「九五箇条の提題」
「キリスト教界の改善について」
「教会のバビロン捕囚について」
「キリスト者の自由について」
の邦訳が掲載。
「教会のバビロン捕囚について」のみ、飛ばした。
西洋思想を追いかけていくにあたって、ルネサンス期が何か、を少しでも知るには、ルターは通らなければならない、と思って読んだの
...続きを読むだけども(あと、本屋に並んだタイミングがまさに僕の読むべきタイミングだったのだ)、全部読むにはかなりの量があるのと、読みたい本はまだまだあるけども人生は限られているので、省略した。
とはいえ、得るものは多く。こういう本は解説をサラッと読んでおいて悪くはない。
「九五箇条の、、、」については、意外と教皇を否定してないところに驚いた。これは遠慮なのか?そこの意図を知るには、もっと色々なルターを読み込まねばならないのだろう。
でも、そこはいい。
「キリスト教界の改善について」では、ローマに搾取される神聖ローマ帝国たるドイツの目線で、書かれている。これも驚いた。そういう目線をもつか。もっと、特定の視点になってしまわない思想なのかと思っていた。これも、この書物の目的に応じて解釈すべきものなのかもしれない。とにかくローマ・カトリックの腐敗の凄まじさが描かれる。
「キリスト者の自由について」では、うってかわって、キリスト者はいかにあるべきか、という話である。驚いたのは、他力本願に、親鸞に通ずるようなところを感じるところ。聖書には、戒めと契約がある。戒めにより、人は戒め通りには生きれない、という自覚に至る。そこで、救いの契約がある。という。だから、人は行いではなく、信仰によってよいとされる。という。信仰は、自分を義とするもの。行いは、他者に仕えるためのもの、と、僕は理解した。これはなかなかシンプルだがその分強固な真実であり、素晴らしい。行いでは自らを義にすることはできない、というのが素晴らしい。そんな行いはできない、もしくは、有り得ない、と。
カトリックが、ローマ主義者がめちゃくちゃにしたキリスト教を、聖書によってReformationしよう、というシンプルさ。
そんなことは聖書には書いてない。そんなことはキリストは言ってない。
密教に対する鎌倉仏教のような。