1346円
514p
★再読
カミーユ・ピサロの絵って構図とか配置が良いからグラフィックアート的だよね
●ジョン・リウォルド:1912年ベルリン生まれのユダヤ系ドイツ人。美術史家、作家、キュレーター。32年にパリのソルボンヌ大学に入学し、36年に博士論文『セザンヌとゾラ』を出版。ナチスの台頭によって亡命者として渡米し、43年よりニューヨーク近代美術館顧問として様々な展覧会を企画する。プリンストン大学、シカゴ大学を経て、71年よりニューヨーク市立大学教授。セザンヌを中心とする印象派研究の権威として多くの著作がある。
●三浦 篤:1957年、島根県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。専門はフランス近代美術史、日仏美術交流史。『エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』(角川選書)など著作多数。
●坂上 桂子:東京都生まれ。早稲田大学文学学術院教授。専門は美術史、モダンアート。『ベルト・モリゾ ある女性画家の生きた近代』(小学館)、『ジョルジュ・スーラ 点描のモデルニテ』(ブリュッケ)など著作多数。
「展覧会に参加するよう求められた芸術家たちは、細心の注意を払って出品作を選定した。というのも、彼らにとっては、同国人のみならず世界のあらゆる地域の芸術家たちと自分自身を比較しえる、歴史上初めての機会が与えられたからである(註 4)。ドラクロワは己れのさまざまな発展段階を表す一連の作品を選んだが、これは個展というものがまだ知られていなかった当時においては、それ以前に見られなかった構成である。アングルはといえば、自ら期待する賞賛の言葉を公衆や批評家からもらえなかったために、二〇年間もサロンに出品するのを控えていたが、この原則を破ることに同意した。おそらく、政府から特別の名誉を約束されたことに鼓舞されたのであろう。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「アングルは最も重要な作品の一つである《トルコ風呂》を危うく出品し損ねるところであった。当時の所有者エドゥアール・ヴァルパンソン氏が、自分の宝を展覧会に出すのを最初は拒否したからである。しかし、ヴァルパンソン氏の銀行家仲間オーギュスト・ド・ガスの息子が、巨匠の頼みを無視した人間がいることを知って大層憤り、この蒐集家を何とか説き伏せてしまった。ヴァルパンソン氏はそのあとすぐに、当時画家になるため法律の勉強を放棄しようとしていた二〇歳になるこのエドガー・ド・ガスを、アングルのアトリエに直接連れて行き、この年若い賞賛者の執拗さに負けて万博に喜んで絵を貸すつもりになったと画家に伝えた。アングルは大変喜んで、この訪問者が美術に身を捧げるつもりであるのを知ると、次のような忠告を与えた。「線を引きなさい、お若い方。たくさんの線を。記憶からでも、自然に即してでもよいから。そうすれば、よい芸術家になれるでしょう」(註 5)。エドガー・ド・ガスはこの言葉を決して忘れることはなかった。 ところで、主として風景画に興味を持っていたピサロが、賞賛の念をかき立てられたすべての絵画作品のなかで、アングルの《トルコ風呂》に特別の注意を払ったかどうかは疑わしく思われる。会場には五〇〇〇点以上の絵が所狭しと壁を埋めており、額縁が触れ合うくらいに、床から天井まで三段かそれ以上の列を作っていた。新しい産業宮(パレ・ド・ランデュストリー)にその大方が集められた他の呼び物すべてについては、いわずもがなであろう。美術の世界から遠く離れて、長い年月を過ごしたピサロにとって、美術宮(パレ・デ・ボザール)における壮麗な展示は、興奮させると同時に混乱させるものであったに違いない。つまり、並べられている作品数の多さに興奮させられ、それらの作品の様式と構想が驚くほど異なっているがゆえに混乱させられたのである(註 6)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「拒否された二点の内の一つは、クールベのアトリエを表した、逆説的な題名を持つ超大作《画家のアトリエ、私の七年間の芸術的生涯の一局面を定義する現実的寓意画》であった。クールベの意図は、自分の人生に影響を与えたさまざまな原理や人物を概括し、集合させることであった。一八四八年以来、己の人生の一部を成してきたあらゆる社会的な類型とすべての思想を、一個の大きな枠組みのなかに集めたのであり、そのなかにはボードレール、シャンフルーリ、そしてモンペリエの蒐集家ブリュイヤスなど、友人たちの肖像も含まれていた。裸体でポーズする一人の女性がカンヴァスの中央を占め、いささか奇妙なことだが、アトリエの群衆に囲まれた画家自身が、イーゼルに置かれた風景画に向かって制作している。構成上のこのような矛盾はピサロを驚かせたかもしれないが、より驚異的なのは、力強い筆捌きと、主題を表現する際の大胆な取り扱いであったに違いない。クールベの言葉によれば、この絵を拒否するにあたって審査委員会のメンバーは、「どんなことをしても、フランス美術に災厄をもたらす絵画傾向に歯止めをかけなければならない」(註 9)といい放ったという。そして、一般の人々もクールベの展覧会を避けることで、審査委員会の決定を暗黙のうちに了解したのである。公衆はアングルと数多いその追随者たちの古典主義を好み、ヴェネツィア派を古典主義、ロマン主義、さらには写実主義の諸要素と混ぜ合わせたクテュールの折衷主義的な趣味を褒めそやした。もはや純粋な風景画に対してさほどの敵意を抱くことはなくなり、ルソーやトロワイヨンの作品を買ったりもしたが、ドラクロワの偉大さはしぶしぶ認めるにすぎないように見えた。美術の潮流の多様さに当惑した一般の人々は、新しい芸術上の問題に直面するための、あるいは「自らが生きる時代の風俗、思想、様相を自らの判断に従って描き表す、一言でいえば生きている芸術を作り出す」(註 10)というクールベの革命的な構想を認めるための、準備も気持ちも持ち合わせなかったのである。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「なぜミレーが万国博覧会の展覧会に一点しか展示されていないのかを理解する助けになったであろう。というのも、ミレーの主題はクールベのそれと比べればロマン主義的に見えても、いわゆる趣味と洗練を身につけた人々にとっては耐えられない、田舎の生活への感傷的な興味を示していたのである。帝室美術長官のニューヴェルケルク伯爵は次のように公言していた。