ブルマーの謎: 〈女子の身体〉と戦後日本 単行本 – 2016/12/8
セクハラ概念の浸透によって密着型ブルマーは消えていった
2018年3月14日記述
山本雄二(やまもとゆうじ)氏による著作。
2016年12月8日第1刷。
自分が手に取った分は2017年1月27日第3刷とあるから
異例のヒットといえるだろう。
題名自体は割とオーソドックスではあるけれどもブルマーを上手い感じに表に出して読者の関心?を引いている。
著者は1953年、愛知県生まれ。
京都大学 工学部交通土木工学 1979年 卒業
京都大学博士課程 教育学研究科教育社会学 1986年 修了
取得学位 修士 1983年 3月 京都大学
関西大学社会学部教授
専門は教育社会学
学校の体育において女子は長年ブルマーを使用してきた。
それがある時期を境に急激に日本全国に普及し、約30年もの間君臨した。
そしてある時を境に急激に日本全国から姿を消した。(1990年代半ばから)
言わば謎としか言いようのないこの現象に対して調査を続け、まとめ上げたのが本書である。
学術論文の雰囲気は無く読みやすく作られている。
データや写真も多く掲載されている事も評価したい。
自分の小学生中学生時代(1991年~1999年)の大阪府大阪市では本書で取り上げられる密着型ブルマーが使用されていた。
第二成長期の中学生時代にこのブルマーは確かに恥ずかしいだろうなと。
ちょっと対応が遅すぎたかもしれない。
ただ学校のものという事で問題であるという認識が乏しかったように思う。
全国の中体連による推薦があり全国に広まったというが・・
GHQの指令で全国大会を開催することが出来ない時期があったことはちょっと知らなかった。
今では才能を見つける為にも全国大会、地域大会を開く事はあらゆる競技において欠かせないからだ。
印象に残った部分を紹介したい。
学校には奇妙な力学が働いている。一旦導入されて定着したものに対しては、その効用が疑問視されようが、あるいはそもそも何の為に導入されたのかが忘れ去られ、もはや誰も説明できない状況になろうが、そのまま継続される傾向があるのだ。単に継続するだけでは無く、廃止の声に対しては積極的に抵抗するように見えることもある。どうしてだろうか。その理由は簡単だ。
継続する内にいつの間にか精神性をまとい、道徳性を帯びるようになるからである。
「どのようにして学校に取り入れられたのかわからない、なのに継続だけはされ、もはや、どうして継続しているのか誰もわからない」現象として、密着型ブルマーほどふさわしいものはないだろう。
一番初めにブルマーを女子体操着として日本に紹介したのは井口阿くりである。
みずから考案した体操着を奨励した。その時に図入りで紹介したのが、上は長袖のセーラー服、下は膝下までの巨大なふくらみを持つニッカーボッカー風のブルマー(当時はブルマースと呼ばれていた)である。
ブルマーが広く一般の学校に定着したのは、井口が帰国し啓蒙を始めてからさらに20年ほど後の事らしい。
文部省は体育時の服装に関してかなり気を使ってきた。
女子の体に対して性的まなざしを誘発することがないようにまた性的存在であることをことさらに意識させることがないように注意しなさいと指導しているわけである。
普及と消滅に関する諸説
東京オリンピック憧れ説
→ソ連の選手に憧れた少女達がいたとしても、学校の制服を変化させたと考えることはとても出来ない。
これまで学校が少女たちの憧れを制服に反映させたことがあっただろうか。
技術の進歩/業界の事情説
→学校の体操着は、ユニクロの服がヒットするような仕方でヒットするわけではないのだ。
多くの場合学校の指定という要件が間に入る。生徒が選択出来るのはどのメーカーのものを選ぶかだけなのである。どうして全国の学校がある時期にこぞって密着型ブルマーを女子体操着として採用したのかだ。技術の進歩と業界の事情ではその点を説明することが出来ないのである。
