最初に断っておくと、本書は小説だ。
参考文献の記載も無く、ノンフィクションに分類されていない時点で、本書の歴史的事実に関する記述の正確さを考慮して評価を下すことは適切ではない。あくまで実際に起こった事件を土台として、当事者や関与した人間がどのように考えて行動したかを考える作家の想像力の方向性と、それを再現するための文章能力や演出方法に注意を向けて読むべきだ。当時の情勢や声を現代に届けてくれる資料として本書に目を通していくことはあまり意味がないように思う。それが作家の意図する全てではない。
金薫は、安重根の若く力強いエネルギーと行動力を是が非でも取り上げ、作品として昇華させたいと長年思っていたそうだが、事件の歴史的・政治的重みに気圧されてずっと手をつけられないままであったという。書くために数え切れないほどの資料に触れ、その度に挫折し、ようやく本書が執筆される頃、処刑された安重根とは対照的に著者は若さを失ってしまっていた。しかし、落ち着いた年齢に達した頃に本書を書き出したことはかえってよかったと思う。作家の精神の落ち着きは、この事件の主犯である男に新たな深みを齎した。
公判の記録から伺える安重根の後ろ姿は、直情的で力強い。しかし本書における彼は、一本気で決断力があるものの、静かだ。闘志を表に出すようなことはほとんどない。むしろ神父や彼の妻が評しているように、危なげで迷いを多く抱えた人間として映る。大学建設の希望を司教に話すも無視され、上海に住む資産家の同胞に国権回復を呼びかけるも相手にしてもらえず、ただ自国の民衆が外国権力によって蹂躙され死体の山が築かれていくのを茫然と見つめる彼の後ろ姿には、深い悲しみと絶望、諦観が漂い、その目には先行きの閉ざされた未来を進もうとする者の迷いが感じられる。「土地に縛られていながら、土地に居場所を見出せない男」、妻である金亜麗がこう評する男は、事件に至る前にその意思の根付くべきである大地を既に奪われていたのである。
伊藤博文暗殺の主犯を無知で文明度の低い人間として扱い、法の裁きを受けさせることでその文明度の高さを世界に喧伝したい大日本帝国、対して事件に政治性を付与し、文明度の高い人民を処刑する野蛮な国というイメージを作り上げて傍聴者に見せつけようとする安重根、この対立構造は何を示すのだろうか。単に彼の文化度の低さを頭ごなしに否定する日本の横暴を取り上げた場面と読むのは容易い。しかし、事件に至るまでの安重根の心理の動きを見ていると、もっと大きな構図が見えてくる。
安重根は多くの現代朝鮮人からしたら、侵略者に立ち向かった英雄として見えるのだろう。全員がそうではないのだろうが…。しかしこの作品の中の安重根は、「英雄」という言葉から連想される程に雄々しく強くは見えない。むしろその姿は、日韓協約による日本への権利譲渡、高宗の退位、高官達の相次ぐ自殺、暴動とその鎮圧により増加していく死者の群れといった一連の流れに途方にくれていたであろう民衆と大いに重なるものがある。伊藤側の記述にも見えるように、日本側の予想に反して多くの民衆が暴徒と化して総督府の専横に反旗を翻したわけだが、日本が軍を引くわけでもなく、欧米列強が助け舟を出してくれるわけでもなし、国外に逃げた資産家たちも実情から目を背けている状況だった。闘志はあれど、希望は見えない。ただただ疲弊していくばかりで、一向に良い方向に向かっていかない。彼らの勇猛さの裏では、深い絶望も癌細胞のように体の隅々にまで浸透していたのではないだろうか。
作家の意図はどうあれ、本書は安重根について話す事を通して、当時の朝鮮人達の心理を克明に描き出すことに成功している。金薫は安重根の背中を追い、その根底に朝鮮人達の抱いていた怒りと諦めの混沌とした渦を見たのだ。そうしてこの小説は普遍性と宇宙のように深く複雑な深淵を獲得した。緻密に練り上げられた計画を持たずに飛び出した安重根と禹徳淳、殺害に至るまでの淡々とした空気、迷いなく引かれた引き金、これらが全てを物語っている。法廷での裁判長と安のやりとり、そこでは国家と個人の場面の上に国家と国家の争う光景が重なる。一人ではない、朝鮮人民の悲しみと苦しみにまみれたあがきが、この小説の隅々から滲みだしてくるようだ。
著者と歴史的事実が長年の共同作業で救い出したこの果てしない漆黒の闇を、我々読者は感じ取らないといけない。間違いなく本書は名著だ、小説故に。
作家が小説でなければ再現し得ない世界を認識し、寸分の狂いもなく文章に起こすことができた作品、それは、歴史を超えるのである。