境界性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害などがパーソナリティ障害としてよく耳目に触れますが、本書ではおよそ九つの「パーソナリティ傾向」とそれらが暴走したときの「パーソナリティ障害」を解説しています。
まず、基本として踏まえておく概念から。
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個人は、もともと遺伝素質的基盤にもとづく性格傾向(強迫性、演技性、スキゾイド、サイクロイド)をもって生まれ、幼児期、青年期の生育環境を通過するなかで精神的栄養に浴し、いろいろな社会体験を得て、より社会化された人格を形成するという経過をたどるだろう。これが健康なパーソナリティである。ところが、幼児期から青年期にかけて、さまざまな外傷をはじめとした有害な心理体験をもつと、本来の性格傾向の発達ラインに歪みを生じ、社会的適応性を欠いた人格になってしまうのである。それがパーソナリティ障害であろう。(中略)それだけに、パーソナリティとパーソナリティ障害のあいだの中間領域は意外と幅広いものであることも心得ておかねばならない。(p16-17)
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この本ほどスパッとパーソナリティの類型に分けられるほど、多くの人たちはオーソドックスではないと思うのです。いろいろと考えながら読んだのですが、たとえば、彼には自己愛性パーソナリティと強迫性パーソナリティの傾向のどちらもあるし他にもサイクロイドパーソナリティの傾向や依存性パーソナリティの傾向もみられる、みたいになるからです。まあでも、といいつつ、勉強になりました。さまざまな傾向にはクラスタのように他にも近接した傾向がある、というようにひとつひとつのパーソナリティ傾向を知ることができたからです。こういった傾向があるなら、これもあるよね、ならば根っこのところはこうだねというようにですね。
第三者が回し役となっておこなう家族療法の有効性や、同性同年輩の友達との忌憚ないやりとりができる関係を構築してきたか、あるいは築けていけるかがパーソナリティ障害への防波堤となり、社会的なパーソナリティを作っていくための頑丈な足掛かりとなることが最後の方で述べられていて、なるほどなあと何度も肯きました。
では、ここからは九つのパーソナリティについて覚書的に書いていきます。
◆スキゾイド・パーソナリティ障害
→パーソナリティとしては、孤立に陥りやすいが、孤独をおそれるところがなく、むしろそれを好んでいるかのような印象を与える。世俗的なつきあいは好まない。一致団結して立ち向かうのは苦手。それなりに社会的感覚をみにつけてはいるが、型にはまるようなことは苦手。他律性に弱く、社会に出たときなど、心理的に乗っ取られた感覚・状況が不利払えなくなったりする。そういったときに、スキゾイド・パーソナリティ障害となりやすい。
◆サイクロイド・パーソナリティ障害
→サイクロイドとは循環気質の意。つまり、はじめは躁うつ病の病前性質と位置付けられたようです。パーソナリティの特徴としては、社交的であること。善良で親切で温厚、明朗でユーモアがあり活発で激しやすい、そして寡黙で陰鬱で気弱という面がある。パーソナリティ障害へと進む人は、幼少期にじゅうぶんな依存を体験できていなかったことが推定されるそう。人によっては、その点に絞って依存の体験をさせると驚くほど安定するとあります。
また、暴力や過食、アルコール依存がでたとき、患者は強い無力感を感じている場合があります。「情けをかけあう関係がなくなると無力になる」「対人関係でズレが生じると無力になる」などと述べるそう。この障害では、激しい怒りの突出が問題となり、暴力沙汰になることもあるけれども、成熟度の高い人格であれば、それを抑えようとパニック発作(動悸、胸の圧迫感、などといった症状)さらには強迫症状を呈することもある。境界性、自己愛性の場合は、自己愛的な要求の意がふくまれていることが多いが、サイクロイドの人は、対象とのつながりを失った無力感が根本にあったりするので、混乱が極みに達している場合、早々に入院させ、社会的責務から解放してやり、病棟スタッフや他の患者との人間的交流(つながり)を回復させると意外と短期間で安定し、元気になる。さらに、心おきなく話し合える身近な人たちとの会食、旅行などもまた優しい薬となる。
◆妄想性パーソナリティ障害