「これは民主主義者の絵画だ。下着を取り替えず、上流社会の人々へ自分を押しつけようとする人間たちの絵画だ。このような芸術を私は好まないし、嫌悪感を覚える」(註 14)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「アカデミーの方法を導いた芸術上の概念は、半世紀前にダヴィッドの教えとともに始まり、彼の最も著名な弟子であるアングルによって、緩められたわけではないが変形されていた。ピサロがパリに着いた一八五五年には、アングルはすでに三〇年間アカデミー会員の地位にあった。そして、一風変わったこの誇り高き男は、画歴の初めに師の原理の厳格さに自ら苦しんでいたにもかかわらず、この時期弟子たちにより寛容な態度をとることはいささかもなかった。発展という自然法則を考慮することを好まず、自ら賞賛する芸術家以外のものを過去のなかに見ることを欲せず、リュベンスとドラクロワを軽蔑していたアングルは、他の道を選んだ者たちの努力のことを考えたり、それに興味を持つことなく、自らの古典主義的な理想に執着し、己の考え方がなお時代に合っているかどうかを自問することは決してなかった。シャセリオーはアングルとの最後の議論において、かつての師が「今日の芸術に生じた観念や変化をまったく理解していない」ことを知って驚いた。「彼は最近の詩人についてまったく無知なのだ」(註 16)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「「古典的方法に従って素描を教える場合、どのようにことは進むのか」と、美術学校の敵対者の一人は問いかける。「初めに、輪郭素描と呼ばれるシルエット〔輪郭線だけで描かれた絵〕を生徒たちに見せて、機械的に模写させる。眼は……まず悪しき習慣を身につけることから始める。つまり、さまざまな面を考慮に入れないこと、解釈すべき対象のなかに輪郭で囲まれた平坦な表面しか見ないことだ。……さて次に、美術学校の教育はどんなことから成り立っているのか? この教育は、まさしく裸体画習作と呼ばれるものを若者たちに写し取らせることに専念する。すなわち、いつも同じ場所で同じ光を当てられ、何時間も続けさせたら一般的には拷問と思われるようなポーズを取った男性の裸体像である」(註 27)。こうした修業を何年も経て、ようやく画学生たちは絵具を使って描くことを許されるが、そのうえで取り組まねばならない歴史上の主題は、彼ら自身の視覚体験や現実生活とは何の関係もないのである。「彼らは美を、代数学を教えるようなやり方で教わる」と、ドラクロワは軽蔑を込めて語っている。 個々の生徒たちが生来持っている性向をいささかも考慮することなく、アカデミーの体系は抑圧的な雰囲気のなかで適用されていた。この雰囲気を最も的確に分析したのは建築家ヴィオレ =ル =デュックで、彼はこうした美術教育を痛烈に批判した。未来の芸術家たちの抱える諸問題を検討しつつ、画学生の境遇を以下のように記述している。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「「ある若者が絵画あるいは彫刻への嗜好を示す。……この若者は通常まず両親の嫌悪を克服しなければならない。両親は、息子に技師の学校に入ってもらいたかったり、商店の店員にしようと思っていたりするのだ。息子の力量は疑われ、能力を証明することが望まれる。もしも最初の努力が何らかの成功をもたらさない場合、彼は勘違いをしているか、怠けていると見なされる。もはや許可は下りない。というわけで、その手の成功を追い求めることが必要だ。若き芸術家は国立美術学校に入学し、メダルを取る……がしかし、その代償とは? 厳密にそしていかなる逸脱もなしに、教授団が課した制限のなかに留まること、従順にすでに踏み固められた道を辿ること、教授団が認めた思想だけを持つこと、そしてとりわけ生意気にも自分自身の思想を持ったりなどしないこと、これが条件だ。……加えて、画学生たちのなかには、当然ながら才能のある者より凡庸な者の方が多いという事実、多数派は常に慣例の側につくという事実が観察される。独創性への好みを示す者に対しては、これ以上ないほどの嘲罵が浴びせられるのだ。あらかじめ示された公道の真んなかを歩まなかったなら、教師には軽蔑され、同僚には嘲られ、両親には脅迫されるこの哀れな男が、一般に『古典教育』という名で呼ばれているこの圧制を耐え抜くだけの力を、自信を、勇気を持ち、己が道を行くことなど、どうしてできようか」(註 28)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「実際、そのような勇気のある者の数は極めて少なかった。ある者は、自らを解放できるようになるまで何年間も美術学校で辛い修業を積み、ある者は美術学校に入学することを避け、またある者はピサロのようにほんの一時だけ在籍した。だが、いずれの者も遅かれ早かれ、両親の希望を気にかけるか、両親の援助なしに我が道を行くかの二者択一を迫られるのだった。国立美術学校の外に、新しい方法を試してみた教師がいたのは事実である。ルコック・ド・ボワボードランの体系は絵画的記憶の発達に基づいており、弟子たちは見たものを自分のなかに深く染み込ませ、完全に記憶だけでそれを再現できるようになるよう訓練させられた(註 29)。彼らの師は、着衣または裸体のモデルに森や野原のなかを自由に動き回らせて弟子たちに観察させるということまで行ったが、それは自然な態度を研究するためであった。だが、ルコック・ド・ボワボードランの授業を受けていたのは一〇人あまりの画学生に過ぎず、そのなかにはアンリ・ファンタン =ラトゥールも混じっていた。芸術の世界に入りたいと望む者たちの大半は、いわずもがなの理由から国立美術学校の方を好んだ。とくにトマ・クテュールのアトリエが人気で、それはアメリカ人たちの間でも同様だった。かなりの数のアメリカ人が美術学校にいたのである(註 30)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「この忠告に対してドガがどのように答えたのかはわかっていないが、彼の初期作品がドラクロワよりもアングルの範例により忠実に従っていることは事実である。ピサロより四歳年下ではあったけれども、パリジャンたるドガはそもそもの初めから、繊細で高度の教養を持った一人の芸術家、芸術のなかでも音楽をめぐるさまざまな問題が聡明な仕方で論じられているような家庭で育った一人の芸術家の、洗練された手つきを持っていた。