久々にスリリングな内容。こういう本に出合えるのが読書の醍醐味、という感じ。訳のせいもあるのかわかりにくい部分が多いが、時間をかけて読む価値がある本だった。
最初の数章では、生物学や社会学を駆使して、先史時代から初期の社会におけるモラルは主に淘汰の文脈で形作られていったとする。個人的には、最も読みごたえがある部分。
ドーキンスの利己的な遺伝子で語られるとおり、生物を遺伝子が複製を行うためのキャリアであると見なすと、本来は利他的行動は遺伝子を残すうえでは不利になるが、遺伝子プールの一部を共有する親戚も含めて考えた場合は利他的行動がプラスになりうる。よって、近しい親戚を中心とするバンド内においては他グループとの競争に勝つために利他的行動が合理的になりうる。
さらに、社会の構成人員が増えてきた場合、ここでもグループ内での生き残り(例えば、大規模な灌漑工事で生存率を上げる)、グループ間の生き残り(例えば、他グループとの戦争)において利他的な行動をとった方が遺伝子を残せる可能性が高くなりえる。そうすると、文化的群淘汰の概念からして、利他的な傾向を持つ遺伝子の出現確率が高いグループのほうが長期的に生き残りやすくなる、ということがあり得る。
つまり、初期社会における”我々”と”彼ら”の分別をしたがる傾向は、かなりの部分、生物的/社会的淘汰によって自己フィードバックをかけられた生得的なものであることになる。
すると、社会を維持するための善悪、タブーの存在も、それ自身の論理的/倫理的なものとは何の関係もなく、ただ単に我々がそういう、自グループを維持するのが好きな遺伝子を持つように篩い分けられてきたから、ということになる。
こうなると、古典で語られる善悪とは何だったのか、という気分になる。アリストテレスが人間はポリスの中でのみ真に善なる人生を送れる、としたのも、諸子が語る礼と義も、すべては順序が逆になる。それが善だから守るべきなのではなく、我々が守るべきと感じるものを善と呼び変えただけということになる。
このあたり、倫理学の観点からはかなりラディカルな含みがあると思うが、著者は淡々と事実を基に論を進めており、個人的には納得せざるを得ない。
本書の内容からは外れるが、いわゆる公正世界仮説がなぜ、これほど広い文化圏で共通するか、ということを以前に考えたことがある。その時は、公正世界仮説を信じる人だけが(良いことをすれば報酬があるはずなので)、結果的に将来に希望を持ち生き残りやすかったのでは、と考えた。
本書の論旨も、ある程度似ているところがあるように思う。先に善があるのではなく、我々が自分たちに都合がよいように善を決めているだけなのだ。本書の原題である”善悪の発明”とは言いえて妙である。
ここまで来て、従来語られていた倫理学の境界を崩し、再構成するような議論になるのかと思ったら、ここから少し様相を変える。
1万年以上をかけて”我々”と”彼ら”の分別をしたがる傾向を定着させてきた人類だが、中世に入り、少しずつ変化が始まる。
そのトリガーが、意外なことにキリスト教、特にカソリック。宗教こそ、人間を恣意的にグループ分けする筆頭のように思うが、著者によれば、キリスト教の家族計画は、それまで血縁を中心として成立していたグループを解体し、教義を中心としたものに再構成した、という。したがって、キリスト教が説く連帯は、皮肉にもそれまで人類が持っていたグループの絆を打ち壊すきっかけを作ったことになる。
更に近代社会に入り、神が隙間に追いやられることで、文化や思想によるグループの結びつきがそれらにとって代わるようになる。その極端なバージョンとして、いわゆるWEIRDな人たち、が発生してくる。
WEIRDは、社会科学の分野でどちらかというとバイアスを生じさせる存在として語られがちだが、著者は、WEIRDな人々が血縁/地理/文化を越えて他社に共感する傾向が強いことに着目する。彼らは、自分に直接関係のない人々にまで共感し、その不幸を不快と感じる傾向を持つ。ある意味で、WEIRDな人々は人類全体に対して”我々”の概念を持つ存在に近い、人類史上初めて生まれたまさしく奇妙な存在である、と言いえる。
とは言え、長い年月をかけて作られてきた”我々”と”彼ら”を分けるのが好きな傾向は高々数十年でそう簡単に変わるものではなく、相変わらず、人類は互いを区分けするのに忙しい。ネット上でお互いを罵り合うのが日常茶飯事となり、大国が”彼ら”を好き勝手に蹂躙する光景も見慣れたものになってしまっている。結局、人類は敵対しあうのをやめられないような進化の袋小路に入ってしまったのかもしれない。
本文中で、”悪だけでなく善も陳腐”という言葉がある。人間には根っからの善人も悪人もおらず、基本的には、全員が陳腐な凡人にすぎない。ただ、偶然に置かれた環境、属したグループによって、善悪を行い分けるに過ぎない。かつ、その善悪も、事後に、他のグループからラベリングされるものでしかない。
ではどうするか。前半の明快さに対し、著者は明確な思想を提示しているようには読めなかったが、一つにはこれが現在進行形の現象であるからだろう。また後半部分は、BLMやキャンセルカルチャー等最近のトピックが随所に挿入されるようになり、論旨の方向を分かりにくくしている。
ただ、全体としては著者は明るい方向を考えている。キリスト教が血縁によるグループ分けを駆逐したように、いずれは、全世界を一つとして考える思想が、エコーチェンバーに閉じこもる人々を淘汰できると考えているようだ。
そのためには、問題を発信し、受け取り、対話し、考え続けること。最近、ネガティブに語られがちなWokeも、本来は社会の諸問題に”目を閉ざさずにいる”という意味であった。不快な理論をプラットフォームから駆逐するのでなく、オープンな議論にさらし、より優れた議論との競争にさらして淘汰していくこと。迂遠なようだが、そのプロセスこそが人類を生き残らせる方法である、と論じたいのだと思われる。
ただし、オープンなプラットフォームで話し合えばわかる、という安易な態度に似て非なるものなので、近年のリベラルが”対話できないのは野蛮の証拠”とばかりに小難しい言葉で上から目線で議論する態度に成り下がる危険性もある。また、どうしても時間がかかる営みになるので、結局リベラルは口ばかりで何もしない、という状態に陥らないような自戒が必要であろう。
キリスト教と技術の進歩が生物学的な群を置き換え、徐々にWEIRDのような人類にとっての異常値を生み出してきたように、これからまた、人類は異常値をむしろ積極的に生み出していくことで生き延びていける、という結論はポジティブであった。
ただ個人的には、既存の倫理学を徹底的に突き崩すかのような前半部分のほうが好み。もう少し、著者の考える善とは何か、という思想を明快に語ってそれを軸にした議論を見たかったのが、唯一残念。