運動機能向上説
→ブルマーに関しては、ちょうちんブルマーから密着型ブルマーに変わったからといって、動作面での機能は殆ど何も変わらなかったと言える。
1946年5月 文部省が作成した新教育指針では
国家主義を否定して、個人の健康とスポーツマンシップを養成することスポーツエリート主義を否定して、全ての子供にスポーツの機会を与えること勝利至上主義を否定して、個人の性別・体格・技術に応じた目標と実践をおこなうこと
三番目に否定されている勝利至上主義は、体格・技術・訓練に見合わない勝利にこだわれば必然的に精神主義に走らなければならなくなるという意味で精神主義もまた否定されている。
精神主義から脱するには、上達のいずれの段階でも科学的な発想が求められるが、この科学的発想こそが戦前までの教育に欠けていたものなのである。
このことを反省して指針は次のように書く
「科学教育にちて、はなはだ冷淡であり、むしろ、誤った考えすら抱いていた。すなわち科学教育を知育偏重と混同して、これを有害なものと考える人々すらあった。
また日本人は物事を取り扱うに、「勘」とか「骨(こつ)」とかいわれるような主観的、直感的な力にたより、客観的・合理的な方法を発展させることを怠った。
たまたま、その勘や骨に恵まれた天才的な人間が、優れた技術を持つことが出来てもそれを規則だった方法の訓練によって、多くの人々に学ばせたり、後世の人々に伝えたりすることが、出来なかった。さらに日本人は権威や伝統に盲従して、これを批判する態度が乏しく、感情に支配されて、理性を働かせることが少なく、目や耳に触れぬ無形のものを尊敬して、物事を実証的に確かめる事が不得手であり・・」
1964年の東京オリンピックは、のちの回顧番組などでは男子体操や柔道の活躍、それに女子バレーボールの優勝などもあって日本が大活躍したという印象が作られているが、柔道とバレーボールは東京大会で初めて採用された新種目であり参加国も少なく、世界の目から見ればどちらかといえば枝葉の種目だった。
その感覚はスポーツ大日本派にとっても同じで、重要なのはやはり水泳と陸上だった。
東京大会は日本の栄光を世界が目の当たりにする晴れ舞台になるはずだった。
ところが、よもやの惨敗である。スポーツ大日本派にとって東京大会は晴れ舞台どころか屈辱の大会となってしまったのである。
大会をやらせない為の組織だった中体連は、もともと会費と補助金と推薦料以外の集金システムを持ち合わせていない。他の方法で資金集めをするノウハウもない。
だから、大会に関わるようになってからの中体連は慢性的に資金難にあえいできた。
オリンピック東京大会以降、全国中体連は資金面での困難がますます大きくなった。
そうした資金的窮状にある時、素晴らしく商才に長けた人物が中体連にあるアイデアを持ちかけた。これまでたびたび回想記の中に名前のあがっていた千種基である。
校長会-東京都中体連-全国中体連-日本綿毛(尾崎商事)が密接に持ちつ持たれつつの関係を維持しながら、ジャージ・ブルマーの浸透はいわばトップダウン方式で急速に進んでいった。
密着型ブルマーが消滅に向かって加速するためには(中略)
セクハラ概念が日本社会に急速に浸透したことだった。
セクハラが日本社会に浸透し始めたのは1989年のことである。
言葉自体はそれ以前にも使われていたが、福岡の出版社に務める女子編集員が上司のセクハラを理由に民事裁判を起こした事で広く注目されるようになった。
そうした時代の流れの中にあって、密着型ブルマーの強制もまたセクハラではないかという議論が出てきた。発端は1993年11月22日付けの朝日新聞がブルマーの統一くすぶる不満としてシンガポール日本人学校中学部のブルマー統一問題を取り上げたことだった。
長い間、無視されたり抑圧されてきた反ブルマーの声は、セクハラ概念の浸透によってようやく学校にも届くようになったといえる。