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  • ウィトゲンシュタインの愛人

    ウィトゲンシュタインの愛人

    小説・文芸

    4.3
    1巻2,534円 (税込)
    地上から人が消え、最後の一人として生き残ったケイト。 彼女はアメリカのとある海辺の家で暮らしながら、終末世界での日常生活のこと、日々考えたとりとめのないこと、家族と暮らした過去のこと、生存者を探しながら放置された自動車を乗り継いで世界中の美術館を旅して訪ねたこと、ギリシアを訪ねて神話世界に思いを巡らせたことなどを、タイプライターで書き続ける。 彼女はほぼずっと孤独だった。そして時々、道に伝言を残していた…… ジョイスやベケットの系譜に連なる革新的作家デイヴィッド・マークソンの代表作にして、読む人の心を動揺させ、唯一無二のきらめきを放つ、息をのむほど知的で美しい〈アメリカ実験小説の最高到達点〉。

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ユーザーレビュー

  • ウィトゲンシュタインの愛人

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    人からのおすすめ閾値超えで年末年始読書に手を取りました。2026年初読書はこちらでした。「ジョイスやベケットの系譜に連なる…」という前情報だったので少し警戒気味(?)だったのですが、読みやすく、スイスイ読みながら、これはジョイスやベケットの系譜に連なってるわ!となっていました笑。
    自分が普段認識しない意識や思考のながれをそれとなく認識させてくれる文章なのがすごい。
    個人的に絵画や音楽の話がふんだんに使われているのも面白かったし。途中で時々間違えるので、こちらもアンテナを張ってないといけないわけですが。。笑(ライナー・マリア・ラスコーリニコフとかw)
    自分自身が世界で1人になったら、私はどのような行動を取り、どのような文章を残すだろうか。現在も誰しも孤独な中で(若島先生の「地球最後の一人となってタイプを打つ女の物語に読者が共感するのは、書くのも読むのも孤独な営みだからだ。」というのまさに)、この文章は今の自分自身と共鳴するところがあるのではないか、ということをとりとめなく考えられるのも楽しかった。
    そうして最後消えていく…フーコー今年生誕100年なので読もうと思っているのだが、言葉と物を手に取りたいと思い出した。

    だから結局、ここまでの私の思索はやはり無意味ではないのかもしれない。
    今の言葉の意味は私にはほとんど分からない。
    考える対象となる人物がいない場合、誰かについて考えるのはほとんど不可能だ。
    しかし、そんな施策をしたという事実は否定しようがない。
    二日前、キャスリーン・フェリアの声を耳にしたとき、厳密には私は何を聞いていたのだろう。
    昨日、絵の中で窓辺にいる人のことを考えていたとき、厳密には何について考えていたのだろう。
    私は今、地図帳とブラームスの伝記が置いてある部屋に絵を戻してきた。
    実を言うと、私は今、一晩眠って起きてきたところだ。
    (p.70)

    普段は大体、気分がいい。
    でも、そうでないこともある。
    しばらくすると収まる。それまで、自分ではどうしようもない。
    不安は存在の根本的様態だと、かつて誰かが言った。あるいは、間違いなく言うべきだった。
    しかし、本当のことを言うと、他の荷物の大半を捨てたのと同じ大昔に、私はそんな感情の大半を捨てた。
    (p.92)

    別の言い方をするなら、『アンナ・カレーニナ』が手元に一冊もない場合でも、やはりそのタイトルは『アンナ・カレーニナ』であり続けるのだろうか。
    (p.118)