それに引き換え、ピサロの初期の絵画には、いく分か「地方的なアプローチ」がいまだ見て取れる。パリだけがそれを取り除いてくれるのであった。とはいえ、ドガ自身は自分を取り巻くコスモポリタンな環境に嫌気がさし、イタリアへ行こうと決めていた。イタリアは、とくに彼を惹きつけていたルネサンス以前の芸術家たちのみならず、古典美術にも本当の意味で親しむことができる唯一の場所だった。しかしドガは出発前に、両親の友人であるグレゴワール・スッツォ親王と何度も長時間の議論を戦わせた。この人物はドガにエッチングの技法を教えただけでなく、コローと無縁ではない流儀で自然を理解することを助けてもくれたのである。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「ほとんど参加することはなかったにもかかわらず、ドガはひどくパリの芸術生活を嫌悪していて、イタリア滞在時のノートにこう記しているほどだ。「今日、真剣に芸術に取り組み、自分のために独自のささやかな居場所を確保しようと欲するなら、あるいは少なくとも、個性のなかの最も無垢な部分をそのまま保持しようと欲するなら、再び孤独のなかに没入することが必要だと私には思われる。あまりにもたくさんのことが起こりすぎている。まるで、絵も株取引きと同様、儲けようと躍起になっている人々同士の摩擦によって作られているかのようだ。いってみれば、ちょうどビジネスマンが投機で利益を上げるために他人の資本を必要とするのと同じ分だけ、どんなものであれ何かを作り出すに当たっては隣人の精神と思想が必要になるのだ。こうした取引きの一切は神経を苛立たせ、判断力を歪めてしまう」(註 35)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「こうしたカフェの雰囲気は雑然としたもので、ほんの数分のうちに誰かが偶像に祭り上げられては打ち捨てられ、どんなに華々しい人物でも必ず侮辱を浴びせられ、しばしば論理に激昂が、理解に熱狂が取って代わった。こういった雰囲気は、公的な芸術サークルのそれとは極端な対照を成していた。そこには生命とけた外れな征服意欲があり、多くの者が錯誤を犯したり極端に走ったりしたとしても、偏見と伝統に対するその闘いには前向きの要素が、新しい信念の価値を新しい作品を通じて証明しようという欲望が存在していた。ルーヴル美術館は焼き払われねばならないという、ピサロがしばしば提唱した意見が、こうした議論に根ざしたものだったということはおおいにあり得る。そこでは過去の遺産は、自分自身の世界を打ち立てようと欲する者にとっては有害であると見なされていた。(ある論文のなかでデュランティは、ほとんど公然とルーヴル宮に火を放とうと提言している)。アカデミーが聖なる伝統を体現していると主張すればするほど、そうした伝統はビヤホールにおいては疑わしいものとなった。だが、新しい思想を理解し、それを適用することのできた者たちは、過去の否定と輝かしい未来の夢という以上のものを見出すことができた。努力を差し向けるべき方向を、そしてまた刺激的な同志を見出したのである。そして、同志は限りなく貴重なものであった。というのも、勇気と意志力だけでは、新しい道のりを進んで行くのに必ずしも充分ではなかったからである。他の者たちと一致協力していると感じること、一つの『運動』に参加していると感じることが、さらなる力を与える。カフェのテーブルの周りで、数え切れないほどの友情が生まれ、のちのサロン評はそのことを雄弁に物語っている。ビヤホールで出会った批評家の誰かに賞賛されたおかげで、数多くの芸術家たちが自分を認めてもらおうと延々苦闘せずに済んだこともあったかもしれない。そうした賞賛は、続いて多かれ少なかれ無名の新聞で活字になるのだった。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「マネはといえば、初めての落選に間もなくもう一つの落選がつけ加わった。マネの描いたある婦人の肖像画を、モデルの家族が受け取ることを拒否したのである。というのも、マネはモデルに媚びることよりも、光と影の対立や、流れるような運筆の方に興味を持っているということを隠さなかったからである*。 ピサロだけは審査をうまく通過した。彼は前年の夏をパリ近郊のモンモランシーで過ごして、戸外で制作することができたのだったが、この土地を描いた風景画を一八五九年のサロンに出品していた。この作品は受理された。初出品者は通例、師の名前を示すことになっていたので、サロンの目録リストでは、ピサロは「アントン・メルバイの弟子」と記載されている。問題の絵はまったく目立たないかたちでかけられたに違いない。少なくとも、いかなる批評家もこの絵に注目することはなく、ザカリー・アストリュックがサロン評のなかで言及してはいるが、それは仲間を喜ばせるためにしたことで、作品の質に関して確信していたわけではなかった。ただたんによく描けているとしかいっておらず、あやうくピサロの名前をいい落としそうになっている(註 45)。にもかかわらず、ピサロは両親に対して、フランス到着四年目にして自作の一点がサロンに展示された、と誇りを持って知らせることができた。同時にまたその「成功」のおかげで、この臆病な芸術家はコローのもとに戻り、進むべき道について意見を請う勇気を持ったのだった。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「しかしながら、自分の教えがモネを正しく導くのに充分であると考えるには、ブーダンはあまりに謙虚な人だった。彼はよくこう述べたものだ、「人は独力では決して目標に辿り着くことはできない。とても強い素質があれば別だが、それでも、それでも……たった一人で、辺鄙な土地で、批評も、比べることのできる対象もなしに、芸術を創り出すことなどまったく不可能だ……」(註 5)。六ヶ月もの間こうした忠告を受けたモネは、母親が息子の交友関係を本気で心配し始め、ブーダンのような評判の悪い男とつき合うことで、道を誤ったのではないかと考えていたにもかかわらず、画家になりたい、勉強のためにパリに定住したいと父親に告げた。モネの父親はまったくその考えに反対したわけでもなかった。というのは、オスカールの叔母でル・アーヴルに住んでいたルカードル夫人が暇を見て少し絵を描いたりしており、甥に自分の屋根裏のアトリエを喜んで貸していたからである(このアトリエでモネはドービニーの小品を発見し、大変な感嘆ぶりだったので、叔母はその絵をモネに与えた)。両親はモネの才能をよく理解していたし、おそらくは誇りにさえしていたのであったが、一方であまり乗り気でなく、他方では経済的に援助する能力がなかった。