ランダム性とか隣接可能性みたいな、「クラスの問題児」みたいな概念や現象がお気に入りだ。誰かの考える秩序や予定調和の中で生きる事が常に不愉快という事ではないが、予定表通りの人生は、配られた原稿の読み上げをただただ聞く講演のように眠くなる。
複雑系は、単に事象を構成する要素を分解して解釈しようというアプローチに留まらず、それらの相互作用も変数として想定する。都市交通シミュレーションとか気象予測、人間関係だって複雑系と言えそうだ。
ー もし細胞が小さな機械のように動作するとしたら、病気や怪我に直面したとき、体はあまりに脆弱だろう。細胞が治癒反応を見つけるために体内や周辺を移動する際の動作には、ある程度のランダム性が含まれていなければならない。しかし、人生の多くの場合、中庸が最善の道であるのと同じように、複雑系ではランダム性の程度が鍵になる。過剰なランダム性は自己組織化にとって妨げとなる。その一方でランダム性が小さすぎると、システムは機械のように動作することになり、適応行動のための新たなモードを見つけるのに十分な柔軟性を失いてしまう。複雑系は、抑制無秩序とも呼ばれる、過不足ない低レベルのランダム性によって、スチュアート・カウフマンが「隣接可能性」と名づけたものを探索する能力を開花させる。ランダムな出来事があちこちで発生し、探査や開拓のための新たな存在様式や方法が偶然に見つかるときはじめて、展開の機会が訪れる。複雑系が活動しつづけられるのは、わずかなランダム性があるからなのだ。
ー 通常、量子エネルギーは物質と反物質のペアになる。たとえば、対立する電荷を持つ、電子(物質)と陽電子(反物質)は、同じ瞬間に出現し、接触するとたちまち対滅し、質量を純粋エネルギーに変換する。したがって、時空の量子ゆらぎは、絶えず沸き立ち、攪拌されるエネルギーの量子泡を作り出し、泡立って質量を持つ実体となり、爆発してエネルギーに戻る。リチャード・ファインマンは、このことについて、「生まれては消え、生まれては消えるー 何という時間の無駄だ」と書いている。しかし、それはけして無駄ではないのだ。これらあらゆる実体のうちで最小のものたちは、ときに物質と反物質の出合いによる対消滅を免れ、質量を持つ実体のままとどまり、ほかの実体と相互作用する自由をえることがある。これらの相互作用は、ほかのすべてのスケールのレベルにおける相互作用がそうであったように、創発構造を生じー亜原子粒子となり、より複雑な亜原子粒子は原子に、あるいは分子になる。そして、これらが自己組織化し、恒星となり惑星となり、銀河となり、宇宙とそれが内包するすべてのものとなる。世界はこのようにして、宇宙の時空構造内に沸き立つエネルギーの放射として生まれてくる。
物理学と形而上学の重なる領域。簡単な中身ではないが、思考実験的な世界を覗き見る、大人の会話の場にポツンと参加する幼児のような感覚が至高である。