    私に見えていたのは、メトロポリタン美術館のテーブルの上で眠る若い女性を描いたヤン・フェルメールの絵画だった。
    またやってしまった。
    マリア・カラスがサボーナに近い堤防の上で裸になっていなかったのと同様に、その若い女性もメトロポリタン美術館のテーブルの上で眠っていたわけではない。
    若い女性はメトロポリタン美術館の絵の中で眠っている。
    もちろん、今の分も何か妙だ。
    実際には、若い女性がいるわけではなく、若い女性の表象があるだけなのだから。…
    でも、いずれにせよ、私が言いかけたのは、その絵のことを考えていたのではないのに、その絵が頭に浮かんだという話だ。
    ただしもっと具体的には、私が解きたい謎は、例えば、ベルリオーズ作曲の『トロイアの人々』のことを考えているのに、あるいは『アルト・ラプソディ』のことを考えているのにどうしてヴィヴァルディの『四季』が聞こえてくるのかと言う問題だ。…
    (p.150)

    しかし、これらの人物は皆、互いから等距離にいる。
    私自身も彼らから等距離にいる。
    しかし改めて考えると、ひょっとすると私は彼ら一人一人から等距離にいるとは言えないかもしれない。彼らは皆、私の頭の中の存在だから。
    (p.194)

    ただし、次に私が考えざるをえないのは、私の頭に存在しているのがブラームス本人なのかどうかをはっきりさせなければならなくなったらどうなるかという問題なのだけれども。
    それは本物のブラームスか、あるいはブラームスの伝記に描かれたブラームスか。
    そして、『アルト・ラプソディ』を作曲したのはどちらなのか。
    あるいは、その区別に何の意味があるか、私に分かっているのだろうか。
    (p.195)

    だから要するに、結局私が見ているのは、本物ではない複製の絵であるだけでなく、本物の火でなくその反映を描いたものだということだ。
    それに加え、その複製は、私の頭の中にしかないのだから本物の複製とも言えない。同じ理由でその繁反映本当の反映と言えないのと同様に。
    セザンヌがかつて、ファン・ゴッホの絵は狂人が描いたもののようだと言ったのも無理はない。
    この調子で行くと、私が次に尋ねるのは、薔薇は暗くなった後も赤いのかという疑問だろう。
    (p.198-9)

    実を言うと、それはそれなりに面白い小説になるかもしれない。
    それはつまり、ある水曜か木曜に目を覚まして、世界には自分以外、誰一人残されていないようだと気づいた人を扱った物語だ。…
    とはいえ、女性主人公の身になって、不安にみちたその気持ちを考えたらどうだろう。
    しかも、さまざまな幻とは違って、この場合にはそのすべてが本物の不安だ。
    例えばホルモンのせいなどではない。あるいは年のせいでも。
    逆説的に、彼女が置かれた状況そのものがしばしば、間違いなく一種の幻のように思われるけれども。
    だから当然、間もなく彼女は頭がすっかりおかしくなるだろう。…
    ついでながら、遅かれ早かれその女の頭をよぎるかもしれない興味深いことは、こうしたことが起こる前から実質的には今と同じくらい孤独だったのではないかと言う逆説だ。
    ある種の孤独は別の孤独とは異なる。最後に彼女が結論するのはそれだけのことだ。
    それはつまり、電話がまだ通じているときにも、通じないときと同じくらい孤独になり得るということ。
    あるいは、どこかの交差点で名前を呼ぶ声がまだ聞こえるときにも、聞こえた気がするだけのときと同じくらい孤独になるえるということ。
    だからその小説の要点は、通じない電話でモディリアニを呼び出してくださいと言うのは、通じる電話でそう言うのと同じくらい簡単だと言うことだ。
    (p.300-2)

    私は以前、有名になるという夢を持っていた。
    そのころもほぼずっと孤独だった。
    城はこちら。そう書いた標識があったに違いない。
    この海岸に誰かが住んでいる。
    (p.313)

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    2026年01月04日
  • ウィトゲンシュタインの愛人

    Posted by ブクログ

    『考えていないという対象のことを考えずに、何かについて考えていないという文章をタイプすることは絶対にできない。このことに気付いたのは今回が初めてだと思う。あるいは、これによく似たことに気付いたのは。この話はこれくらいにしておいた方がいいかもしれない』