一八五九年に父親は市議会に手紙を書いた。ブーダンに対してかつて行ったようなことを、息子に対してもしてくれるのではないかと考えたのである。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「一八五九年五月、パリに到着してほどなく、モネは最初の報告をブーダンに書き送っている。「まだサロンには一度しか行っていません。トロワイヨンの作品はすばらしい。ドービニーの作は僕にとっては真に美しいものです。いくつかいいコローの絵があります……。何人か画家を訪ねました。最初はアマン・ゴーティエだったのですが、彼は近いうちにパリであなたに会えるものと期待しています。みんなそう思っていますよ。ル・アーヴルに留まって、その綿業の町でどんどん意志が萎えていくにまかせたりしないで下さい。トロワイヨンに会いに行きました。こんな風にしろといってくれました。二点静物を見せたんですが、それを見てこういったんです、『そうだな、君は色彩の方は大丈夫だろう。全体の効果は正確だ。だが一生懸命勉強しないといけないよ。この絵はとてもいいが、すらすら描きすぎてるんだ。勉強は絶対に無駄にはならないはずだ。私の忠告を注意して聞いて、真面目に芸術に取り組みたいのなら、手始めに人物ばかり描くアトリエに入って、素描を学びなさい。近頃はほとんど誰もきちんと素描ができないんだ。私のいうことをよく聞けば、正しいことをいっていると分かるだろう。力いっぱい素描をしなさい。どんなにやっても充分ということはないのだから。だが絵具で描くこともないがしろにしてはいけない。ときには田舎に行って写生をしなさい、徹底的に。ルーヴルで模写をしなさい。頻繁に私のところに顔を出して、そのときやっていることを見せなさい。勇気があればきっと目的を達成できるよ』」。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「クールベは友人シャンヌとともにル・アーヴルの通りを散策していたおり、街で唯一の額縁屋にいくつかの小さな海景画が架かっているのを眼にしてたちまち興味を惹かれ、画家の名前と住所を尋ねた。もちろんのことブーダンはクールベの訪問を喜び、この二人の友人たちにル・アーヴルの市内や近郊の案内を自ら買って出た。ブーダンは二人をとくに、サン =シメオン農場にあるトゥータン小母さんの旅館に連れて行ったので、彼らはセーヌ河口の広々とした眺めを嘆賞することができた。ある朝、港沿いに歩いていたところ、三人の画家たちはボードレールに出会い、その一日をともに過ごした(註 10)。クールベはぬかりなくブーダンの絵画、とくに空を描いた絵に対して自分が抱いている賛嘆の念を話題にしたので、ボードレールはそれを見るためにブーダンのつつましい住まいを訪ねただけでなく、ほとんど完成しかかっていた自らの一八五九年のサロン評に土壇場で加筆を行い、まるまる一頁にわたりブーダンのパステルによるスケッチを賞賛し、詩的な解釈を施した(註 11)。この賛辞よりもブーダンにとってさらに重要だったのは、クールベとの会話だった。ブーダンはノートにこう書き留めている。「クールベはすでに、私を臆病からいく分か解き放ってくれている。もっと幅のある絵を描いてみようと思う。スケールが大きく、色調においてもっと独特な絵を。……クールベは幅広い原則を持っていて、それを取り入れることができるかもしれないが、細部に関してはむしろ粗雑でぞんざいなものであるように私には思われる……」(註 12)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「モネはこういった重要なでき事の数々を知らされていたはずである。自分の方もパリ画壇のさまざまなニュースや、またとりわけ自分自身の仕事について絶えず友人ブーダンに書き送ったが、ブーダンもまたパリにやって来て、仕事に関して助言してほしいと強く願っていたのだからなおさらであった。最初の二ヶ月が過ぎて、モネはこのまま無期限にパリに居続けようと決心するにいたった。両親の方はとくに問題ないはずだった。ところが、モネは国立美術学校に入るのを拒否してしまったのである。父親は仕送りを打ち切り、モネは叔母が送ってくれる自分の貯金で食べて行かざるを得なくなった。この時期になると、モネはビヤホールでときどきクールベを見かけたが、話しかける機会を持つことは一度もなかった。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「こうした嘲弄はブラッスリーで議論されていたさまざまな主題を極めてよく反映している。というのもクールベは、作品の構想や制作という点だけでなく、画題の問題に対して新しいアプローチを取った点においても、論敵たちと対立していたからだ。古典主義とロマン主義に対する反動として、クールベは日常生活を描き表すことに絵画的、政治的な可能性を見出していた。アングルはといえば、自分の追随者たちを卑小さに陥れた生活のありふれた局面を頑なに無視していたし、ドラクロワは、メロドラマに向かう危険な傾向を開いた情動的な価値を強調することが多く、二人とも周囲の平凡な人々に眼差しを向けることをしなかった。ドラクロワが一八三〇年の革命に霊感を得たときですら、「バリケード」の絵においては、現実に闘っている人々よりはむしろこの事件の精神や自由の象徴、すなわち市街戦のただなかに三色旗を掲げて入って行く寓意的な女性像を描いたのだった。実際、題名は《バリケード》ではなく《民衆を導く「自由」》であった。クールベはというと、《アトリエ》〔《画家のアトリエ》のこと。この作品は《現実的寓意画》という副題を持っている〕──同種の作品が続けて描かれるはずだったが実現しなかった──を除けば、一切の寓意を用いることを避け、同時代人たち、なかんずく下層階級の観察に専心した。こうしたなかでクールベは画題それ自体を拒否したのではなく、それに新たな意味を与えようと努めたのである。社会主義者である友人プルードンに、駆り立てられたわけではないにせよ勧められて、ミレーがそうしたように、クールベは自らが描く農民のうちに絵画的実現のための単なる一手段を見ただけでなく、自作を社会に関する論評と考えていた。極めて強硬にこうした議論を展開したので、友人である非政治的で穏やかなブーダンさえ、一時期同じような視点から自分の作品を見ていた。画題の好みに関して問われたブーダンは、浜辺で観察した人々にのみ興味を抱いていることについて、クールベが用いそうな言葉遣いで自己弁護を行っている。