まさにポケモンが出た時のことを覚えているので、「あのポケモンにそんな裏話が…!」と思えることがたくさんあり、興味深かった。
小学校高学年から中学生くらいから読める伝記まんが
・田尻少年は、小学校のときの担任の先生の影響で、気になったことはとことん調べる性格に
・もともとの探究心もあり、また当時虫も好きだったため虫博士に
(「ポケモンを捕まえる」の発想は、
この虫とりから来ている)
・どうしたら虫を捕まえられるか?を自分なりに調べ、仮説を立て、実践してみる
(例:夜中に出てくる虫を日中捕まえるために、木の下に石を置き、昼に採取することに成功など)
・中学になる頃、虫取りしていた小川は埋め立てられることに
・代わりにゲームにはまる
・持ち前の探究心でどうしたらゲームを攻略できるか考える
・母はやりたいことを否定せず、見守るタイプ
・中学卒業後、高専へ
ゲームの仕事をすることを考える
・新しいゲームの仕組みは新しい動詞が使われていることに気づき、これがコンテスト受賞(「跳ねる」というアイデア)や後のゲーム開発のヒントに
・受賞をきっかけに、学生ながらもセガの外部スタッフに
・ゲーム攻略法を同人誌でシェア→人気に
→読者から仲間ができる
(18歳の時出会った絵の担当の杉森など。のちにポケモンのデザイン担当)
(後に20歳すぎに、ゲーム音楽やプログラミング担当の増田との出会いも)
・1985年のファミコン発売は画期的
(家でもゲーセンのようなゲームができる!)
・おもしろいゲームを求めて、ファミコンを分解し、自分たちでも制作
→何度も試行錯誤を繰り返し、
クインティ(めくる)というゲームが大ヒット!
(20万本売れ、5000万の印税→これを資金に新たなゲームを制作)
・1989年のゲームボーイの登場で、
「通信ケーブルで友達と自分のゲームボーイをつなぐ」
という新機能がつくように
→ケーブルを使って「交換」という機能をつけることを思いつく
→子どもの時の虫取りの経験から、虫を求めて旅をする、虫を採る、育てる、コレクションする、交換できるゲームを思いつく(後のポケモン)
・杉森に絵コンテを頼む
従来の戦闘デザインは
a)敵・味方両方とも真横からのアングル
b)敵だけ正面に現れた
だったが、
ポケモンは
両者が向かい合うデザインになっている
(自分は背中、相手は正面が見える)
→より自分がポケモンを戦わせている感じが出る
・途中プログラマーが辞めるなどトラブルやワークステーションのクラッシュなどもあったが、増田が復旧してくれたり、杉森が正式な社員になったり
さらに任天堂からバックアップのメモリーを増やす提案も
(240匹までセーブでき、151種類全部のポケモンが集められるように)
・杉森がデザインするポケモンは人間の味方だが、怪物というイメージがあり、親しみが不足していた
→田尻は、ヒトカゲ、フシギダネ、ゼニガメを加える。
デザインの幅が広がるように
・世界中の人がポケモンで遊んでもらえるように、ポケモンに個々で名前をつけられるように
(飼い犬に名づけする感覚。
交換しても名前はそのまま)
・通信対戦モードも掲載
・最終の段階で、ゲームで伝えたいことを考え直す
→ポケモンと共存する人間、
プレーヤー自身も成長するシナリオに
・1996年2月の発売 赤と緑
最初から「選べる」ところから
ゲームが始まっていた
・歴史に残るゲームを作りたい
・2017年現在で関連ソフトは世界で3億本以上
ギネス認定
・任天堂 宮本プロデューサー
ゲームクリエイターになりたい子がいたら、
「小さい頃は、天気がいい日は外で遊び、実際に体を動かすことを勧める。飛んだり跳ねたり。恋をするのも大切。
ゲームの勉強はあとでよい」
田尻さんのことは「クインティ」で知った。
ゲームを遊ぶ立場とゲームを大勢の人に楽しんでもらう両方の立場がわかっている人だという印象。