    これは「ヴィトゲンシュタインの愛人」という題名から連想するようなヴィトゲンシュタイン個人にまつわる物語ではない。しかもこの哲学者の思考への直接的な言及すらないのだけれど、読み進める内にヴィトゲンシュタインの哲学的思考が主人公である語り手を捉えて離さないのだということがじわじわと伝わってくる。主人公は、語る言葉の一つひとつの意味(シニフィエ)を再確認しながら語ろうとするが、言葉の表層に張り付いた数多くのシニフィアンがその道を曲がりくねったものとしてしまう(必然的に!)。しかも言葉への個人的な表象の投影が、誤った認識や記憶のまま(例えば本書の早い段階で唐突に投げ込まれる(主人公はその意味を不明とする)「ブリコラージュ」という言葉。もちろん、それはレヴィ=ストロースという名前を惹起するが、他の哲学者の名前は頻出する一方でそのフランスの知性の名前には言及がなされない。最後の方で漸く「思い出される」のは「ジャック・」レヴィ=ストロースという名前であるけれど、本当は「クロード・」レヴィ=ストロースだ。一方でたった一人残されたものとして生きる為、持ち物を都度取捨選択する過程はブリコラージュという言葉を強く表象する)に加わり、語ろうとするものの中心へと中々辿り着かせないよう作用する。この風変わりな小説の中でデイヴィッド・マークソンの試みたことは、その曲がりくねった道を行きつ戻りつしながらどこまでも辿ることのようだ。その先で見出すものは、当然のことながら「まがりくねった男がひとり(There was a Crooked Man:野上彰)」の筈だ。もちろん、主人公は女性だけれど。「もちろん」と言ったのは、「ヴィトゲンシュタイン」という単語は特定の一人の男性を表象するし、その「愛人」というのは高い確率で「女性」であると予想されるからだが、「もちろん」ではない文脈(例のヴィトゲンシュタインに同性愛的志向があったという話)で読み取られる可能性も、もちろん、ある。

    『世界はそこで起きることのすべてだ。ちなみに、今タイプした文章の意味は、私にはまったく分からない。しかし、どこから来た考えなのかはさっぱり分からないけれど、なぜか一日中、頭にあった気がする』

    三分の一程読み進めたところで、漸く直接的な「論考」の引用(めいた文章)「最初の命題」に出会う。引用と言いつつヴィトゲンシュタインの思考を主人公が語っている訳でもなく、この文章は(他の文章同様に)唐突に投げ込まれたもの。背後には主人公の何かしらの連想があって前後の繋がりがある様子だが(そういう言及がしばしばある)読む者には知り得ない。しかし肝心なのは、ここで暗示されるのは連想の遡行だということだ。遡り続ければ全ての事には理屈が付く、と言わんばかりの暗示。しかしそれは決して終着点に辿り着けぬ究極の仮定である。一方で主人公の問い掛けは、「最終命題」(語り得ぬことについては沈黙せざるを得ない)についての検証作業の様相を呈する。但しそれは、「語る」とヴィトゲンシュタインが語る時、ヴィトゲンシュタイン自身が語った言葉は果たしてその語り得ぬことの中に含まれているのか、というように再定義した上での検証。この最終命題は、言ってみればゲーデルが不完全性定理で全ての数学体系には決定不能な命題が存在すると示したことが言語についても当て嵌まると考えてみれば判り易い。もっともヴィトゲンシュタインが「論理哲学論考」をドイツで出版したのは1921年で、ゲーデルが数論における「不完全性定理」を証明したのは1930年のことなので前文の「も」という助詞は語弊があるし、この喩えは乱暴過ぎるとは思うけれど、この本はそのことを特殊な状況の中で暮らす主人公を通してどこまでも問い詰める試みであるとも言える気がする。もっともヴィトゲンシュタインは言語をシステムとして語っていて、システムを外側から説明する為の言語を使って語っているという立場(しかも原著は言語の曖昧さを回避するべく数式も用いられている)なので答えは、含まれない、であるとも言えるけれど、そのことは普通に考えれば明らかではない。そしてシステムが自己言及を許容する時(例えば、全ての集合を含む集合、などと定義する時)、論理体系は脆くなる。けれども、含まれる、という立場に立ってみると、この論理ゲームはどこへも辿り着けないことは明かだ。自己言及を繰り返す先で収束するのは「狂気」のような状態と見分けがつかない。

