2134円
376P
レンブラント、ミレー、エル・グレコ、エミール・ゾラ、
ゴッホって、本当は相当気持ち悪い人で、今ゴッホが好きって言ってる人でも、生きているゴッホに会っていたら、たぶん距離を置いていたはずなのに、後世の人間は作品だけを通してゴッホを知るから、狂気や執着まで魅力として受け取られる所がゴッホのずるさなんだと思う。
吉屋 敬(よしや・けい)
一九四五年、横浜市生まれ。画家、エッセイスト、ゴッホ研究家。一九六五年、オランダに渡り、ハーグ王立アカデミー、フリー・アカデミーで油彩、リトグラフ等を学ぶ。一九七三年、ユリアナ女王戴冠二十五周年特別肖像画展に招待され、二十五名の画家とともに肖像画を描く。オランダ、ベルギー、ニューヨーク、日本の各地で作品を発表。二〇〇一年、日本人として初めてオランダ芸術家協会に推薦される。日本の新聞・雑誌等に寄稿。『青空の憂鬱――ゴッホの全足跡を辿る旅』(評論社、二〇〇五年)、『ネーデルラント絵画を読む』(未来社、一九九七年)などの著書がある。
「ゴッホはひたすら聖書を読みふけった。神に祈り、すがらないと自分を見失い、命を絶ちそうな恐怖に襲われたのだ。だがユージェニーを失ったこと以外にも、何か得体のしれない不気味な不安のかたまりがゴッホの心に居座るのが自分でも感じられた。この不安の正体を突き止めることができないことに、ゴッホは苦しんだ。 あまりの急激な変化を心配した家族は、アンナを通してうすうす事情を知ったようだった。グーピル商会の設立者のセント伯父、ハーグ支店長のテルステーフや父のテオドルスが何度か様子を見に訪ねてきたが、ゴッホは黙して語らなかった。自分にも説明がつかない不安感の説明のしようがなかったのだ。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「自分は何のためにこの世に生まれ、何を目指し、何をしようとしているのだろうか。意欲も目的もなく過ごす虚しさの中で、聖書を読むことと読書だけがかろうじてゴッホを救ってくれた。おそらく後のゴッホの精神疾患の最初の兆候は、この時に発症したように思われる。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「聖書を熟読していたゴッホは、自分をあたかも苦悩を背負うキリスト自身のように捉えていた感がある。彼の読書量は膨大だったが、この時期に彼は聖書以外にキリスト教関係の書物も渉猟し、十五世紀のオランダ人の宗教家トマス・ア・ケンピスの著書『キリストに倣いて』という本を熱心に読んでいる。まるでイエス・キリストの自己犠牲の一生に倣おうとでもしていたのだろうか。最期までイエスはゴッホの生きる指針であり、モデルだった。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「ロンドンで芽生えた、牧師になりたいという強い願望が再び頭をもたげた。しかし、大学への受験資格を得られるギムナジウムに行っていないから、ゴッホには大学受験の資格がない。高等市民学校しか出ていない自分が果たして神学校とか大学の神学部に入学できて、牧師になれるのだろうか? 新たな苦悶の始まりだ。 ドルトレヒトの下宿では、ヘルリッツという教師志望の青年と同室だった。彼はなかなか話のわかる男で、ゴッホは彼とは割と仲良くやって行けた。ヘルリッツは目下教師の国家試験を目指して勉学中で、めでたく合格し教職に就けたら結婚することが決まっているということだった。ゴッホは猛烈に反対し、諭した。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「ゴッホはドゥ・クリュックの狭い部屋で、毎日デッサンをして過ごした。デッサンは子供の頃は得意だった。母親の刺繡のデザイン見本集にある花の絵とか、古い版画に描かれている動物や人間などを、かなりうまく模写できたのだ。フィンセントには絵の才能がある、といつも家族のみんながほめてくれた。でも大人になってからは、デッサンもろくにしたことがなかったゴッホが再び鉛筆を取ったのは、ロンドンのロワイエ家の下宿時代からだ。うまくは描けなかったが、画商という仕事柄からも、絵がゴッホにとっていつも一番身近なものだったことは確かだ。