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  • オーストリア皇太子の日本日記
    3.0
    本邦初訳!「サラエボの悲劇」の主人公が綴る日本紀行 長崎―熊本―下関―宮島―京都―大阪―奈良―大津―岐阜―名古屋―宮ノ下―東京―日光―横浜 1892年末、オーストリア帝国帝位継承者、皇太子フェルディナントは世界周遊の旅に出た。翌年長崎に到着した彼は東京を目ざすが、その途次、各地で日本文化との出会いを堪能しつつ、のちにウィーン民族学博物館日本部門の礎をなす18000点もの美術品等の蒐集も行う。21年後、サラエボで暗殺される悲運の皇太子若き日の日本紀行。 園内は無数の提灯がまるで妖精のようにきらきらと輝き、真昼のような光に満ちあふれていた。日本人というのは、まことに照明の達人だ。簡素きわまりない装置を巧みに用い、すばらしい効果を生み出す術をじつによく心得ている。(熊本クラブの庭園にて)

ユーザーレビュー

  • オーストリア皇太子の日本日記

    Posted by ブクログ

    副題・明治26年夏の記録

    オーストリア皇太子とはフランツ・フェルディナンド。少し前は同名のロックグループがあったが、こちらは非常に有名な、サラエボで妻と共に暗殺され第一次世界大戦の引き金となった人である。暗殺されたのは大正3年(1914)。日本に来たのは明治26年(1893)29歳の時だった。いろいろな国をめぐり自分の目でその政治文化風俗を確かめたかったためだと書いている。

    エリザベート皇后由来のエリザベート皇后号という名の船で10ヶ月に及ぶ旅行の途中、日本記述の部分は7月29日から8月24日。母国オーストリアでは自由に出歩けたが、なんと日本の警戒のきびしいことよ、という記述も見られる。彼

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    2012年06月23日
  • オーストリア皇太子の日本日記

    Posted by ブクログ

    第一次世界大戦勃発のきっかけとなった
    オーストリア・ハンガリーの皇太子暗殺。
    その人物が1892年の世界周遊旅行の際に
    日本へ立ち寄った時の紀行文。

    オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であった、
    フランツ・フェルディナント大公。
    長崎に到着した後、熊本、宮島、京都、大坂、奈良、岐阜、箱根、日光、東京など、
    世界周遊の旅の一環として、日本を訪れた。
    熱烈なる歓迎、異質の文化、堅苦しい式典など、
    自分が見た日本の姿を描いている。
    そして、2万点にもせまる美術品の蒐集も行う。

    この人は、周囲の反対をよそにチェコ人の女官と結婚したんだけど、
    1914年、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボの軍

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    2010年08月29日

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