本書は、都市近郊型で多品種少量生産を展開する久松農園の代表による著作である。著者が提唱してきた農業の「モジュール化」が体系的にまとまっていると期待し、頁をめくった。
著者が提示する3つの仮説と違和感
著者は本書で以下の3つの仮説を提示する。
企業的農業と職人型農業に二極化し、「普通の農家」は存続できない。
選択と集中が進み、農業生産はサプライチェーンの歯車になる。
儲からない野菜が作られなくなり、おいしい日本の野菜は消える。
これらの仮説には疑問が残る。たとえば久松農園自体、職人型でありながら企業的な側面もあり、単純に二極化しているとは言えない。また、サイゼリヤ創業者の正垣泰彦が言う「売れているのがおいしい」という説が示す通り、現代に即した売れる野菜が生き残るのが自然である。
さらに著者は、終章でワインを例に「合理性の追求か、唯一無二の物語か」という二者択一を迫る。しかし現実の成功者は、科学やデータ(AIや土壌分析)を駆使して物語を補強している。現代の消費者は広告代理店的な「作られたストーリー」を見抜き、生産者の生々しい事実に価値を見出す。現実の成功の本質は二項対立ではない。
農業における「モジュール化」の限界
著者の危機感の背景にある「モジュール化」とは、栽培技術や工程を細分化・標準化し、誰でも同じ結果が出るようにすることである。確かに、施設園芸の環境制御やスマート農機による自動化など、モジュール化「できる」部分は多い。
しかし、農業にはどうしてもモジュール化「できない」不確実性が残る。
露地栽培における気象激変(コントロール不能な屋外環境)
土壌微生物生態系のブラックボックス(化学肥料の数値だけでは測れない領域)
生物としての個体差と適応(病害虫の薬剤耐性など)
モジュール化を極限まで進めれば、均一な野菜による激しい価格競争が起き、コスト勝負に勝てる巨大企業だけが生き残る。だが、大規模化・単一化は一発全滅のリスクを伴う。また、手間のかかる「土づくり」が後回しにされれば、やがて土壌が硬質化して生産性は急落する。久松農園の多品種少量生産スタイルは、むしろモジュール化できない領域があるからこそ成立しているのではないか。
日本の現実と大企業の失敗
著者は「サプライチェーンの歯車」としての規模拡大を肯定的に捉えるが、現実の日本農業ではモジュール化が進む分野でも大企業の失敗が相次いでいる。
路地栽培から加工までの一貫工程を目指したワールドファームや、植物工場の先駆者であったスプレッドの破綻がその例だ。土地の制約や農地所有のあり方といった日本特有の構造問題への分析が、本書では不足している。
一方で、国の政策や関税によって守られている作物もある。たとえば群馬県の中山間地域を支えるこんにゃく芋は、超高関税によって海外産から守られている。地域維持という政治的・社会的側面も農業には存在する。
「おいしい野菜」の本質とインテグラル型農家
そもそも人間が野菜を食べるのは、体内で合成できない微量栄養素の摂取や、腸内環境を整える食物繊維の確保など、生存のための本能に根ざしている。「おいしい」と感じるのは、その植物が生命力に満ちていることを見抜く本能だ。
科学的に見れば、おいしい野菜には「糖度とアミノ酸のバランス」「健康な細胞膜が産む食感」「苦味の原因となる硝酸態窒素の少なさ」という条件がある。これらは健全な土壌構造の証であり、日本の多様な地形や旬を尊ぶ文化、そして農家や育種家の執念が育ててきたものである。
本書の対談の中で登場した「インテグラル型(統合型)農家」という概念にこそ、今後の日本農業のヒントがある。彼らは二極化の真ん中に位置し、「仕組み(モジュール)」と「こだわり(職人技)」を融合させるシステムインテグレーターである。中間規模でありながら、両者の強みを活かして新たなエコシステムを構築するこの層こそが、今求められている。
本書は、著者の出す仮説の論理や切り味には物足りなさが残り、二項対立の議論に偏りすぎているきらいはある。しかし、農業のモジュール化というテーマや対談の内容は非常に刺激的であり、日本の農業の未来を考える上で、一読の価値がある一冊である。