ぱっと開くとまず目に飛び込んでくるのが、河鍋暁斎の「地獄太夫と一休」の絵である。
怪しげな魅力はその顔貌だけではなく、着物もそうなのだが…
10頁、「聞きしより見ておそろしき地獄かな」という句に対し、「いきくる人もおちざらめやは」と返す。
さすが太夫だけあって、理知的で、機智にとんだ女性のようだ。
...続きを読むそんな彼女は、自らの死体を打ち捨てさせ、どんな美女でも死ねばこうなると、「無常」を男たちに見せることによって、性的欲望を収めようとした、と語り継がれるが、はて。
それはどうかな、と女の私は思うのだ。
そんな菩薩のような思いではなく、哀れみとも、嘲りとも言える思いがあったのではないか。
地獄には暴力とエロスに対する憧れの視点もある、と筆者は繰り返し言う。
確かに、誰しもが暴力を隠し持っているはずだ。
エロスについては、様々に言われているように(ない人もいるかもしれないが)ここでは、あるもの、として語りたい。
71頁にあるように、描かれる地獄では、男性鑑賞者の視点をとり、自らを獄卒、つまり暴力を振るう側としてサディスティックな嗜好を現示する。
逆に傷つけられる側にも、マゾヒスティックな昏い思いをきづかせる。
押し込められた思いだからこそ、目が離せない。
心に残る。
自分は、善人ではないと知る。
一方、脱衣婆が、奪うものだけではなく、与えるものでもあったという指摘には驚いた。(40~43頁)
悪が福の神となるのは、日本の昔話で時折見られるが、その転換点がなぜ起きるのか、それを研究してみるのも面白そうだ。
絶対行きたくないのになぜか引きつけられる地獄。
悪に対する憧れ、恐れ、性的情動の発現と隠蔽。
二面性があるからこそ、私たちは自らのうちに同じものを見、故に引きつけられるのだろう。