片桐恵里の作品一覧
「片桐恵里」の「若い読者のための宗教史」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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ビジネス・実用
Posted by ブクログ
仏教に関する記述は少なかったけど、私はキリスト教の知識の方が無知なので、このくらいキリスト教全フリでも良かった。まぁ、キリスト教主体の国の人がその若者へ向けた本なのだから、この割合なのは納得。
キリスト教って、教徒が多すぎてあんまり意識してなかったけど、政治との結びつきや気持ち悪い思考な時も多くて、印象がガラリと変わりました。
宗教って当たり前のように各国の文化に組み込まれてるけど、女性差別や暴力との関係などもこの本で話してくれてて、これからはヒューマニズムがメインになっていくのかなとか、「つまり女性の権利獲得って、対全ての宗教への全面戦争ってことなんだな」と、根の深さを実感してゾッとしました。
各宗教については仏教以外がほぼ無知な状態だったので、各宗教への解像度が上がりましたし、かなり面白く読めました。あと、FGO の知識に少し助けられた。ありがとうFGO。
Posted by ブクログ
終章に取り上げられていた世俗的ヒューマニズム。特定の信仰は持たなくても、宗教の思想から精神性を享受できる考え方。人生の節目にあたる儀式は、過去には宗教が独占していたけれど、今では当人に個人的な意義を与えることができるものになってることが一つの例。
日々の生活に超自然は受け入れられなくても、願うことだけじゃなく、祝うこと悼むことなんかに対する基本に、神やら仏を基準とする宗教が間違いなくある。とすると、宗教は物事の考え方に対する糸口を与えてくれるものになるんだろうなと。
若くなくてごめんなさいシリーズ、読むのはアメリカ史、経済学史に続いて3作目。相変わらずダイナミックで歴史の情熱を感じられる読書でした。日本の神道も取り上げられてて、内容とは直接関係ない締めの俳句が最高に粋でした。
Posted by ブクログ
高品質なリトルヒストリーシリーズの最新刊は、こと日本においては意識されない(意識することがタブー視されているきらいもある)宗教について。
いわゆる四大宗教にとどまらず、歴史のうねりの中で生まれ、形を変えてきた様々な宗教たち。
また、一つの大きな宗教からの分裂(カトリック/プロテスタントが最たる例)であったり、宗教と政治、宗教と暴力、そして宗教間で相互に及ぼした影響など時間軸、空間軸を掘り下げながら生々しい事実が語られる。
宗教と触れ合う機会が少ない(数としては少なくないが、極めて浅い)日本人にとって、世界情勢のバックグラウンドを捉えるためにはこういった宗教の大きな流れを抑えておくことは重要なのではなかろうか
Posted by ブクログ
シッダールタは自問した。この肉体的自制の論理が確かに正しいなら、わたしは死の際まで達したのだから、すでに悟りを得てもいいはずだ。だが肉体はあまりに弱り、修行をつづけられずに気を失ってしまう。仲間の修行者たちには瀕死の状態と思われたが、どうにかもち直した。回復すると、シッダールタは修行者たちにある決心を伝えた。6年間厳しい瞑想と苦行に励んだものの、自分が求める悟りにはたどり着けなかった。だから断食や苦行はやめる。修行者たちはシッダールタの決意を聞いて悲しみ、離れていったが、シッダールタは独自の道を歩みつづける。
野生のイチジクの木(現在はインドボダイジュと呼ばれる)が茂るところに来ると、シッダールタはその下で体を休めながら決心した。この皮膚や神経や骨が腐ろうと、血が枯れようと、悟りを得るまでここにずっと座りつづけよう。それから7日後、欲望を消し去ろうと欲することこそ、欲望にほかならないと気づく!
