を、より深く理解できるようになると思える」