(よしもとばななの「とかげ」では)日常生活の細部を神に捧げることに心を砕き、それを幸福の基盤とするかつてのユダヤ人のあり方が、人の羨望をかき立てるほどの仕方で確かに示されている。(略)
一方イスラエルというユダヤ人国家が建設されてからは、ユダヤ人が日常生活の諸規定を自らのより所としなくてもよくなっ
...続きを読むたのは事実である。そればかりか宗教的な人々からの規定を押しつけられるのを嫌う人々も数多く出てきた。様々な規定は、もはやユダヤ人と非ユダヤ人を分けるアイデンティティの基盤という意味を担っているだけではない。何を食べ、何を食べないかに対して個々のユダヤ人が下す態度決定は、ユダヤ人社会の中で自らが宗教や伝統、あるいは政治的側面でどのような立場をとるのかに関わる問題となった。
執筆に当たっては、過度のセンチメンタリズムとも私怨とも極力距離を置くようにつとめたつもりだが、それは私がいわゆる「中立的」視点に立とうとしているという意味ではない。私は、一人の人間は確かに様々な立場を理解しうるが、やはりいずれかの立場にコミットせざるを得ないのだと思っている。いったん選んだ立場に永久に固執する必要はもとよりないが、自らの立場を引き受ける用意のない人間は、「中立的」であれなんであれ、どのような視点も持ち得ないのではないかと思うのである。