チャンガンミョンの作品一覧
「チャンガンミョン」の「極めて私的な超能力」「罰と罪」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「チャンガンミョン」の「極めて私的な超能力」「罰と罪」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
Posted by ブクログ
原題を直訳すると『再捜査』らしい。
が、このドストエフスキーを食った様な不遜なタイトルは素晴らしい命名だと思います。
犯人の純文学っぽい独白と警察小説が交互に語られます。
エンタメと純文学を交互に読んでる様な気分で読みました。
とはいえ、世界文学みたいなものかと言われるとそうではなくちゃんとエンターテイメント小説です。
とにかく面白かった。
犯人の言い草に頷けないあたりが読む速度を落としますが、最後まで興味深く、追う方、追われる方から出てくる描写を楽しみました。
韓国の作家が書いて、日本語の分かる韓国の人が日本訳をした作品。
読む前にドストエフスキーの五大長編は読んだほうがいいかも?
『白痴』は結構内容に触れるので気になるなら先に読んだほうがいいですね。
面白かったです。
Posted by ブクログ
韓国の警察小説。
22年前の事件を追う3人の刑事の動向と、犯人の独白が交互に続く。
この巻の後半、被害者が所属していたドフトエフスキー小説を読む読書会のメンバーへの刑事のインタビューが始まるあたりから、犯人に近づいているような雰囲気が出始めるが、まだわからない。
下巻を読むのが待ちきれない。
内容とは別に、韓国語を勉強しているので、登場人物の名前や、ところどころに出てくる韓国語もとても興味深かった。
・アイゴ---女刑事ヨン・ジヘの口癖 「ああ、まあ、はあ」という意味の感嘆詞
・ノ・ナ・シロ---被害者の口癖 「あなた、わたしのこと、嫌いでしょ」の意
Posted by ブクログ
『罰と罪(下)』を読み終えて、まず残った感覚は「しまった!」という悔しさだった。物語の中盤、ある証言の食い違いを前にして、私は何も引っかからずに読み進めていた。伏線回収がすでに始まっていたことに、気づかなかったのだ。
ミステリーを読んでいるとき、私はたいてい何かしらの引っかかりを持ちながら読み進めている。違和感や伏線らしきものを、完全に言語化できなくても、感覚としては掴んでいるつもりでいる。ところがこの作品では、それがすっぽり抜け落ちていた。
奇数章では犯人キム・サンウンの独白が続き、そこでは啓蒙主義やドストエフスキーといった、いかにも「考えている」ように見える言葉が大量に投下される。私はそれを、上巻の時点では「ただの屁理屈だ」と感じていたし、その評価自体は下巻を読み終えても変わっていない。
それでも、せっかくここまで小難しいことを語るのだから、ちゃんと理解しよう、寄り添って読もうと、どこかで思ってしまった。その結果がこれかよ、というのが正直な感想だ。
p.401で描かれる、証言の食い違いにジへが気づく場面、
『ささいなことではあるが、意味深な不一致だった。』
この一文を読んだとき、私は何も引っかからずに読み進めていた。そして伏線回収がすでに始まっていたことに気づかされ、軽いショックを受けた。
読み飛ばしていたわけではない。注意力が落ちていたとも思わない。ただ、犯人の言葉を「理解しよう」とすることに思考のリソースを割きすぎて、事実のズレを見る視線が鈍っていたのだと思う。読者が「見えなくなる体験」そのものが、この小説の仕掛けだったのでは?と思わされる。
興味深いのは、物語の終盤で、サンウン自身の書いた独白が作中で評価される場面だ。
『内容のほとんどは冗長な言い訳だった。
啓蒙主義だの、ドストエフスキーだのといった、たいそうな単語が並んではいた。
とはいえ、頭の悪い未決囚が毎日のように拘置所で書いている反省文と、本質的にはなんら変わりない。』(p.467)
ここで語られている評価は、私が抱いていた感覚とほとんど同じだった。自分の読みが間違っていたわけではないと分かって、少し安堵すると同時に、それでも「してやられた」と思わずにはいられなかった。
読者である私が「見えなくなった」のと同じように、作中の人物たちもまた、無意識のうちに見えなくなっている。上下巻を通して考えさせられたのは、人が無意識に他者に貼ってしまうラベル、いわゆるアンコンシャス・バイアスについて。上巻で、ジへがある証言者に対して負の感情を抱いていたものの、その人物が障害を持つ子どもの親だと知った瞬間、認識を改める場面がある。自分の観察眼に自信を持っているからこそ、人は知らず知らずのうちに判断を早めてしまう。その構造は、決して他人事ではないと感じた。
また、ミン・ソリム殺害の引き金となったのが、決定的な悪意ではなく、人との距離感の掛け違いだったことも印象に残る。被害者は親しみを込めて距離を詰めたつもりだったかもしれない。一方で、その距離の詰め方に、犯人は殺意を抱くほどの嫌悪感を覚えた。コミュニケーションとは、善意だけでは成立しない。その当たり前すぎる事実が、嫌なかたちで突きつけられる。
読書サークルのメンバーであるイ・ギオンやチュ・ミドゥムが、金儲けや成功に心を奪われていく姿も、どこか滑稽だ。何者かになりたいという焦りはあるのに、「何者の、何の部分」を掘ろうとはしない。表層的な評価や分かりやすい成功に踊らされている姿は、犯人の屁理屈とも地続きであり、同時に読者自身にも跳ね返ってくる。
人は他人を、そして自分自身を、分かったつもりになるのが早すぎる。この小説は、その危うさを読者自身の体験として突きつけてくる。だから私はもう一度、最初から読み返してみたいと思う。今度は、自分の「見えているつもり」を確かめながら。