    『ある種の孤独は別の孤独とは異なる。最後に彼女が結論するのはそれだけのことだ。それはつまり、電話がまだ通じているときにも、通じないときと同じくらい孤独になりえるということ』

    その狂気は、孤独ゆえに生まれてくるものか、思考の結果の必然なのか、明かなようでいて、主人公が語る程明確ではない。この物語がどこへ辿り着いたかも定かでないように。

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    2021年06月03日
  • ウィトゲンシュタインの愛人

    Posted by ブクログ

    海辺の家で家具を焼き、暖をとりながらタイプライターを打つ女。ニーチェやハイデッガー、ブラームスやピカソにまつわる取り留めのない思考の断片から、かつて存在した彼女の世界が少しずつ形を現してゆく。世界でたった一人になったら、人はどこに向かって何を書くのか。1988年に書かれたSpeculative Fiction=思弁小説。


    一人の女がひたすらタイプライターにモノローグを打ち込んでいく。行と行の間に何時間、何十日、何年空白があろうと、読者にそれを知るすべはない。タイプライターと文体の相互関係はビートニクを思わせるが、本書の場合、開始時点で語り手の旅は既に終わっている。世界が完全に終わってしまったと確認したあとで、たった一人生き残った人間は何をするのか。本書のテーマはあるときはミケランジェロの言葉、あるときはレオナルドの言葉として引用される次のフレーズに要約できると思う。「正気を保ちながら不安を断ち切るには頭がおかしくなるのがいちばんだ」。だから彼女は書いている。
    だが、できあがったものは自伝ではなく終末のルポルタージュでもない。19、20世紀の哲学者・文学者・音楽家・芸術家たちの細々とした伝記的トリビアが連想によって綴られていく。エンリーケ・ビラ=マタスと似たアイデアだが、あちらの語り手が解説者然としてユーモラスなのに対し、こちらはウィトゲンシュタインを下敷きにしているだけあって冗談を言うときも真顔を通している感じ。生きているのが自分だけの世界では、表情筋を動かす気力ももう尽きたのだろう。その真顔っぷりと律儀すぎる言い直し(ウィトゲンシュタインのパロディ)、覚え間違いや同語反復が独特のおかしみを醸しだす。
    他人について書かれたことばの集積は、孤独から目をそらし、他者を召喚しようとする必死の試みだ。終盤、他人の伝記を綴ることで保っていた〈現実〉が、彼女自身の過去という現実を語ることで崩壊していく。しかし、いずれにしろ世界は既に壊れてしまった。この手記を書き終えたあとも彼女は「正気を保ちながら不安を断ち切るには頭がおかしくなるのがいちばんだ」ということばに共感しただろうか。

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    2021年04月09日
  • ウィトゲンシュタインの愛人

    Posted by ブクログ

    思考が本当にあちこち飛んでいるんだけど(接続詞もおそらくあえてずらしている)、文章のテンポがいいので、流し読みするとそんなに引っかからない不思議な感覚。
    どうでもいいかもだけど、人類だけでなく、生物もいないので、装丁めっちゃ綺麗だけど、カモメ描いちゃダメな気が…

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    2021年01月06日
  • ウィトゲンシュタインの愛人

    Posted by ブクログ

    『ヴィトゲンシュタインの愛人』デイヴィッド・マークソン著。これはすごい! 木原善彦さんが訳したんだ! 目利きだ! これほど最前線の実験小説はなかなかないだろう。ヴィトゲンシュタインのような思考方法がそっくりそのまま再現されているかのようだ。2010年に亡くなっているが、今これを読むことができて本当に我々は幸福な時代を生きている。独特の思弁的リアリズムの具現化だ!

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    2020年09月04日

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