アンディ・ウォーホル氏の著作『ぼくの哲学(The Philosophy of Andy Warhol: From A to B and Back Again)』は、単なる自伝でも、芸術論でもなく、彼自身の存在そのものを一つのアート作品として提示するようなテキストである。ポップアートの旗手として知られるウォーホル氏は、1950年代の商業イラストレーターとしての活動を経て、60年代には、スープ缶やマリリン・モンローといった大量生産されたイメージを作品化することで芸術の領域を根底から揺さぶった。彼の作品は、「何を描くか」よりも「どのようにそれを複製し、流通させるか」という点に焦点を当てることで、アートにおける「創造する主体」の存在意義を相対化した。これにより、芸術における「個性」や「創造性」は内面的衝動ではなく、社会的・メディア的な文脈のなかで再定義されることになった。
本書においてウォーホル氏は、恋愛や時間、お金、美といった様々なテーマについて語るが、いずれの語りにも深刻さや観念的な理屈はほとんど存在しない。彼は軽薄さをあえて演じながら、「本物の自分」や「真実の芸術」という概念を解体していく。たとえば、「1番魅惑的なアートは商売に長けていることだと思う(本文のエッセイ6「働く」から引用)」といった発言には、資本主義社会のなかで芸術と消費がもはや切り離せない現実を、アイロニカルに肯定する姿勢が見られる。彼にとって、作品制作は市場やメディアとの相互作用のなかでしか成立しえず、芸術家の役割は「世界を映す鏡」であるよりも、「世界の回路そのもの」になることだったのだ。
また、本書は彼の「ファクトリー」時代の総括と位置付けることができる。多くの人々と共同し、シルクスクリーンによる複製を量産した彼の制作現場は、芸術の神話を解体し、アーティストを一人の天才から社会的な装置へと変換した。本書においても、彼は「ぼく」という一人称を使いながら、どこかでその自我を消し去っている。語っているのは確かにウォーホル氏自身だが、その語り口は無限に再生可能で、彼の肖像画のように「誰でもありうる」存在として響く。
本書『ぼくの哲学』は、ウォーホル氏が作り上げた「ポップアートの世界」を言葉のレベルで再演した書物である。彼の冷笑的な明るさや人工的な平坦さのなかには、人間存在の空虚さと、それでもなお生きていく軽やかさが共存している。「芸術作品を作る」ことと「生きる」ことを同義に語った本書は、ウォーホル氏の人生そのものがアートであったことの最も率直な証左といえるだろう。