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「とうとう父親の反対に打ち勝ったセザンヌは、同級生エミール・ゾラに再会するため二二の歳にパリへと急いだ。アカデミー・スイスで午前六時から午前一一時まで定期的に絵を描いたが、おそらく国立美術学校の入学試験に備えるためだったろう(註 31)。モネによれば、セザンヌはいつも黒い帽子と白のハンカチを自分が描こうとするモデルの傍らに置き、モデルの色価を定めるための目印にしていたという(註 32)。粗野な振る舞いや仕事に打ち込むときのおそろしい集中ぶりなどのおかげで、セザンヌはいつもクラスの笑いものであった。ピサロは後年、自分がこの奇妙な若い田舎者に会いに、アカデミー・スイスに出かけて行ったときの模様を回想してこういっている。「美術学校から来た無能どもがこぞってセザンヌの裸体素描をこけにしていた」(註 33)。しかしながら、すぐさまセザンヌの作品に何か個性的な要素を見て取ったピサロと、やはりアカデミー・スイスで知り合った彼より若干歳下のアルマン・ギヨーマンを別にすると、セザンヌはまったく孤立している様子で、旧友ゾラとさえ当初望んでいたよりも会う機会が少なくなった。セザンヌは間もなくこの大都市パリを忌み嫌うようになり、若者らしい成功の夢がただちに実現しないので、引き留めようとするゾラの非常に熱心な言葉にもかかわらず、エクスへ帰ると決めてしまった。一八六一年の冬、父親の銀行に行員として入り、芸術はこれを限りに諦めてしまうつもりで、セザンヌはパリを去った。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「ルーヴル美術館では、画家たちは自分の師を自由に選ぶことができ、一方通行的な教育の痕跡を消し去り、過去の作品のなかに自分が求めるものに合った導きを見出すことができた。この美術館の巨大なギャラリーは模写をする者たちでいつも賑わっており、一八六七年に短期間フランスを訪れた際、数え切れないほどの芸術家がそこで絵を描いている光景に非常な感銘を受けたウィンスロー・ホーマーは、それをもとに木版画を制作した。ホーマーの作品としては、外国旅行に基づいた非常に数少ないもののうちの一つである。 マネはドラクロワだけではなく、とりわけティツィアーノ、ベラスケス、レンブラント、ティントレットを模写した。ドガはホルバイン、ドラクロワ、プッサン、イタリア・ルネサンス前派を選んだ。ホイッスラーはブーシェの模写を一点制作し、友人ティソとともに、アングルの《アンジェリカを救うルッジェーロ》をもとにもう一点描いた。ホイッスラーはベラスケスとレンブラントに感服した。セザンヌはマネ同様、ドラクロワの《地獄のダンテとヴェルギリウス、(ダンテの小舟)》を模写した。だが、模写の数が断然多いのはファンタン =ラトゥールで、たいていの場合は生活費を稼ぐためだった。ファンタンがとくに好んだのはドラクロワ、ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ジョルジオーネ、ティントレット、リュベンス、レンブラント、ハルス、デ・ホーホ、フェルメール、またシャルダン、ヴァトーであった。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「そのうえ、ちょうどこの頃新しい決定が下され、一人につき三点までしか出品できないことになった。しかもサロンは当時隔年開催だったのである。この制限は大きな不満の声を引き起こし、三月一日づけで画廊主マルティネが発行していた『芸術通信』紙は、「大勢の芸術家が国務大臣[ヴァレフスキー伯爵]に請願書を提出……。ギュスターヴ・ドレ、マネ両氏が同僚たちによって請願書を大臣に提出する役割に任ぜられ、閣下はこれを極めて好意的に受理」と報じている(註 21)。芸術家たちが得たものはといえば、結局好意だけだった。 一八六三年、審査委員会は例年以上に厳格であったが、これはどうやらシニョル氏の妥協を許さぬ態度によるものだったようだ。美術学校におけるルノワールの師だったあのシニョルである。アングルもドラクロワも審議には参加しなかった。それまである程度は受理されていた者、例えばヨンキントや、佳作に選ばれた者、例えばマネなどは、みな落とされた。友人の一人によれば、マネは委員会に対して自分を支持してくれるようドラクロワに依頼したが、老巨匠は病が重く審査会に出席できなかった。とはいえ、ドラクロワはマルティネ画廊の展覧会には何とか足を運んだ。マネは一四点を展示しており、そのなかには《ローラ・ド・ヴァランス》《スペイン・バレエ》《テュイルリー公園の音楽会》が含まれていた。こうした作品を前にして嘲笑している客たちに憤慨したドラクロワは、去り際に大声でこういった。「私はこの男〔マネ〕を擁護できなかったのが残念だ」(註 22)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「二人のうちではヨンキントの方が個性が強かったので、おそらくモネに対する支配力もブーダンに比べてより決定的なものであった。ブーダンとは違って、ヨンキントは風景画を屋外で描かなかったが、スケッチや水彩は現場で制作しており、いきいきとした筆致と色彩に関する親密な感覚を持っていたので、自分の観察に忠実に、新鮮さもそのままに再現することができたのである。「私はこの男、ヨンキントが好きだ」と、クールベの友人カスタニャリは書いていた。「根っからの画家なのだ。真正にして類いまれなる感受性の持ち主だと思う。この男にあってはすべてが『印象』に存しているのだ」(註 34)。己の印象に忠実であるために、ヨンキントは主題について頭で理解していることではなく、ある特定の気象条件のもとでそれがどのように見えるかを作品で表そうと努めた。一八六四年の夏にオンフルールにやって来るのに先だって、ヨンキントはパリのノートル =ダム大聖堂後陣の眺めを二点の絵に描いた。一つは冬の朝の銀色がかった光に包まれた様であり、もう一つは日没時の燃えるような空の下での姿であった。この二つの絵画は、数週間や何ヶ月もの間隔を置いて制作されたのだが、ヨンキントはどちらの場合でも、まったく同じ場所に立って自分の見たものを再現するのを選んだ。明るい光の下ではあらゆる建築的細部がくっきりと見えるが、日没時にはこれら細部は薄暗い塊のなかに消滅してしまうのであり、ヨンキントはもはや一つ一つを見分けられなくなったときに飛梁を描き込むのをやめた。