仏教についてビジネスパーソンにわかりやすいように書いている本。
・釈迦牟尼(ゴータマ・シッダールタ)は、人間が「どのように考え、どのように行動すれば心豊かに生きられるのか」を、人生を懸けて考え抜いた人
・ものごとに絶対性はなく、すべてが相対性で成り立っているのです。
・それなのに、私たちは予測可能、コントロール可能だと思い込み「こうなるはずだ」と固定的に考えがちです。それは苦しみが発生する原因となります。それを見直すための思考を提案するのが、仏教なのです。
・私たちが生きる先進国の現代社会は、資本主義が社会の OS(基本システム)のようになっています。この社会を論じるときの一つのポイントが、「唯物論・進化史観・弁証法」です。
・弁証法とは、対立する Aと Bがあるとき、それがぶつかり統合されることで、さらなる高みへ進み、それを繰り返すことで究極の真理へ進むという概念です。
・中観とは「あらゆるものごとは因果関係と相対性を持つ。ゆえに万物に絶対的、独立的な実存性はない」という考え方。唯識とは「ただ認識がある」との文字通り、「あらゆるものは何かに認識されることによってのみ存在する」という考え方です。
・反対に、他者の利益を考えることは、他者と切り離せない「私」の利益を考えることにもなります。
・すべてのものごとは相対性の中で存在するので、「この条件下ではこれが善と認識されるけれども、条件が変われば悪に変わり得る」
・完全なるメタ認知を獲得し、時間や空間の認知スケールを自由自在にコントロールできるようになることが、「さとり」ではないかと考えています。
・仏教では万物の根源、ものごとの本質は「空性」であると考えます。ひとことで言えば「実体のなさこそ本質である」という意味で、有名な『般若心経』に出てくる「色即是空、空即是色」は、これを表した言葉です。
・言い換えれば、私たち人間一人一人を含むすべてのものごとは、この世界に何らかの形で現れているけれども、その実体は、可能性としての「空」なのです。
・仏教には完成させるべき三つの智慧、「三慧」があるとされます。その三つとは「聞・思・修」で、「聞」は知識のインプット、「思」はインプットした知識を自分なりに解釈すること、「修」はそれを自分で実践・体感することです。
・密教が目指すさとりの形態は「即身成仏」です。「身に即して仏に成る」との文字通り、一人一人が自分のあり方に即してさとりを開き、仏陀になるという考え方が、他の宗派とは異なる密教の最大の特徴です。
・曼荼羅とは、このように自分を中心に無限のネットワークが広がっている様子、それが「私」の世界だという表現なのです。
・「仏陀」とは他者の苦しみを滅することができる人のことで、仏陀の教えに従って自分の苦しみを滅することができた人が「阿羅漢」である。
・仏教には「豊かさとは余剰であり、余剰とは他者に与えることができるものだ」という考えが基本にあります。
・一般に「他人と過去は変えられない」といいますが、今の「生き方」次第で、嫌だと思っていた過去を変えることもじゅうぶん可能です。仏教の経典によく出てくる「今を生きよ」という教えは、このことを説いています。
・人間は自分で直接体験したことでないと、腹の底から納得することはできないものです。なぜなら、執着やエゴは潜在意識領域のものだからです。
・そして、どのような直接体験が執着を外すのかも、人や状況によって千差万別です。モンゴルに行って馬で草原を駆けたときかもしれないし、いつもの道を散歩しているときかもしれません。
・一切皆苦を私なりに現代的に訳すと「現状認識を正しくおこない、一切のものの中に苦の可能性が存在することを認めよ」です。
・何か行為を成したり、思いを成したりしてその結果として自分に苦痛が発生することは悪である。その反対に、行動や思考の結果として喜びや安楽がもたらされるのであれば善である。苦痛も安楽も発生しない、とくに何も起きないことは善でも悪でもない。
・そして形而下に現れている姿かたちのある物理的なもの、また「固い・やわらかい」「右・左」といった認識は、可能性の海である「空」にあるものが、因果関係の働きによって、認識可能な状態として現出すると考えます。
・自分という個体を超えて、人類、というより世界、宇宙がこれまで経験したことが、すべて蓄積されている海のようなものです。
・哲学における問いを磨き込んでいくと、究極的には「世界とは何か」と「私とは何か」に二分されますが、乱暴な言い方をすれば、前者が西洋的で後者が仏教的であるといえるでしょう。
・世界の精神文化は、結局のところ「有神論か無神論か」「ものごとに絶対性があるかどうか」の二つの対立軸があるようです。
・すべてのものごとには絶対性がなく、関係性によって常に移り変わる。 そして自分は、関係性で成り立つ大きなネットワークの一つの結節点である。「私」とは「『私以外のすべてのもの』ではないもの」であり、「私以外のすべてのもの」と等しい存在である。だから自分の利益のためにも、全体のために行動すべきなのだ。