ゴッホの師はバルグのデッサン教則本だった。これは当時の人体デッサンのバイブル的な練習帳で、多くの画学生がこれで学んでいた。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「ボリナージュでの放浪以来続いていたテオの支援金は、この頃になると以前の五〇フランから大幅に引き上げられて、毎月一〇〇フランに「昇給」されていた。そこから家賃を払い、画材やモデル代、食費を払うとそれでも足りなかった。ゴッホには計画的に生計を立てるという才覚はない。支援金が増えた分はモデルを雇ったり、画材を大量に購入したりして後先のことは考えないのだ。最初はシーンはモデルとして雇っている女であって、一緒に住んでいるということはテオにも父にも伏せていた。しかし、急に家族が増えれば、それだけ生活費もかさむ。画材も後払いで買っていたので借金は膨れあがるばかりだ。支援金が増えたにもかかわらずゴッホはたびたびテオに臨時送金を依頼し、それでも足りない分はテルステーフや友人のラッパルトに借りねばならなかった。テオから届く送金は、半分以上がまず借金の返済で消えるから、ゴッホは恒久的に金不足だ。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「ボリナージュでの放浪以来続いていたテオの支援金は、この頃になると以前の五〇フランから大幅に引き上げられて、毎月一〇〇フランに「昇給」されていた。そこから家賃を払い、画材やモデル代、食費を払うとそれでも足りなかった。ゴッホには計画的に生計を立てるという才覚はない。支援金が増えた分はモデルを雇ったり、画材を大量に購入したりして後先のことは考えないのだ。最初はシーンはモデルとして雇っている女であって、一緒に住んでいるということはテオにも父にも伏せていた。しかし、急に家族が増えれば、それだけ生活費もかさむ。画材も後払いで買っていたので借金は膨れあがるばかりだ。支援金が増えたにもかかわらずゴッホはたびたびテオに臨時送金を依頼し、それでも足りない分はテルステーフや友人のラッパルトに借りねばならなかった。テオから届く送金は、半分以上がまず借金の返済で消えるから、ゴッホは恒久的に金不足だ。 こうしたゴッホの生活ぶりは、狭いハーグの中ではたちまちにマウフェやテルステーフの知るところとなった。弟の支援で生きながら、不釣り合いな身分の娼婦を囲う不道徳な男、ゴッホ家の恥さらし、ろくな絵も描けないのに、芸術家を気取る鼻持ちならない男……。彼らの態度が変わったのは、ゴッホがシーンと同棲し始めたのを彼らが知ってからのことだ。マウフェは絶交期限の二か月が過ぎても、ゴッホとの交流を拒否し続けた。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「ゴッホはシーンをライデンの大学病院に入院させた。性病にかかっているのと、逆子のままの出産が危険だとわかったからだ。ゴッホ自身も彼女からもらった性病で入院し、治療を受けねばならなかった。病院に見舞いに来てくれた父は、すべてを知ることとなった。 無事に男児を出産したシーンが家に戻り、ゴッホの家族は四人になった。ゴッホは初めて自分の家族を持ったのだ。ゴッホは生まれた坊やにウィレムという自分のセカンドネームを付け、自分の本当の子供のようにかわいがった。いつも足りない生活費と、出ない母乳をかこち苦情を言いながらも、シーンは赤ん坊の面倒もまだ幼い娘のマリアの面倒もこまめに見た。ゴッホはシーンの母性愛溢れる授乳の姿を描いた。ゴッホは彼女と結婚しようと思った。それが彼女と子供たちを救う唯一の方法だと思ったからだ。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「この貧しい農家の食事の光景を見た時ゴッホは胸を突かれた。彼らは額に汗して自分の手で畑を耕して馬鈴薯を植え、再び額に汗して今、自分で収穫した馬鈴薯をその手で食べている。彼らの武骨な顔も手も土に汚れているが、それは労働の証しそのものだ。ここにあるのは、神聖でまっとうな労働の結晶、命の循環なのだ。これほど崇高なものがあろうか。