→疑惑、猜疑、不信といった心理が表面にでやすいパーソナリティ。一過性にしろ、まったくの妄想状態に陥って社会生活が破綻するほどになれば、それは妄想性パーソナリティ障害と言わざるを得なくなる。ただ、人格そのものに破綻をきたしてしまう統合失調症や妄想性障害とは違い、ストレスが高まって並外れた妄想的思考に陥ってしまった人のことを言うとあります。他人が自分を利用する、自分に危害を加える、あるいは騙そうとしているのではないかという疑いをもつ場面が生じるところにはじまるそうです。エスカレートすると、攻撃的な態度になります。彼らは支配、被支配の関係の関係に過敏で、反応しやすいことがあげられる。また、
<こうした防衛体制がもたらす第一の特徴は、自分の未知の世界を知ることに途轍もない恐怖感があることである。そのため、彼らは、内面の細かな心を分析していく作業に耐えられないという事情がある。心の中の動きを細やかに聴いていく治療者の態度は患者に不安をかき立てる。(p85-86)>
といった特徴があります。
◆反社会性パーソナリティ障害
→物事を判断する能力はあるが、人間が社会生活を送るうえで決して犯してはならない決まりごと(道徳観、法律)を破ることに抵抗を感じない人たち。反社会性パーソナリティ障害の特徴は、他者へ危害を加える暴力行為、自分の快楽や利益のために人をだます、ウソをつく、利用するなどの行為、他者の財産や権利を平然と侵害する窃盗や恐喝などの行為となります。さらに、社会的な責任を無視し、衝動的で後先考えず、親として子どもに衣食住を準備し教育を施すといった態度の欠如、一夫一婦制を維持するための我慢のなさ、安定した仕事をつづけることの難しさがあげられる。背景には、良心の呵責や思いやりの欠落がある。口が達者で、、相手の弱点を巧みに突くことに長けているタイプは、相手を利用して不遇な立場に陥れることがしばしばであるが、申し訳なさ、自責の念といった感情体験をした様子はない。そして、圧倒的に男性が多い障害だそうです。
◆境界性パーソナリティ障害
→些細なことですぐ死にたくなる。その結果、過食、手首自傷、過量服薬、性的放逸、浪費などの自己破壊的行動が表面化する。対人関係が非常に不安定で、母親にべったりと依存していたかと思うと、ちょっとした行き違いで一瞬にして関係が険悪になったりする。怒りや恐怖、罪意識、無力感などが混然一体となり「見捨てられた感」を持っているというのもあります。勉強や仕事は長続きしない。過去と現在の距離が近いなどが特徴としてあげられます。そして、最近は減ってきた症例だそうです。
また以下のような箇所が、境界性に限らず、こういった傾向を持つ人っているよなあと思って読んでいました。
<患者の幼児的な言動(衝動行為)にどう対応するかが主要な目標であった。そこで、まず推奨されたのが「限界設定」という技法である。手首自傷をはじめとするさまざまな衝動行為、あるいは一般常識を守らない「境界侵犯」(時間外の電話や受診など)に対して、それを止めるように説得する、それができなければ制限を加える、さらに事態が深刻になれば入院させるなどがそうであった。(p115)>
◆自己愛性パーソナリティ障害
→反社会性パーソナリティ障害と同様に、つけ入り、支配する傾向がある。誇大的自己、賞賛されたい欲求、他者に対する共感性の欠如が基本的特性となっている。自分は特別な存在だと思っていて、自分自身に並々ならぬ関心がある。しかしながら、以下の引用のような弱さを持っている。
<ともあれ、治療を開始するとき、患者が、同一性の感覚や自己評価を保つ能力に必要な母親の肯定、賞賛、承認を得た経験がないために、自らの内面的な弱さに向き合うことに非常な恐怖心を抱いていることを心に留めておきたい。治療者のやり方に対して辛辣な批判を加え、落胆して投げやりになる態度を隠そうとしなかったり、逆に大所高所からの説教じみた批判をしたりする。それだけに、治療者もまた、気力をくじかれ、怒り心頭に発することがしばしばである。対応する人間にとって、こうした感情と闘うのは生易しいことではない。(p134)>
妄想性パーソナリティと似て、自分自身と向かい合うのができないタイプのようです。そして治療者は異口同音に「忍耐」を口するほど、難しい治療ケースになっていくそうです。
周囲の賛同や賞賛が得られないでいると、激しく怒り、苦しむのだそうで、さらに憤りを越えて自殺念慮をともなう抑うつに陥ることもあるそうです。
