作品紹介・あらすじ
生きていて、かつ死んでいること。
姿を現す前に、立ち去っていること。
二つの状態をあわせもつ猫とは、
言葉の別名だ。
ある夜、庭の暗闇からふいに現れた一匹の猫。
壁を抜けて出現と消失を繰り返す猫は、
パラレル・ワールドを自在に行き来しているのか。
愛娘を失った痛みに対峙しつつ、量子力学と文学との
接点を紡ぐ傑作。
*****
作品紹介を読むとSFっぽい印象を受けるけれど、SFではないし、いわゆる起承転結のある物語でもない(実際には起承転結はあるのだけれど)。小説と読んでいいのかどうか躊躇するけれど、こういう小説もありだよ、と言われれば「そうだな」と頷ける。だから小説なのだろうけれども、哲学書のようでもあり、詩的でもある。それら全体をオブラートのように量子力学で包み込んだような作品。
最初の20~30頁を読んだところで「ああ、自分には難解すぎる」と思った。ちっとも面白くないし、なんだか訳の分からない衒学的な戯言を呟かれているようで、本当に居心地が悪かった。
ところが、なんとか我慢して読み進めているうちに、どんどんこのユニークな世界に惹かれていき、気が付いてみるとまるで中毒患者のようにこの世界にどっぷりと浸かっていた。
僕は以前、量子力学にちょっと興味を持って何冊か関連本を読んでいたので、量子力学のことはある程度知っていた。「量子力学って何?」と訊かれても、簡単な説明はなんとかできる。でも最終的には「結局量子力学とは全く理解できない世界」ということに落ち着く。
この「シュレーディンガーの猫を追って」は特に量子力学のことを知らなくても、面白いと感じる方もいると思う。でも量子力学の基本的なことを知っていたほうが何倍も面白く感じられ、そして胸がしめつけられるような感情を抱くことができる。知らないのと知っているのとでは、面白さの感じ方に差が出ると思う。
シュレーディンガーの猫とは、物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが提案した思考実験のことで、量子力学の「重ね合わせ状態」という概念をマクロの世界に拡張したもの。
「重ね合わせ状態」とは、ミクロの世界、つまり粒子が複数の状態を同時に持っているように振舞う現象のことで、観測者によって観測されるまで、その粒子がどの状態にあるかは確定されず、すべての可能性が重ね合わせとして存在し、観測によって一つの状態に収束する、という概念のこと。例えば電子のスピンが「上向き」と「下向き」の両方の状態にあり、観測者が観測した時点で「上向き」になることもあれば、「下向き」になることもある、という状態。この「上向き/下向き」という状態が同時に存在するように振舞うという概念を極端に拡張すれば「存在する/存在しない」「生きている/死んでいる」という状態が同時に存在することになる。この「重ね合わせの状態」はミクロの世界で実験的に立証されており、量子コンピュータなどにも応用されている。ちなみに「観測されるまで確定されない」という概念は「コペンハーゲン解釈」といわれている。
シュレーディンガーは、この「重ね合わせ状態」という概念がマクロの世界にまで適用されると、いかに奇妙な結果になるかを示すために「シュレーディンガーの猫」という思考実験を提案した。
実験の方法は以下の通り。
密閉された箱の中に、以下の装置を入れる。
• 放射性物質(例:ラジウム)
• 放射線検出器(ガイガーカウンター)
• ハンマーと青酸ガス入りの瓶
• 猫
仕組みは、放射性物質が崩壊すると、検出器が反応し、ハンマーが瓶を割って青酸ガスが箱のなかに放出される。そして猫は死ぬ。
ただし、放射性物質が崩壊しなければ猫は生きている。
この時、「重ね合わせの状態」を適用するならば、「放射性物質が崩壊した状態」と「崩壊していない状態」が同時に発生していることになり、観測者が箱を開けるまで「猫が生きている状態」と「猫が死んでいる状態」の両方が同時に存在することになる。
シュレーディンガーは、「量子力学の重ね合わせ状態をマクロな世界にそのまま適用すると、いかに奇妙で直感に反する結果になるか」を示すためにこの思考実験を提案した。これは、当時主流だったコペンハーゲン解釈に対する批判的な問いかけでもあり、「観測されるまで状態が確定しない」という考え方が、猫の生死のような明確な事象にまで及ぶことの不合理さを浮き彫りにするためのものであった。
長々と量子力学の概説を述べてきたけれど、乱暴にまとめてしまえば「存在する/存在しない」「生きている/死んでいる」といった複数の可能性が、観測されるまで同時に重ね合わせとして存在している、というのが量子力学の基本的な考え方(コペンハーゲン解釈)になる。
この前提を念頭に置いて本書を読むと、物語の曖昧さや詩的な飛躍が、単なる幻想ではなく、量子世界のリアリティとして立ち上がってくる。面白さも、胸に迫る感情も、何倍にも増すように思う。
これらの量子力学の概念を踏まえた上で僕が最も胸を打たれたのは、著者が小説を書こうとした動機と量子力学、特にコペンハーゲン解釈がマッチしていると思われる場面。彼、フィリップ・フォレストが小説を書こうとした主な動機は、4歳で亡くなった娘との喪失体験を言語化し、向き合うためだった。フォレストは愛娘を小児がんで亡くしている。そのことは本書にも何回か登場する。そして本書の中には、そんな愛娘の遺品が収納されている多くの段ボール箱が登場する。本書の主人公(フィリップ本人だと思われる)はその箱を開けることができない。中を見るのが辛い、ということもあるのだろうけれど、コペンハーゲン解釈にこじつければ、箱を開けるまでは愛娘は「生きている」状態と「死んでいる」状態が「重ね合わせの状態」として存在している。開けてしまえば、つまり観測してしまえばどちらかに決定してしまう。これはミクロの考え方。ところがシュレーディンガーが疑問を呈し、「シュレーディンガーの猫」の思考実験で提案した概念によれば、マクロの世界ではこの「コペンハーゲン解釈」は不合理な概念になる。つまり愛娘は既に死んでいる、という事実に突き当たる。箱を開ける作業というのはその事実にきちんと向き合うことに相違ない。だから主人公は箱を開けること(ミクロで言えば生死を決定する、マクロで言えば死を事実として認める)ができないでいる。僕はそう解釈した。そしてそう解釈することは、とても深いところまで心情を揺さぶる悲しみに満ちることになった。
いずれにしても、本書はとても実験的で(量子力学と文学の融合)、ユニークで感情を大きく揺さぶられる作品だった。難解と思われる方もいるかもしれないし(量子力学そのものが難解)、的を射ていないフワフワした中途半端な印象を持たれる方もいるかもしれない。かなり好き嫌いがはっきりする作品のように思えるが、それだけ独自性の強い作品だと思う。今のところ、今年(2025年)読んだ本の中で最も印象に残った一冊。