煩悩から逃れようと望むことこそ、悟りを開く障害になっていたと思い至ったのだ。この洞察の意味をさらに発展させながら、今や自分には煩悩は一切ないと感じた。「無知は滅せられ、知識が湧き上がる。暗闇が消え、明光がさす」という恍惚状態に至り、ただちに理解した。「再生することはもうない。わたしは最高の生を得ている。すべきことは終えた。今のわたしにすれば、今までのわたしはもはや存在しない」。シッダールタの前で輪廻と転生の輪の回転は止まった。この時点で、彼は仏陀、つまり悟りを開いた者となった(本書では以降、彼を仏陀と呼ぶことにする)。そして彼がこの境地に至った夜は「聖なる夜」として知られる。
次に仏陀は、苦行では悟りに至れないと告げてその期待を裏切ってしまった修行者たちを探した。彼らはインド北部のガンジス川沿いにあるヴァーラーナシー(ベナレス)の鹿野苑にいた。修行者たちは仏陀を脱落者と見ていたが、温かく迎えた。苦行を放棄して悟りに至る可能性をつぶしたとやんわりと非難する修行者たちに対する仏陀の返答は、「初転法輪」として知られる説法となる。この説法のなかで、仏陀は悟りを求めて出家して以来、ずっととりつかれていた疑問をふたたび問うことになった。人は欲望によって輪廻転生の輪につながれているが、この回転は一体何によって止められるのか?この問いに対する仏陀の答えは、ふたつの極端なもののどちらでもない道を行くことで解脱できるというものだった。仏陀はこの道を「中道」と呼んだ。「修行者たちよ、ふたつの極端があるが、いずれも避けるべきだ。ひとつは快楽と愛欲の生活だ。これは品位を下げ・・・・・・・まったく無益だ。もうひとつは自分を苦しめる生活だ。これは痛みをともない・・・・・・同じくまったく無益だ。このふたつの極端を避けて中道を行くことが悟りに至る道だ」。この中道を行く道しるべとなるのが、四諦(四聖諦)と呼ぶ次のような4つの聖なる真理だ。すべての生は苦に満ちている(苦謙)。この苦の原因は煩悩と呼ぶ欲望だ(集諦)。煩悩は滅することができる(滅謙)。滅するための8つの道を八正道と呼ぶ(道飾)。
新しい章をはじめる前に、本書で紹介してきた話の一部を振り返って、学んできたことからいくつか結論をまとめたい。ジャイナ教の群盲とゾウのたとえ話からはじめるのがよいだろう。そのたとえ話が伝えようとするのは、人間の認識には限界があり、究極の真理を完全には把握できないので、宗教上の自らの主張には謙虚でなければならないということだ。
この警告にもかかわらず、宗教上の預言者や聖者たちが己の信念を疑うことはめったにない。彼らが「見た」または「聞いた」ものは、人間と究極の真理のあいだにかかるベールの向こう側にあるからだ。わたしは動詞の「見た」と「聞いた」を慎重にかっこで括り、彼らの経験に関する主張にどのように反応するかは、わたしたち自身が判断しなければならないと注意をうながすことにした。彼らがそれぞれ違うものを見たのか、あるいは同じものを違うように見たのか、判断しなければならない!
ヒンドゥー教の聖者はカルマと転生の輪が回り、時そのものも無限に回るのを見た。こうした思想はインドの宗教の中心的教義となった。
ユダヤ教の預言者は唯一のまことの神に会った。時が熟せば、神は世の終わりをもたらすメシアを送る。その希望は今なおユダヤ人の多くの信者を支えている。
ザラスシュトラ(ゾロアスター)は終末での善と悪の最後の戦いで、善が勝利するのを見た。
それぞれ解釈は異なるが、これらの宗教の開祖は、歴史のこちら側で起こっていることよりも、向こう側で見たことのほうに関心があった。
老子が気づいたのは、他者を制御しようとする者もバランスを崩してしまうということだ。他者が独自のリズムで暮らすことを許さず、常に干渉しようとする。極端な例として、自動食器洗い機に食器を入れる方法から、国を治める方法まで、何をするにしても自分のやり方が唯一の方法だとする人がいる。このような人は押しつけようとする型に現実が当てはまらないので、常に苛立っている。老子は苛立っている人々に、気を緩めて、植物の生き方から学ぶようにと説く。植物は何かのやり方を教わる必要はない。自然にしたがうだけだ。人間はなぜ同じことができないのか?やきもきするのをやめて、物事を成り行きに任せることがどうしてできないのか?何もせず、物事をあるがままにする、成り行きに任せる自分の生き方を老子は「無為」と呼んだ。彼は規則や規制を嫌い、強制的に管理しようとする人のやり方を嫌った。管理しようとする人は人々の違いをたたえることなく、すべての人をこの世のそれぞれの枠に押し込めようとする。