表面的に尊大で、内面は弱々しい。このようなパーソナリティに至ったのは、自己愛的欲求の高まる時期に母親がそれを支えて自己愛の満足体験をもたせることをせずに、子どもをけなし、そしり、腐し、ときには面罵さえする母子関係があるとされている。外の尊大な自己と内の弱々しい自己の奥に、本物の自己がいて、それが出てくると安定してくるそうです。このパーソナリティは「恥の心理」がキーポイントで、すなわち自尊心の傷つきをいかに癒していくかの問題になるそうです。罪悪感を基本とする強迫性パーソナリティとは対照的だと著者は述べている。
自己愛性パーソナリティの人は、賞賛を求めるのに、同情や尊敬の念を持つことのない自己中心性の持ち主。いざこざをおこしやすいが、社会感覚は身に付けているので適応的ではあるそうです。
<彼らには、肯定、賞賛、承認の体験が欠落しているため、羞恥心が非常に強く、ごく当たり前の要求や依頼さえできないでいることが多い。言い換えれば、上手に甘えられないのである。
上手に甘えられるようになると、自己愛者も、他者を見下さずに済むようになる。平凡でもよいのだと知るようになる。恥を感じることなく他者と本当の気持ちを通わせ合うことができるようになると言ってもよい。このような関係が形成されるようになったら、しめたものである。(p135)>
◆回避性パーソナリティ障害
→自信の無さと劣等感、そしてそれにともなうひきこもりが特徴です。しかし、そうでありながらも、他者とのつながりを希求するそうです。日本人の気質に特有のものとして森田正馬が森田神経質という気質を提唱したそうで、それがこの回避性パーソナリティの章で紹介されていました。森田神経質は、対人関係で傷つくことを恐れ、依存性を秘めながらも自立的であろうとする。その一方で、強迫的で完全主義的なところがあり、自分の為したことに不全感を持っていて、確認をくり返しこだわりをもっている。相手が自分をどう思っているのか、と非常に過敏で配慮がちで遠慮がちな態度をとりやすい。恥の心理と絡んだ人格のありようだけれども、自己愛性パーソナリティとは違い、おごり高ぶった態度とはまったく違う態度に徹している。
この章では個人的に、以下のような知見が得られました。
「不安や葛藤があるからこそ、第三者の目を失わないで済む。それは世間体、周囲の評価を気にする心理」とあって、なるほどと膝を打ったのですた。不安や葛藤がないと、善の暴走になります。それは、人間は自分にとっての善しか行わないということを前提とするならば、ですが。不安は、猜疑心や強迫行動などなどさまざまな心理面でのトラブルの種だと思ってきましたし、良い効果なんてまるで考えてきませんでした。それが世間体を作っている、なんてすごい考察です。何ごとも過度にならず、バランスを保ちつつだ、と改めて思うのでした。
◆強迫性パーソナリティ障害
→几帳面。何ごともきちんとしていなければ安心できない。分類、リスト、統計表、計画表などを作成することに快感を覚え、それを実行することに満足する。ただ、そういった特性ゆえに、状況の変化、突発的な予定の変更に弱いところがある。切り替えがきかず、ときには不安、混乱をきたす。自由な発想を求められる創造的な仕事には不向き。また完全主義で、個々の仕事に重要性の濃淡をつけられず、すべてに注意を均等に払わねばならないため、末節にこだわって作業がなかなか前に進まない、前置きが長すぎて単刀直入に本論に入れない。また、倹約家で円単位にけちけちするが、ときに大盤振る舞いをするなどほんとうの意味では倹約になっていない。節約は時間にも及んで、娯楽や家族とのゆったりとした時間は無駄に映りやすい。人間的触れ合いを避ける傾向もある。そしてアンビバレンスの心性が顕著で、相反する考えや感情を同時に抱え込んでいるので、好き嫌い、受容と拒否が心の中に併存している。そのため、はっきりとした態度が取れなくなる。話が前に進まず、みんなを巻き込んだ混乱を招いていることも見られる。最後に、頑固さをあげる。道徳、倫理、社会の価値観にひどく従順であるが、それが度を越して不寛容なので、そこから外れた人間を許さない。同様に、周囲に合わせることも不得意で、自分の思いに沿った仕事をやってくれないと部下と一緒に働けない。他人に任せることができず、支配的という印象を与える。
以上は病的とまではいかないことに注意が必要だと著者は述べます。問題は、これらが行き過ぎて社会生活に支障をきたすほどになったときなのでした。たとえば、激しい怒りを噴出させ、家庭を混乱させることに至れば、それは問題となります。
