アーザル・ナフィーシーの作品一覧
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小説・文芸
Posted by ブクログ
まずこの本が幾多の制限から出版に至り翻訳され日本にまで届いている奇跡を痛感する。
小説かと思いきや、文芸評論のようなスタイルも織り混ざり、学ぶべきことが多い内容だった。
まずは気になるイラン情勢、厳格なイスラム教の中で葛藤する女性たちの現況にハッとする。
先生の自宅に集まる女学生たちは
そこに訪れるときだけ、なりたい自分のスタイルを演出する。
ある女性は、ヒジャブを脱ぐとTシャツにデニム姿に。
その友人はピンクのセーターに赤のネイル。
外でその格好をするもんならどんな処罰を受けるかわからない。
さらにヒジャブから赤のネイルが覗いただけでも
アウト。黒レースの手袋で全て覆い隠す。
本当に心から信仰が篤く、歴代からイスラム教の規律を忠実に守ってきた人たちからしても、
イラン革命による厳格化には、本来の信仰心とは異なる強制的な空気に違和感があったり…
0か100かなんて当たり前に不可能な、
複雑な環境下で100を求められる。
"制限が多すぎると、その狭い世界の中で最大級の自由を探す。"
第二次大戦のドイツを舞台にした小説でも
多々感じたけれど、いつの時代も人間は同じ。
ごく当たり前の人生の要素に憧れた、女性たちの心髄に触れる。
「彼のフィクションの中にも人生の中にも、私たちが本能的に理解できるものがあった。
それは、あらゆる選択肢が奪われたときの限りない自由の可能性である」
「ばかげた作り事が私たちの生活を支配していた。私たちは開かれた空間で生きようとした。私たちを守る繭となったあの部屋と、魔女や小鬼が展する外の検閲官の世界のあいだにできた裂け目で生きようとした。二つの世界のどちらがより本物で、私たちは本当のところどちらに属していたのだろう。自分でももうわからなかった。真実を見つけ出すひとつの方法は、私たちがしたように、想像力を駆使して二つの世界を明確に表現しようと努め、その過程を通じて、自分たちの夢とアイデンティティに形をあたえることではないかと思う」
Posted by ブクログ
この本をイスラム教国、マレーシアで読み切ったことを誇りに思う。
奢りではない。
数年前に買って何回か日本で読んでるがその都度途中でやめてる本である。それを、イスラム教が身近になった今ようやく読み切ることができて単純に自分を褒めてあげたい。ただそれだけの話である。貧弱で陳腐なメンタルの持ち主なのである私は。
話をこの本の感想に移そう。
表現の自由がマジで規制されてるイラン。
女子の教育の推進をかかげるも、スカーフの着用を強制させたり、西洋文学に染まってると頽廃的だと取り上げられたりもうなんだかよくわからない国だった。
彼女たちと筆者の過ごした日々を遠くから眺めてる感じだった。
特にギャッツビーの模擬裁判(本を裁判にかける)では、表現の自由が奪われることで他者を想像する力までも奪われてしまうことがよくわかった。
私たちは小説を楽しんでいる。それは登場人物に感情移入して、身を重ねてみたり、憧れてみたり、何かしら私たちに感情の体験をもたらしてくれるものである。ただ、それは私たちに想像する、想像できる自由があるからできるのであることを痛感した。
これはフェミとかの本じゃないと思う。
裁判でこの本を真っ向からイスラムの精神()に則って批判してる男性、この人も被害者だと思った。それも、真綿で首を締めるように、自分では奪われてることに気づいてないからタチが悪い。
さて、平成のイラン革命は昔だが、またイランは同じような渦中にいると考えてる。あくまで想像だが。心が痛む。特に、このマレーシアではムスリム女性は各々好きなヒジャブをつけ、いや、下手したらつけてない。だからこそ、なぜ、と思ってしまう。
Posted by ブクログ
著者の手に文学が渡れば、最強の力を発揮する…
革命期のイランで、
欧米の名著を読み続ける著者のゆるぎない信念が伝わってくる本。
_文学の力に対する私たちの無私の信頼によって、このもうひとつの革命が生み出した、重苦しい現実を変容させることができるかどうか見てみる
著者は、文学教授として働いていたけれど、宗教を政治イデオロギー化して特に欧米色のあるものを徹底的に排除するホメイニー政権下で大学を追放され、
すべてを無くしたときにあらわれた自由に踏み出し、
文学の研究に熱心に取り組んでいると思った7人の女子学生を自ら選んで家に呼び、最終的に約2年間に及ぶ小説のクラスを個人的に開く。
クラスの目的は、
フィクションの作品を読み、議論し、作品に反応すること。
作品の選定基準のひとつは、作者が文学の決定的な力を信じていること。