こうしてあるがままの形態を目に見えるがままの形態で置き換えることにより、ヨンキントは、彼以前にコンスタブルとブーダンがしたように大気という条件を、自分の習作の本当の主題として取り上げたのであった。間もなくモネが同じ方向性を追求することになり、ノルマンディ地方の道を、一度は曇天の下で、もう一度は雪に覆われたところを描いた。いわゆる「固有色」や知っているはずの形態が、周囲の状況によってどれほど変化するのかを観察するなかで、モネは自然の完全な理解にいたる決定的な一歩を踏み出したのである。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「ルノワールとシスレーは再びフォンテーヌブローを訪れたりもしたのだが、どうやらアントニー小母さんの旅館を根城に選んだようだ。この宿屋はマルロットという小さな村にあり、モネとピサロがときたま二人を訪ねてやって来ることもあった。ルノワールは弟エドモンを連れて来ていた。エドモンは兄の行くところどこでもついて回り、荷物を持ってやり、兄たちが交わす言葉に一生懸命聞き入り、一同が突飛な意見を吐くのにびっくり仰天していた。ルノワールは崇拝していたクールベの知己を得た。おそらくモネが仲立ちをしたのだろう。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「レアリストであったにせよなかったにせよ、マネは突如パリを離れる必要を強く感じ、スペインに行くことに決めた。おそらくは、自分の思想や想像力のなかで、かくも大きな役割を果たしていた画家や生活を育んだ国を親しく知ることによって、新たな霊感を得られると期待したのだろう。ところが、マネはアストリュックがお膳立てしてくれた旅程にしたがわず、スペインでは二週間過ごしただけだった。ファンタンにこう書き送っている。ベラスケスは「画家のなかの画家だ。彼の絵を見ても驚くことはないが、魅了される……」(註 53)。とはいえ、この短い滞在は深い印象を残した。異国情緒と現実の観察の両方に惹きつけられ、マネは自分が夢見ていたスペインが、この国に関する実際の知識によって置き換えられるのを感じた。思っていたよりもロマンチックではない国だった。マネはスペインの巨匠たちが自国の人々を描くときに見せるすばらしい手際に感嘆したが、自分もまた同時代のパリを素材に同じことができるとこのとき気づいたようだ。スペインを去る頃には、前もって抱いていた幻想は色褪せてしまったが、自分の身近な人やものに新たなアプローチを試みようとすっかり夢中になっていた。そういうわけで、マネの「スペイン時代」は、スペイン訪問後いささか唐突な終焉を迎えたが、ただし帰国後ほどなくして、マドリードで制作したスケッチをもとに、闘牛の場面が数点描かれた。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「 同じ頃フォンテーヌブローの森に近いマルロットで、シスレーとルノワールは制作を続けていた。この村では、二人はルノワールの友人ジュール・ル・クールの厄介になっていた。ルノワールが彼と知り合ったのは一八六五年の初めであるようだ(註 60)。ルノワールより九つ年上で、もともとは建築家の素養を積んでいた。父も兄も建築家だったジュール・ル・クールは、一八六三年に絵画に専心するべく決意を固め、一八六五年の春、マルロットに家を購入した。独り者であったこのルノワールの新しい友人は、同時に新しい愛人として二十代初めのクレマンス・トレオを迎え入れたのだが、ルノワールは間もなく彼女の妹である一七歳のリーズに恋をすることになる。ジュール・ル・クールはコローと非常に親しく、彼と一緒に仕事をし、お互いの家を行き来していた。にもかかわらず、ルノワールは老巨匠と親交を結ぶことはなかった。 ルノワールとシスレーはその年の冬をしばらくマルロットで過ごし、シスレーは次のサロンに出品するつもりで村の眺めを描いていた。モネも戻って来た。大作《草上の昼食》を仕上げるためである。一八六六年が明けて数週間、おそらく戸外で制作できなかったからだろうが、ルノワールはアントニー小母さんの旅館で、友人たちがテーブルを囲んで座っている様を描いた。大型の作品で、クールベとの親近性を感じさせる。なかでもジュール・ル・クールと、その向かいに『レヴェヌマン』紙(セザンヌの友人ゾラはちょうどこの新聞の書評子に任ぜられたところだった)を広げたシスレー、ル・クールの白いプードル、アントニー小母さんの娘ナナが描かれている。ナナは母のもとに投宿する人々の誰に対しても、かなり親切だったといわれている。母親の方もやはり後景に姿を見せている。壁には『ボヘミアン生活の情景』の著者ミュルジェールを描いたカリカチュアが見られる。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「セザンヌがこの手紙を書く際に、旧友ゾラの助けを借りたのは間違いない。文面からは、見事なまでにジャーナリスティックなやり方で無礼と高慢と嘲笑を混ぜ合わせる、ゾラの手つきを容易に読み取ることができる。セザンヌがパリにやって来る前から、すでにゾラは芸術に対して旺盛な関心を示していた。だが、セザンヌとともに落選者展を訪れて以来(セザンヌはゾラを友人いくたりかのアトリエに連れて行きもした)、芸術上の新しい動向が突きつけて来るさまざまな問題を真剣に考え始めたのだった。セザンヌを通じてゾラは、マネの絵画をよく話題にしていたピサロやギユメなどといった連中の知己を得、アシェット出版社に雇われていた頃には、やはりマネのことを話してくれたデュランティと出会った(註 6)。一八六五年十二月、セザンヌに捧げられた、どちらかといえば感傷的な小説『クロードの告白』をゾラが出版したところ、それほど注目を集めなかったが、帝政の検閲と最初の小競り合いを起こすことになった。不道徳だとして起訴されたのである。だが司法省の報告書では、この若い作家が裁判所判決によって弾圧を受けているある新聞に寄稿していたという指摘はあるものの、結論として「明確な政治的意見を持っているわけではなく、その野心はもっぱら文学的なものである」と述べている。しかしながら、ゾラはこれを機会に一八六六年初頭アシェット社を辞し、『レヴェヌマン』の書評子となった。『ル・フィガロ』紙主幹でもあったアンリ・ド・ヴィルメッサンの創刊した日刊紙である。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「セザンヌやその友人たちと長い議論を行い、ゾラは次のような結論を引き出した。