ゴッホは初期のハーグ派の重鎮ヨゼフ・イスラエルスが描いた、貧しい農民一家が敬虔な祈りのあとで、質素な食卓を囲んでいる絵を思い出した(図 6‐ 12)。かつてグーピル商会で見て、強い印象を受けた作品だった。今まさにその絵から受けた感動の光景が、目の前に繰り広げられているのだ。ゴッホはハーグ派の薫陶を受けた画家として、「馬鈴薯を食べる人たち」を描かなければならない、と強く思った。ゴッホは模写から出発した独学の画家だったが、その画稿においても極めて独自性の乏しい画家だった。ミレーの模写は有名だが、他の画家から画稿までも借りた作品も多い。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「ゴッホはヨゼフ・イスラエルスの作品と同時に、敬愛するレンブラントを思った。彼の人物の深い精神性を描いた作品の何と暗く、そしてなんと明るいことか。暗い周囲に対して主題部分だけを詳細に描写し、そこだけに光を集中させている。そして主題以外の部分は極端な省略法で切り捨てている。明暗のコントラストで強調されて浮かび上がる主題と人間性。これこそがレンブラントが成し遂げた、イタリアの明暗法(キアロスクーロ)とは違う人間の内部から発散する精神の輝きなのだ。十七世紀の大画家の伝統を受け継ぐハーグ派を超える、まったく新しい現代絵画の出発点になるような作品をゴッホは描きたいと思った。ゴッホはこの作品に没頭した。おそらくこれは、自分の生涯の傑作、記念碑として後世に残るに違いないという確信があった。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「画家は見える事象だけを描くのではない。その背後にある見えないもの、モデルたちの内面、そうしたものを見つけて焦点をあてることができなければ、現代の画家とは言えないのではないか? アカデミックなスタイルや技法を超えるために、僕はあえてそれを否定したのだ。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「その後、ゴッホが有名な画家であることを知ったクーヴレールは、それまで無料で子供にあげたり一〇セントで売ってしまった顧客から倍以上、時には二十五倍もの金額で買い戻しに歩いた。この頃アムステルダムで四〇点以上のまとまったゴッホの作品がマウエンによって競売に出され、ほとんどの作品が売れたという。一九〇四年、没後十四年が経ち、ゴッホの名声が上がってきた頃のことだ。クレラー・ミューラー美術館を建てたヘレーネ・クレラー・ミューラー夫人が熱心にコレクションを始めたのもこの頃だ。今後も大工のスフラウエンが捨てた作品(裸婦のデッサンを含む素描作品の多くは再生紙工場行きとなったが)や、古物商のクーヴレールが売ったり無料であげたり、景品としたりして散逸した初期オランダ時代の作品が発見される可能性は、いまだに皆無とは言えないだろう。テオ未亡人ヨー・ボンゲルは後に訴訟を起こしてスフラウエンを訴えたが、作品を取り戻すことは不可能だった。ちなみにアムステルダムのファン・ゴッホ美術館には、今でも年間二〇〇点くらいの作品の真贋鑑定の問い合わせがあると聞いた。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「ゴッホ書簡集が出版された一九一四年に、ヨー・ボンゲルの努力が実り、アムステルダムの国立博物館で初めて大きなファン・ゴッホ展が開催されて、ゴッホの名声は揺るぎないものとなった。しかしそれ以前、ゴッホが美術市場で話題になり始めた一九一〇年頃にはすでに贋作が出始めている。 ゴッホの贋作者は何人かいたが、最も有名なのは、ドイツ人画商オットー・ヴァッカーの弟で、絵画の修復家だったレオンハルト・ヴァッカーだ。彼は三三点の贋作を描いたと言われているが、へレーネがブレンマーのアドバイスで購入した《サント・マリー・ド・ラ・メールの海景》は、後年の調査でレオンハルト・ヴァッカーの贋作であることがわかり、何点かある他の贋作と共に以後贋作と表示して展示されている。また日本でも、長く真作と思われてきた倉敷の大原美術館にある《アルピーユへの道》が、ヴァッカーの贋作と判明している。