恋愛なんて面倒くさい
けれど、それでも、
少しだけ、眩しく見える__
青春とは、人生のある期間を云うのではなく、
心の様相を云うのである
サミュエル・ウルマン
誰もが心に抱く純粋な憧れと
卑しい妬みや後ろ暗い気持ちと
そういった想い全てに寄り添って
希望を思い出せる物語
※
以下、ネタバレを含みます。
散文につき時間の許す方のみ
お付き合いください。
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虚栄心、性欲、恥、建前、
出世の名誉、
同世代の既知のメンツで差をつけたい、
理由はさまざまなれど、若者に限らず、老若男女時代を問わず、生きていくために必要不可欠な、この私たちの、心と体は、いつだって簡単に思うようにはいかぬもの。
それでも、それを面倒だからと、嫌うのではなく、純粋に、真剣に向き合う人を、尊く思う。
自分にとってまるで共感できないことでも、理解はできる。
『さとり世代』と言われて久しい、この令和の時代に、まさしく新しい、と思わせて一周回って懐かしい家族模様を見せてくれたので、すごくグッと来ました。
ひとつだけ作中の場面を引用させて頂きますと、「意中の異性ではなくても、家族だと思える特別な人」という表現はすごくしっくり馴染みました。アセクシャルのように、恋愛感情を持っても、性欲を持たないことに悩む人たちがいるように、性欲はあっても恋愛感情を持てないセックスフレンドは数多あることでしょう。
そして、それと同時に、男女の友情はあり得ないとされる一つの説が、私の納得をより深めてくれます。「うわべだけ付き合う異性の友だちはいても、心から慕う男女の親友はあり得ない。何故なら、親友とは、尊敬する人だから。恥も魅力も、本音も建前も知り尽くした人だから。そして、そうやって本気で尊敬できる異性に、恋せずにいられる?性欲を感じずにいられる?少なくともわたしには無理だと思うのよ」
逆に言えば、たとえセックスフレンドから始まった関係でも、本音も建前も、今更隠すものがないほど互いに見せ合える関係ならば、メンツなどまるで必要ないのですから、格好つける必要もなく、ただただ本心から互いの幸せを求め、尊び、居心地よく過ごせるというのは、、、それはもう、『家族』じゃないかと、私は思うのです。
恋人ならば幻滅を恐れて格好つけることもありましょう。けれど家族には、あまりにも未熟な自分を知られすぎています。今更格好などつかないのですから、せめて、恥を笑ってもらって、互いに少しずつ漸進する。ゆっくりゆっくり進んでいく。そうやって穏やかに幸せに過ごす。やはり、家族だと思うのです。
もともと、恋愛結婚は、日本にはそこまで馴染むものではなかったでしょう。家柄ゆえの結婚に不幸ももちろんあったと思います。けれど、少なくとも、明治までの日本の様子を描いた物語をたくさん見てきた私としましては、むしろ、身体を求める関係になることは、恣意的に決められてしまったとしても、そこからその人との時間を、居場所を、守りたい、大切にしたいという想いを、育てていく様子は、、、なんともしっくり馴染むのです。
セックスフレンドから始まった2人の恋路が、家族として認められ、そのことに温かな気持ちと、誰に傲るでもない誇らしさを持っている様子が、これまた私にとってはたまらなく心躍るものでした。
発売から随分経ってようやく一巻を読みましたところ、どうやら二巻もすでに発売済みとのこと。読むのが楽しみです!