芸術家は「自分自身の力で存在するのであり、主題に何を選んだかということによって存在するのではない」。「描かれるべき事物や人物は口実にすぎない。天才とはこの事物なり人物なりを、より迫真的でより偉大な新しい方向に持ち来たらすことに存している。私はといえば、心を動かされるのは樹木でも表情でも光景でもない。作品のなかにいる人間である。神の作りたもうたこの世界の傍らに、自分自身の手になるもう一つの世界を作り上げる術を知っている力強い個人である。私の眼はこの世界のことをもはや忘れることはできないであろうし、いたる所にこの世界を認めるであろう」とゾラは書いている(註 7)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「この連載を始めてすぐ、ゾラはマネを訪問した。それに先だってギユメとデュランティが二人を引き合わせていた(ように思われる)。画家のアトリエでゾラは、落選した作品を以前の作品と合わせて仔細に検討し、嘲笑を浴びせかける公衆に対する自分の見解と態度についてマネと議論した。この訪問でゾラはマネの人格と才能に深い感銘を受けた。そこで彼はこの落選した芸術家に、連載のなかの一回分を特別に割り当てた。サロン評としては異例の措置である。マネの人格を分析して、ゾラは以下のような予言を行ってさえいる。「ルーヴル美術館にはすでにマネ氏のための場所が確保されている。クールベに場所が用意されているように、つまり独創的で強靭な気質を備えた芸術家だれもに場所が用意されているように」(註 9)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「特定の流派やグループをえこひいきしているのではないということを示すために、ゾラはその次の回でサロンに出品しているレアリスムの画家たちを検討した。「『レアリスム』という語は、私には何の意味も持たない。現実は気質に従属させられるべきと考えるからである」と彼はいい、個性的なやり方で取り扱われているのでなければ、「レアリスム的な主題」には興味がないと説明する。同時にモネを高く評価している。ゾラ本人はモネと面識がなかったが、セザンヌやピサロの口からその名を耳にしていたに違いない。「ここには気質がある、まるで去勢されでもしたかのように覇気のない連中ばかりのなかで、ここには一人の男がいる!」とゾラは感嘆の叫びを挙げる、「……繊細にして強靭な解釈者であり、個々の細部を無味乾燥に陥ることなく伝達するすべを心得ている」(註 9)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「ゾラはすかさず『ル・フィガロ』紙に訂正文書を発表した。『レヴェヌマン』紙が一年続いただけで廃刊になってしまったので、当時彼は『ル・フィガロ』紙の定期寄稿者を務めていたのである。ゾラはセザンヌが「子供時代からの友人の一人であり、その強靭で個性的な才能を私が極めて尊敬している若き画家」であることを強調し、「彼の芸術の道具箱には豚の足など決して入ってはいない、少なくともこれまでのところは」と否定してみせる。「このような留保を付けるというのも、私はメロンや人参を描くのと同じで、豚の足を描いたって何も不都合はないと考えるからである」。ついでゾラは、著者モルティエが皮肉な調子で、「この芸術家はおそらく哲学的観念を自分の絵画に持ち込んだのだろうと確信している」とつけ加えているのを批判する。その近作をあまり評価していなかったので、クールベという事例があることを無視しているのは明らかだが、ゾラはぶっきらぼうに次のような反論を行う。「これは不適切な確信である。哲学的な芸術家をお探しなら、ドイツ人に、あるいはいっそ我らがフランスの小綺麗な夢想家たちに当たられるがよい。だがご承知いただきたいのは、分析的な画家たち、私がその主張を弁護する栄に浴している若き一派は、自然の偉大な現実のみで満足しているということだ。さらに、《ナポリの午後(ラム入りグロッグ)》と《酩酊》が展示されるかどうかはド・ニューヴェルケルク氏の胸先三寸なのである。ご存じの通り、いく人もの画家たちが「落選者展」を再び開催することを求める請願書に署名を行ったところだ。おそらくいつの日かアーノルド・モルティエ氏は、自身が軽々に審査し記述した画布を目の当たりにすることになるだろう」(註 33)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「ルノワールは今回も、夏の間シャイイで制作を行った。ベルト・モリゾは前年にも行ったブルターニュを再訪した。六月、シスレーは妻と幼い息子を連れてオンフルールに赴いた。当地ではしょっちゅうモネと顔を合わせた。また、ギユメもサン =タドレスにモネを訪ねて来た。あとでシスレーはフォンテーヌブロー近辺でルノワールに合流し、次のサロンに出すための風景画に精を出した。森のなかではルノワールもまた、女性の大きな全身像を描いた。すべて戸外制作で、モネの《緑衣の女(カミーユ)》に比べると線も色彩も柔らかな調子であった。この《日傘をさすリーズ》と、一八六八年に制作することになるシスレーとその妻の肖像とは、クールベの影響の名残が見られはするが、ルノワールが初めて自分の個性を前面に押し出した偉大な作品である。形態を完全に肉づけのみで作り上げており、さらには、色彩を帯びた影の部分同士の相互作用を観察している。批評家ビュルガーはこのことを最初に認めた人物であった。《日傘をさすリーズ》に関してこう書いている。「白い紗のドレスを腰のところで黒いリボンが飾っており、その端は地面まで垂れ下がっている。ドレスはいっぱいに光を受けているのだが、葉叢の反射のためわずかな緑味を帯びている。頭と首とは日傘の陰で繊細な半影に包まれている。効果はかくも自然、かくも真実なので、人がこれを偽物だと思ってしまってもおかしくない。慣習的な色彩で表された自然に慣れきっているからである……。色彩とは周囲を取り巻く環境に依存しているものではないだろうか?」(註 52)。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「モネが田舎に引きこもっている間、パリでの友人たちの生活はさしたる変化もなく続いていた。ルノワールはブーローニュの森でスケートに興ずる人々を描いたが、寒いなか戸外で絵を描くのはやめようと決意するにいたった。相変わらず汲々のギヨーマンは一八六八年に市の仕事を辞し、生活のために日除けに絵を描いていた。ルノワールもかつてやったことのある稼業である。