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「「印象派」という名前と存在については、ゴッホはハーグにいた頃からテオを通して聞き知ってはいたが、作品や画家についてほとんど知らなかった。だがパリに来てみると、印象派の明るい画法が想像していたよりずっと広く深く画家たちに浸透していることに驚かされた。最初、印象派の絵は魅力のない薄っぺらなものにしか映らなかった。だいたい色に深みというものがない。構図もいい加減だ。 ゴッホはハーグ派の画家たちの写実と重厚な色から出発し、レンブラントやライスダールの精神の深みを師と仰ぎ見てきた画家だ。ところが印象派の画家たちときたら、色や筆触のおもしろさばかりに重点を置いた結果、堅牢な構図や構築がないがしろにされている。ミレーやルソー、ブルトンやレルミットには、ありのままの自然の風景を通して、自然や人間、労働の神聖さを描くという思想の裏付けがある。ゴッホはそうした彼らの精神の継承者でありたいと願い、ニュネンで《馬鈴薯を食べる人たち》(図 6‐ 15、口絵 1)を描いたのだ。だからパリで印象派の明るい絵に接して驚きはしても、自分の画風をすぐに変えるようなことはしなかった。 しかしテオの印象派に対する考えは兄よりはるかに進んでいた。テオは、グーピル商会が扱う主力の官展系の画家たちが描いている歴史画とか神話画、宗教画など現実から乖離した観念的な作品を心からは評価せず、印象派による新しい美術の歩みに大きな期待をかけていた。そして外光によって刻々と変化する景色や空気、移り変わる瞬間を視覚的な印象として光と色彩で捉えようとしている印象派の先駆者たち、モネやルノワールやセザンヌやドガたちをいち早く認めて、彼らに続く新しい思想の下に描く若手の画家たちを支援し、育てることが、画商としての使命だと考えていたのだ。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「体調が戻ったゴッホは、さっそく仕事を再開した。発作を起こした日、ゴーギャンはゴッホが自作の黄色いひまわりを模写する姿を隣で描いていた。ゴーギャンはいつもゴッホに「想像で描くこと」の大切さを話していた。ゴッホは被写体を見るか、模写する作品がかたわらにないと描けない画家だったから、現実にはそこにないひまわりを、まるで本物のように描けるゴーギャンを凄いと思った。それも本物のひまわりより魅力的なのだ。そしてあの事件は、あの日の夜に起こったのだ。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「村にはルネとガストンという有名な素行の悪い不良の兄弟がいたが、彼らはゴッホに付きまとって嫌がらせをするのを楽しんでいた。彼らは戸外で写生しているゴッホのそばに来ては、彼の無頓着で不格好な服装を笑ったり、作品をけなしたり、思いつくままの悪態をついてからかった。時には描きかけのキャンバスに麦畑の土を投げつけたりすることもあったかもしれない。ゴッホが怒って追いかけたりすると彼らのいたずらはエスカレートした。いつも彼らを追い払うのに苦労していたゴッホだが、キャンバスに残されたぼさぼさの髪を風に吹かれるままに、路傍に咲く青い矢車草を一輪くわえた兄弟の一人と思われる少年の姿には、なぜか不思議な親しみが感じられると同時に、ゴッホの愛情が感じられて心惹かれる(図 12‐ 2、図 11)。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著
「 私はゴッホとテオの二人の兄弟の関係を考える時、光と影、主体と客体といったことに思いを馳せる。テオはその短い生涯を通じて、影のようにぴたりと兄に寄り添って生きたのだ。主体がなければその影も存在しないわけだし、あるいはその逆もまた真だろうが、どちらが欠けても互いに存在することはできない。こう考えると、ゴッホがテオとの関係でしばしば〈一心同体の運命共同体、分身〉などと表現していた理由や感情が、私にはよくわかる気がする。〈僕らは余人にはわからない絆で結びつけられている〉とゴッホが考えていたことは本当にその通りなのだ(図 12‐ 6)。」
—『ゴッホ 麦畑の秘密 (筑摩選書)』吉屋敬著