老子のような生き方を選ぶ人々は、アナーキスト(無政府主義者)と呼ばれる。アナーキストもギリシャ語が由来の言葉で、政府を否定する人という意味だ。道士の場合、政府を全面的に否定するのではなく、政府のなかにバランスや調和を望む。社会での立法者の支配的な役割を警戒し、すべての人を同じ型にはめようと強制するやり方を嫌う。無政府主義者の反対語は法律尊重主義者であり、法律だけが人間の本質を管理できる唯一の方法だと考える人のことだ。社会に何か問題が生じると、「禁止だ!統制だ!」と常に叫ぶのが法律尊重主義者だ。
社会全体の利益のために人間性を管理しようとする孔子とは異なり、老子は社会のなかでできる限り個人に自由を与えることを望む。競合するふたつの生き方は、これも陰と陽であり、それぞれによい点がある。だが法律尊重主義者は歴史上大きな力をもつまとめ役であり、めったに手綱を緩めないので、宗教や社会のなかでたいてい優位に立ち、自らの意向を他者に押しつけようと試みる。必要となれば、思い通りにするために戦争さえ仕掛ける。老子は戦争を人間の調和を破壊するものとして嫌った。人々が彼の言うことを聞き入れていたなら、世界はもっと楽しいところになり、戦争も少なくっていただろう。
クルアーンをイスラーム教の聖書と考えてはならない。聖書がクルアーンと大きく異なる点は3つある。ひとつは、聖書が何世紀にもわたって多数の著者や編者によって時間をかけてまとめられた点だ。ふたつ目は、聖書は本のシリーズであり、1冊の本ではない点だ。3つ目は、神の啓示についても書かれてはいるが、聖書は人間が作り出したものであり、人間の手によるものとわかっている点だ。イスラーム教ではクルアーンについて、この3つの点をどれも認めていない。クルアーンはひとりの男の生涯に連続した啓示としてもたらされた。人間が媒介しているが、人間が作り出したものではない。建物に電気をもたらすケーブルのように、ムハンマドは神からの力を伝えるクルアーンの導管だ。クルアーンは神の考えを地上の形に表したもので、地上における神の存在そのものだ。つまりムスリムにとってのクルアーンは、キリスト教徒にとってのイエス・キリストなのだ。キリスト教徒の教義では、イエスは地上における神の顕現であり、神がこの世に現れるために人間の形をとったと定められた。ムスリムにとってはクルアーンがそうなのだ。彼らとともにおられる神なのだ。クルアーンという言葉は、詠唱すべきものという意味だ。天使ジブリールが預言者ムハンマドの耳に詠唱したものだ。その預言者が信者に詠唱したものであり、その詠唱が彼の死後に書き留められた。今でも敬虔なムスリムはクルアーンを暗記しており、114の「スーラ」と呼ばれる各章を最初から最後まで詠唱できる。
ムハンマドの主張によれば、ユダヤ教徒が生み出して、キリスト教徒が進化させたものを、彼の代で完成させたという。クルアーンは彼のことを「最後の預言者である」(中公クラシックス『コーランⅡ』33章40節)と記す。もう預言者は現れないのだ。預言者の系譜は終わった。封印されたのだ。そしてイスラーム教がその完璧な総括なのだ。ムハンマドはユダヤ教徒やキリスト教徒がそうした見方をしないことに失望したが、彼らの反応は特に珍しいものではなかった。古い宗教を守る人は常にそうだが、自分たちの日々が終わり、新しい宗教に道を譲らなければならないとは認めたがらないものだ。ムハンマドが望んだのは、自分は天敵ではなく、彼らが待ち望んでいた終末の履行者だと、メディナのユダヤ教徒やキリスト教徒に納得させることだった。クルアーンに記されているように、「神は以前のものの確証として、汝にこの啓典を真実をもって下したもうた。かつて神は律法と福音を下したもうた」(中公クラシックス『コーランー』3章3節)。だからなんじこそムハンマドは初めの頃は信者たちに、祈るときにはエルサレムのほうを向くようにと指示した。ユダヤ教徒とキリスト教徒に預言者として受け入れられなかったので、それからはエルサレムではなくメッカのほうを向くようにと信者に教えるようになった。