加来彰俊の作品一覧
「加来彰俊」の「ゴルギアス」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「加来彰俊」の「ゴルギアス」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
Posted by ブクログ
『ゴルギアス』
感想について、いくつか考えたことをまとめるのが面倒なので、箇条書きに記していく。
*ゴルギアス
『ゴルギアス』は弁論術の大家であるゴルギアス本人と、その弟子のポロス、新進政治家のカルリクレスと、ソクラテスとの対話の三幕構成だった。ゴルギアス本人についてはとくに割合が少なく、弁論術の大家で老紳士ということぐらいしかわからなかった。
*対話とは
ソクラテスの一問一答的な問答法と、ゴルギアスたちの得意とする大同演説的な弁論術は対極に位置する。ソクラテスの議論はいちいち整理されるので非常にわかりやすいが、ソフィストたちの武器である長広舌の弁論を封じて、自分のフィールドに持ち込んでいるという意味では、せこましいとも言える。
ただ、ソクラテスの議論はやはり見習わなければならないところがある。非常に平易で、論理的であろうと、議論の毀れがないようにと努めている。このように議論できるのが本来一番良いはずであると思う。しかし、それは本当か、議論のすり替えではないか、そこは同意のものとして済ましてもいいのか、と思うところが多々あった。ソクラテスのような人となら議論してみたい。
*結末の神話の内容
ソクラテスによれば、人間は死ねば魂と肉体とに分離し、死後も肉体は生前に形成された肉体の状態を保つように、魂も同様に、生前の魂の状態を保つ。そしてそうした魂は冥界へいき、裁判を受け、よい魂は天国へ、悪い魂はタルタロスの地獄へ行くのだという。しかも、魂は肉体という装飾が剥がされた丸裸の状態であり、ごまかしが効かないのだという。
*神話についての感想
かなり唐突だったし、ソクラテスはこれを神話(ミュートス)ではなく、真理(ロゴス)なのだと、自明のこととして扱っている。当時、有神論的な世界観があったというのはわかるが、これはかなり現代人の私たちには受容しがたい。また、ソクラテスが長広舌でこの神話について紹介した後、それは何者によっても反駁・意見が交わされることなく、それはあたかも疑いえない真理であるかのように幕が閉じる。まるで勝ち逃げのようなこの結末はなかなか受容し難かった。
*神話を受け入れられない理由
私にとってこれが受け入れられないのは、それがプラトンの倫理学の基礎のように受け取られたからだ(少なくとも『ゴルギアス』を見る限り)。かいつまんでいえば、「魂を汚さないように、よき魂として死んだ後に天国に行けるように、現世でも気をつけて生きよう、そのために倫理を守ろう」といっているように見えるのだ。
これはほとんどキリスト教と変わらないではないか。これが「魂の配慮」の下心なのか。ニーチェがプラトンの哲学を原始のキリスト教と準えるのも頷けるところがあった。
*ふたりの利己主義・傲慢な若者(ポロン・カルリクレス)
二人の若者はどちらもなかなか極端な人物で、明らかに倫理に反していると思われることを平気でいう。それに対してソクラテスが、(よき魂に反する)そうした非倫理的なことを合理的に嗜めるという形式にもなっていたように思う。
しかし解説によれば、これはプラトンの意地悪な脚色も入っているらしく、二人の人物は実在した人物とされているが、どちらも当時の若者の類型として登場させているのだという。ちなみにゴルギアスについても、実際のゴルギアスは法廷弁論をよしとしなかったらしいが、本書のゴルギアスはそれについても熱心に論じている。
*読後の感想のひとつ —厭世
ともあれ、類型として採用された二人の若者像は、当時の時代状況の若者の本音を描き出している。また、ソクラテスが珍しく長広舌になって、腐敗した衆愚政治に対する辟易を述べているが、こうしたことは、時代や国が変わっても、全く進歩しないところがあると自分の厭世観が強まった。
Posted by ブクログ
2023/10/23朝日カルチャーセンター横浜の講義終了
通して「弁論術」そして「ソフィスト」とは何か(『ソフィストとは誰か?』納富.2015.ちくま学芸文庫を併読)の考察が深められたように思う。
対話相手の3者(ゴルギアスとそれに師事する二人)で、三様の結末と前者を受けての対話が連続する様、様々なテーマが折り重なりながらも「弁論術」の真偽を見極めんとし、政治、哲学、生き方を問いかける様が印象に残った。
結論的部分では、政治に密接にかかわる弁論術が、哲学的に意義のあるもの(良い弁論術!?)として立ち現れてくる可能性(『ポリテイア』等へ引き継がれるテーマ)が語られいた。
その場合、弁論術が想定する聞き手=大衆・民衆(デモス)との関係は、弁論術そのものの性質を左右する本質的なものではないだろうか?
また一方で、ソクラテス的対話(「不知」の地点に立つソクラテスの問いかけ)の対象である市民一人一人も、同時に大衆・民衆(デモス)でもありうるのではないか、その対話を「ありそうな(エイコス)」言説を用いずに遂行は可能なのだろうか、という考えも浮かんできた。
Posted by ブクログ
声のうるさくなったこの現在が煩わしくて、時にことばにすることが億劫でもう説明することが心底どうでもよいと思うことがある。
そんな中にあって、もう遠く離れた場所の時間も違う人間だというのに、おなじような感覚に出会うと、一周回って、あぁ、人間の歩みはこうも遅く進んでいくものなんだと思えてくる。ほんとうに生まれたての子どものように、少しずつ試し、失敗して反省しながら滅びまでの道を歩いていくことしかできない。それはどこか悲しく、どうにもならならい痛みを抱えて生きていくことだけど、この命の明滅を繰り返してひとつの線になっていくのだと思うと、それはそれで自分の魂の不滅というものが実感できる。自分の居場所が空けば、この席をまたきっと同じような人間が埋めてくれる。そうして魂は明滅を繰り返して続いていく。
一体そのとき魂が何をみて、何を感じ、何を考えるか、そのとき自分はもう死んでこの世からいなくなってるからわからない。だからこそ、今の人生がたまらなく愛おしく、そして同時に今の人生の端にある死を狂おしく願う。命が尽きるその時まで自分の魂を善いものにしたい。命が続く限り考えていたい。
ソクラテスにとっての生死とはそれくらい重要で、同じくらい無頓着などうでもいいことばだったと毒杯をあおいだ彼の迷いのなさが今ならはっきりわかる。またこの自分も同じところにたどり着ける。魂はまた生まれ変わる。