そんな彼女たちとの会話や、それ以前に大学で教えていた時の学生とのやり取り、
革命政権、そしてイラクとの戦争が日に日に勢いを増す中で、それが日常化していくこと。
_どんなに劇的な状況も決まりきった日常になってしまうことに驚かされる。
そうしてあぶりだされるのは、
イスラームによる支配が生み出した矛盾の中心にある葛藤。女性の。
_彼女たちのもっとも親密な隣間もっとも個人的な夢が体制によって奪われている
だから、
_戦争革命といった大きな問題よりも、私生活での矛盾や拘束のほうがより身近な間題だった
と。
…
ナボコフのロリータ、フィッツジェラルドのギャツビー、ジェイムズ、オースティン…
_『断頭台への正体』でナボコフがつくりだしたのは、全体主義体制における実際の肉体的苦痛と拷問ではなく、絶え間何恐怖の中にある悪夢のような生のありようである。
_芸術と文学は贅沢品ではなく必要不可欠なものだった。ナボコフがとらえたのは全体主義社会における生の感覚である。そこでは、偽りの約束に満ちた見せかけの世界の中で、ヒトは完全な孤独におちいり、もはや救い手と死刑執行人の区別もつかない。
_好奇心はもっとも純粋なかたちの不服従である
_ハンバートが悪人なのは、他人と他人の人生への好奇心を欠いているからだと私は言った。…ハンバートは大方の独裁者同様、みずからの思い描く他者の像にしか興味がない。
‥
_「道徳の再考の形態は、自分の家でくつろがないことである」テオドール・アドルノ
_想像力によってつくりだされた偉大な作品は、ほとんどの場合、自分の家にありながら異邦人のような区分を味わわせます。最良の小説はつねに、読者があたりまえと思っているものに疑いの目をむけさせます。とうてい変えられないように見える伝統や将来の見通しに疑問をつきつけます。私たちはみなさんに、作品を読むなかでそれがどのように自分を揺るがし、不安な気持ちにさせ、不思議の国のアリスのように、ちがった目でまわりを見まわし、世界について考えさせたかを、よく考えてもらいたいのです。
政治色強めの作品よりも、フィッツジェラルドや、マーク・トウェインのほうが「不穏」だと読む。
_「『ギャツビー』が裁判にかけられているのは、この作品が私たちを当惑させるからです—少なくとも一部の人を」
そう、大学のクラスで、ギャツビーを裁判にかけるという事態に。
その時大学も学生の間でイデオロギー対立が過熱していて、
でもこの裁判に、イスラム教原理主義の学生がギャツビーを提訴する立場で正面から法廷闘争していること自体が、小説のありがたさを象徴しているようにも思う。
ギャツビーを擁護する著者(教授)の主張も示唆に富む。
_「…こうした作品において、想像力とはすなわち共感の能力のことです。他者の経験のすべてを体験することは不可能ですが、フィクションの中でなら、曲悪非道な人間の心さえ理解できるのです。いい小説とは人間の複雑さを明らかにし、すべての作中人物が発言できる自由をつくりだすものです。この点で小説は民主的であるといえます。民主主義を主張するからではなく、本質的に民主的なものなのです。多くの優れた小説と同じように、『ギャツビー』の革新にも共感があります—他者の問題や苦痛に気づかないことこそが最大の罪なのです。見ないというのはその存在を否定することです」
小説の訴えかける不注意、共感の欠如が、現実世界と重ねられる。
「世界を白か黒かの二分法でしか見られない人々、みずからつくりだした虚構の正当性に酔いしれている人々」を思い出させる、と。
‥
『高慢と偏見』の中心をなすのが会話、ダンス的な小説の構造にふさわしい、という。
_小説入門講座で私が強調したかった点は、小説という新たに誕生した物語形式が、いかに人間のもっとも重要な関係をめぐる基本的な通念を根底から変え、ひいては人間と社会、仕事、義務との関係に対する伝統的な姿勢を変化させたかにあった。
ダンスには歩みよりが必要であり、絶えず相手の必要性とステップに合わせなければならない。
人間ってなんなんだろうねー。
Posted by ブクログ
激動のイランを冷静に見つめた記録。
そして女というだけで抑圧されながら文学を手に自分らしく生きる道を模索する筆者とその生徒たちの記録。
ページを捲れば捲るほどイランが暗黒の道へと進んでいく。
その延長線上にあるのが今のイランなのだ。
今、イランで女性たちが命を懸けて声を上げているのはこの作品で触れられるような数々の女性への酷い仕打ちの積み重ねであることが痛いほどわかる。
胸が張り裂けそうだった。
でも今このタイミングで読んで良かった。
イランを知るために映画を観るのも勿論良いけどこの本から始めても良いのでは。
私はこの本を強く推したい。
あと文学批評本としても完成度がとても高いのでそういった意味でもオススメ。