治療にあたっては、激しい怒りの突出とは対照的に、通常時は感情をひどく抑えているので、感情面や情緒面に関心を向けるように誘うことが大切になるそう。また、煙幕を張るがごとく、とりとめのない話を延々として、なかなか本論にはいれない場面があるので、そういったときには話の焦点をしぼってあげるとよい、とあります。末節にこだわって本論にはいりにくいことを実感させてあげる、つまり自覚させてあげることがポイントなのでした。
そうしながら、患者がふたつの相反する心の中で苦しんでいることに気付ける援助をしていく。そうすると、患者はしだいに、自分が周囲に振り回されているばかりだということがわかってきて、そうなるといかに自分を見失ってきたかがわかりだします。そうやって、心が外に向かっていき、捕らわれた世界から、新しい世界が拓けてくる、とあります。
◆演技性パーソナリティ障害
→かつては女性のみのパーソナリティ障害と考えられてきましたが、現代では男性にもあるとされています。
感情表現が大げさで、わずかのことで大騒ぎするが、いかにも芝居じみているというのが特徴。派手で露出過多な格好をし、他の目を引くような分不相応な贅沢をし、話は空想的で、ウソ交じりの話をする。時に、空想的虚言症と呼ばれる状態にまで発展する。社会の流行の影響を受け、体調も気分も他からの暗示で良くなったり悪くなったりする。男女関係では、いかにも色っぽく、魅惑的な印象を与える。また要求がましく依存してくるところがある。つまり、他の注目を惹こうとする意識・無意識的な意図が、演技性の人の基本的心理だと言われているそうです。そして、そこには自らの空虚さがあるとされている。
以上です。
本書から学んだことのひとつに、「処世術の意味」というものがありました。会社にどうしてもいきたくないときに仮病をつかったり、それが1週間にも及んだようなときにはお願いして診断書を作ってもらうなどが著者の言うところの「処世術」。
そういった行為を「悪」だと断じるように考えるために、処世術を行わない、あるいは心理的抵抗があって行えないというのはあると思います。いわゆる真面目な人がそうでしょう。ですが、「悪」というよりも「処世術」なのであって、生きていくために使っていく方法なのだから、肯定するべきなのだ、というように本書では書かれています。生きていくことはサバイバルなのですから、ときにそういった方法が必要になる。
それは多様な人々が暮らすこの社会が、誰にとっても平等で完全であることが不可能であるのですし、そもそも人間という生き物は、不合理な衝動や欲求が内面に生じてくる存在ですし、感情というままならないものに動かされて生きている存在です。だからいわゆる真面目人間的態度ではパーソナリティに無理がたたり、場合によっては障害にもつながるのだと言えるのではないでしょうか。
ただ、これについて、自己愛性パーソナリティ障害の人は別です。このパーソナリティの傾向を持つ人たちは、自分中心に過ぎるため、処世術の範囲以上に悪を為しやすいみたいです。そんな自己愛性パーソナリティ障害の人を家族に持つと、他の家族がメンタルに失調をきたしやすい、という傾向もあるようです。
こういったことは、憲法で守られている「内心の自由」の大切さに通じるんですよね。宗教だと、そういったことも「告解しないと浄化されません」だとか、また、ちょっとズレがあるかもだけど「煩悩を持っちゃいかん!」になる。んなこたぁないし、逆にいびつな人格になっちゃう。ときに道徳に反しても自分で自分を守るために行う、処世術は大切だと思います。
というところですが、上記の話の続きとして、以下の引用で終わりにします。
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(略)自分で決断できないし、それだけに会社に自分の意思を伝えられないのである。
いずれも自己愛的で他罰的であるが、要は、ソーシャルスキル、コミュニケーション能力の低さに由来している。それだけに、本人のプライドに気をつけ、ゆっくりと時間をかけながらも、治療場面で患者の示すソーシャルスキル、コミュニケーション能力の低さにはすかさず、その振る舞いに注目して支援していくことが求められる。「そういうときは先輩に相談するものだ」などの助言をする、一週間の無断欠勤をして何のフォローもせずに困っているときは、「ウソでもよいから体調不良の診断書を出すものだ」といって診断書を書いてやるなど、日常生活での些細なひっかかりを話題にできるように心掛け、他愛のない言葉をかけられるようにしておくのもパーソナリティ障害治療の一環である。(p208)
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