・菊池貴一朗「現代語訳絵本風俗往来」(角川文庫)を読まうと思つたのは、斎藤月岑・長谷川雪堤「現代語訳東都歳事記」を読んだからである。「東都」は有名だし、記述は簡潔を旨とするゆゑに江戸の文語でも読めないことはないのだが、私達の言葉に訳してあればそれにこしたことはない。挿絵はほどほどだが、それぞれのポイントにはついてゐる。では「風俗往来」はどうか。こちらは挿絵が豊富、ほとんどの項目が挿絵つきである。時代的には、「東都」が天保9年(1838)刊、「風俗往来」が明治38年刊ながら、その描かれた世界は、嘉永2年(1848)生まれの貴一郎の「作者が記憶のままを綴って合わせたもの」(小林祥次郎訳「凡例」29頁)であるから、江戸時代最後の風俗である。この後20年もすれば武士も丁髷も消えてゆかんとする時代である。 実際にはどうか分からないが、私には両書ともに同じ時代の風俗のやうに思はれる。現代と違つて時代はゆつくりと進んでゐたはずである。20年や30年の差はほとんどないのかもしれない。ただし、本書には「東都」に出てこない項目がある。それは下編雑の部である。ここには歳時記にも出てくる項目もあるが、出てこないものも多く、それがなかなかおもしろいのである。例へば最初に名主・家主・店子や地主が出てくる。家主と店子は落語にもよく出てくるが、地主は聞いたことがないやうな気がする。まして「名主の配下に家主という者がある。」(498頁)とか、「名主に名主代があり、家主に 町代があった。」(同前)などといふことは知らなかつた。落語だとそのあたりは飛ばしてゐるのか、直接奉行、あるいはその配下の侍とつながるのかと思つてしまふのだが、実際にはさうではなく、家主にも上下があり、その上の名主にも上下があるらしい。かういふ支配構造の方が、確かに漏れはなくなるし合理的でもある。また、「地主・店子の負担」(500頁)といふ項目もあり、その内容が簡潔に書いてある。これらは一般の歳時記には出てこない。本書下編が歳時記として優れてゐる点である。い や、欠点かもしれないけれど、私には十分におもしろいし役に立つ、異色の歳時記と言へよう。
・この後、更にあるのが店を持たない〈商売人〉である。売卜者は街角の八卦見、易者であらう。この手の人が出るのはどの辺りで、どんな着物を着てどんな様子で占ふかなどといふことが書いてある。「いかにも由ある武士のように見せた。」(502頁) のは、何事も見た目が大事といふことであらう。「お記録本屋」(504頁)は、「外神田御成道の入り口である広場に筵を敷いて、古書籍を陳ねて商う本屋の老爺」(同前)である。その名の由来や安売りをしないなどといふことが書いてある。個人のは他にもあるが、個人でないものもあり、「石見銀山鼠取受合」(509頁)は殺鼠剤売り、「鳥指」(523頁)は将軍家の鷹匠の飼ふ鷹の餌の雀を捕る仕事である。商人ではない、と書いていつたら切りがない。「夜鷹」(548頁)、「紅かん」(554 頁)、「乞食芝居」(558頁)、「縄衣裳の乞食芝居」(560頁)、「猫八」(579頁)等々、個人もあればさうでない者もある。しかし、いづれも筆者実見の大道商人(の類)である。店を持つのが難しいからには人出の多い場所で商売するに如くはない。これらは乞食同様、様々なしかたで金をせびつてゐたのである。かくも様々な大道商売、あるいは乞食の類がゐた。かういふのは普通の歳時記からは大体漏れる。それを実見に基づいて書いてある。下編の妙である。下だけ読むのもありと言へよう。ちなみに、菊池貴一朗は4代目広重であつた。