ピサロもしばらくの間、家族を支えるために仲間に加わり、ギヨーマンは広告の仕事をしているピサロの肖像をスケッチした(註 71)。この同じ冬の間、ベルギー人画家ステヴァンスのアトリエでバジールはしばしばマネと顔を合わせ、ファンタンはマネにベルト・モリゾを紹介した(その間にベルトの姉は結婚して絵をやめてしまっていた)。ベルトはマネの才能に深い感銘を受けた。マネの方も、彼女の女性的な魅力と生まれ持っての気品に魅了された。 マネはこの年の夏をブーローニュで過ごし、イギリスに二日間の旅行をした。ロンドンの雰囲気にもイギリスの芸術家たちの歓迎ぶりにも非常に好感を抱いて帰って来た。「彼らは僕たちとちがいばかばかしい嫉妬心など持ってはいないのです。ほとんどみなが紳士です」(註 72)、とゾラに宛てて書いている。そして、ファンタンには「あちらでは何かができる」と確信した旨を告げ、「僕が今すぐ必要なのは金を稼ぐことだ」とつけ加えている(註 73)。社会的にも財政的にも成功したいと願っていたので、マネはテオドール・デュレの仕かけたある策略に乗った。デュレは政治家にしてジャーナリストで、マネとはマドリードで知り合った。反帝政派新聞『ラ・トリビューン』の創設者の一人であり、これにはゾラが寄稿していた。初めはそれほどマネの芸術を気に入ったわけでもなかったのだが、デュレはちょうどこの頃マネに肖像を描いてもらったところだった。デュレの提案を受けて、マネは画布に目立たないやり方で署名をした。なぜなら、モデルは自分のところにやって来るブルジョワたち全員に、この絵を誰か高名なサロン芸術家の手になるものだといって見せるつもりだったからだ。客がこの絵をまんまと褒めたなら、画家の本当の名を明かして「賞賛者」にばつの悪い思いをさせ、マネの才能を認めよと追いつめる算段である。マネはデュレの望み通り(註 74)、絵のなかの暗い箇所に署名をしたのだが、さらに妥協を行って、名前を上下逆さまに書くということまでしたので、なかなか解読できなくなってしまった。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「マネ、ドガ、バジールは教養のある裕福なブルジョワという同じようなタイプを代表したが、仲間の多くは社会的には低い階層の人たちだった。セザンヌは父親──以前は帽子の製造業者だった──からの財産を受け継ぎ、また法律を勉強したにもかかわらず、かなり無作法なマナーを見せたがったし、他の人たちの洗練されたしぐさに挑戦するように、わざと南仏なまりを使いたがった。それはあたかも、作品のなかだけで官制の芸術を軽蔑するだけでは満足できないので、強く反抗するためには自分の全存在で挑戦を表現しなければならないといおうとしているようであった。彼はわざと外見にかまわず、周りにショックを与えることを楽しんでいるかのようだった。例えば、セザンヌが友達とは握手をしたが、マネの前では帽子を取らないでこんな風にいったことを、モネはのちに回想している。「私はあなたとは握手をしないよ、マネさん。一週間も手を洗っていないから」(註 15)。 セザンヌは背が高くて、瘦せていた。「もじゃもじゃの髭面で、節くれ立った関節、頑丈な頭をしていた。ごわごわの口髭のなかに隠れている大変優美な鼻、細くて澄んだ目。……目の奥には深い優しさがある。声は大きかった。……少し前かがみで、ほとんど習慣になっていた神経質な貧乏ゆすりをしていた」(註 16)。彼はあまりカフェ・ゲルボワに行かなかった。一年の半分はふるさとエクスで過ごしていたからであり、また論争や理屈が好きでなかったからでもある。たとえ、周りで起こっていることに興味を持ったとしても、セザンヌは部屋の隅の椅子に座り、静かに聴いていただろう。彼が思い切って話すときは、深く内に秘めた確信から出る熱っぽさで語った。しかし、他の人たちが彼の意見に猛烈に反論したときには、ただ不意に立ち上がり、挨拶もせずに立ち去ることがよくあった。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「モネと同じようにルノワールも、みなで集まってする喧々諤々の議論のなかで声を張り上げるようなタイプではなかった。ルノワールは若い頃、一人で自分を鍛えていた。いく晩も徹夜して本を読み、ルーヴルの巨匠たちを熱心に研究していた。マネやドガには及ばなかったが、生まれながらの活気溢れる知性のおかげで、目の前にあるすべての問題の本質を理解することができた。ルノワールにはたいへんユーモアのセンスがあり、頭の回転がはやく、機知に富んでいて、あまり熱くなったりしなかったので、彼をいい負かすのは難しかった。他人のいうことに耳を傾け、その議論構築に欠点がないことを認めることもできたが、たとえ自分と同じ意見の人がいなくても気にせず、平気で自分の信念に固執していた。コローが風景画のなかで農婦のかわりにニンフをおいたことでゾラが非難したとき、ルノワールには、なぜ彼がそんなことにこだわるのかわからなかった。自分がコローの作品を気に入りさえすればよかったからである。他の画家たちが自立を力説しているときも、絵の描き方を学ぶには美術館が一番いいという自分の信念を揺るがせたりしなかった。」
—『印象派の歴史 上 (角川ソフィア文庫)』ジョン・リウォルド, 三浦 篤, 等著
「 画家たちのなかで最年長のピサロは、マネより二歳年上、ルノワールより一一歳年上で、二児の父親であった。彼は、家族とルーヴシエンヌに住んでいたが、たびたびパリを訪れていた。彼はカフェ・ゲルボワでいつも歓迎されていたようだ。なぜなら、画家や作家たちのなかで誰一人として、この優しく穏やかで、真の善良さと不屈の精神を合わせもった男に深い尊敬の念を抱かない者はいなかったからである。ピサロは他の人たちよりも当時の社会問題を意識しており、ドガのようにときに軽口を叩くでもなく、マネのようにおりにふれ大向こうをうならすこともしなかった。政治問題にたいへん関心を持ち、強い無政府主義的な考えを持つ社会主義者で、確信的な無神論者であるピサロは、画家たちの闘いを近代社会における芸術家全般の地位の問題に関連づけた。ピサロの意見は過激ではあったが、人から憎まれることはなかった。彼のいうことはすべて利己的ではなく、動機が純粋だったので、他人の尊敬を集めたのである。画家たちはピサロが抱えている問題を理解し、また彼が最も過激な問題でさえ、まったくとげがないばかりか笑顔で論じるのに感嘆した。 ユダヤ人を両親に持つピサロは、多くのユダヤ人的な特徴を備えていた。ありあまるほどの黒っぽい髪の毛、気品のあるわし鼻、大きくてちょっと悲しそうな目は、激しくもなり穏や