ゴッホに関して知っていると思っていたこと。例えば、アブサンの飲み過ぎで精神的におかしくなっただとか。ゴーギャンとの関係は愛憎悲喜交々であったとか。そのような話が如何に後から脚色された虚飾であるかを、膨大な資料を文字通り掘り起こし系統建て積み上げた事実に基づいて質す。その執念のような仕事ぶり。美術史家
...続きを読むでもなく伝記作家でもないイギリス人の著者が、ゴッホが切り取ったとされるものが耳たぶのみなのかそれとも耳の大部分なのかを解き明かそうと試みる。徐々に明らかとなるゴッホの人生の一部についても当然興味深いが、著者の積み上げる断片的な資料が徐々に形を成し百年以上昔のフランスの片田舎を活き活きと蘇らせる様そのものがとても興味深い。推理小説から感じる興奮とよく似た感情の高ぶりを覚える。
夥しく挿し込まれる注釈の殆どは一次資料への参照であり、一般的な読者には無機質な文字の羅列のようにしか思えない。しかしそのことが正に著者バーナデット・マーフィーの積み上げたものの確かさを支えている証拠でもある。特にアルルの市井の人々の実在を教会や病院の記録から立ち上げ、署名を一つ一つ突き合わせて真贋を見極め、コッホに係わった人々のその性格のようなものまで詳らかにしようとする徹底ぶりには唖然とさえする。そして、ゴッホが耳を届けたとされる女性に関する事実の解明に関する下りにはよく出来た法廷ものの小説を読むような興奮すら覚える。ラシェルなのかギャビーなのか、何故その混乱が起きたのか、その女性は本当に娼婦だったのか。もちろん最後の最後まで何故ゴッホが耳を彼女に渡したのかという問いに対する確実な答えには辿り着くことは出来ないのだが、手渡した耳とされるものが何であったのかを含め諸々の伝聞を事実に落とし込み解明する。何度も言うがその徹底ぶりには脱帽する。
ゴッホ〜最後の手紙、世界で一番ゴッホを描いた男。何だか最近ゴッホに引き寄せられているようだ。