ラビ・マービン・トケイヤー (著)
1936年9月4日、ニューヨーク生まれ。1958年、同市イェシバ大学卒。1962年、ラビ(ユダヤ教の牧師)の資格を取得。1967年、東京広尾に日本ユダヤ教団設立。初代ラビに就任し、1976年まで活躍
,加瀬英明 (翻訳)
1936年、東京生まれ。慶應義塾大学、エール大学、コロンビア大学に学ぶ。「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長。外交評論家として内外に豊富な人脈を築き、77年より福田・中曽根内閣で首相特別顧問として対米交渉に貢献。日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任
ユダヤ系の本凄い好きで過去に積読しまくって読まずに忘れてたんだけど、やっぱりユダヤ系の本面白いしこれも面白かった。極端な話、仮に日本が崩壊してユダヤ人みたいに世界中へ散らばる事態になっても、皇室さえ存続していれば、いつかどこかで天皇家を中心に国家を取り戻すこともありえる所がユダヤ教にシンパシー感じるのかな。
今日、世界にユダヤ人は二〇〇〇万人もいない。たった一四〇〇万人ちょっとである。このうちおよそ八〇〇万人が、ユダヤ人の古くて新しい祖国であるイスラエルに住み、残りが世界中に散らばっている。
一四〇〇万人といえば、世界の大都市の人口とあまり変わらないし、もし一つの国をつくっていたとしても、世界の国を人口順に並べてみれば、中ほどの目立たない場所に入るだろう。それなのに、ユダヤ人は世界の自然科学、社会科学、政治、芸術、音楽、文学、ビジネス、ジャーナリズムといったあらゆる分野に、きら、星のように成功者がひしめいている。どういうわけか、ユダヤ人はスポーツだけは苦手であるが、他の分野なら、第一位から第三位ぐらいの間には入っているだろう。
キリスト、マルクス、アインシュタイン、フロイト、ベルクソン、ロバート・オッペンハイマー、ハイフェッツ、トロツキー、ディズレーリ、キッシンジャー、ドラッカー……。 著名なユダヤ系ビジネスマンでは、ロスチャイルド、ピューリッツアー、ロイター、アーネスト・オッペンハイマー(デ・ビアス社)、マーカス・サミュエル(シェル石油)、アンドレ・シトロエン、カミッロ・オリベッティ……。 アメリカで活躍中のユダヤ人としては、マイケル・デル、ジョージ・ソロス、スティーブン・スピルバーグ、マーク・ザッカーバーグ、ラリー・ペイジ……。
ユダヤ人がいなかったとしたら、おそらく今日の世界の社会科学や科学技術は、これほど進歩していなかったはずである。ナチス・ドイツの科学技術水準だって、きわめて低いものになっていただろう。そして、成功したユダヤ人は、しばしばドイツ人とか、フランス人とか、アメリカ人として知られている場合が多い。
というのは、ユダヤ人は成功者を生む確率がもっとも高い民族なのである。私はユダヤ系アメリカ人なので、すぐに野球を例にひくが、世界の諸民族を野球チームにたとえれば、ユダヤ人はもっとも打率の高い民族なのである。人類の最優秀チームだといっても良いだろう。イスラエルは建国以来七〇年にもならない移民の国なのに、石と砂の砂漠の土地に緑の農業を興し、工業化を進めて、大きく発展した。
このように人間は環境によってつくられる。ユダヤ人はユダヤの環境の作品である。しかし、文化とか、伝統、環境といったものは、ソフトウェアであって、何千年もかかって開発されるものである。そこでユダヤ人の文化や伝統は、仕事の面でも、私生活の面でも、もっとも成功率が高い人間を生むソフトウェアであるといえよう。
ユダヤ教は、『旧約聖書』に基づいている。そしてユダヤ人にとって『旧約聖書』は、毎朝、インクがまだ乾かないうちに届けられてくる新聞ほどに新鮮なものなのである。
イスラエルには、多くの敬虔なユダヤ教徒がいる。ユダヤ人は宗教によって毎日『聖書』を勉強することを義務づけられているし、アメリカにもこのような敬虔なユダヤ人は多い。もっとも、私自身について言えば、もはや戒律を守ってはいない。しかし、ユダヤ人は戒律を守らないからといって、ユダヤ人の伝統を失ったわけではない。幼いころから学ぶことは、ユダヤ人の民族的な伝統なのである。学ぶこと、教育こそは、ユダヤ人にとって何よりも重要なのである。ユダヤ教がユダヤ人をつくるので、ユダヤ人は学ばないとユダヤ人になれないのだ。
「正しいことを行っている者は、一人で歩むことを怖れない。しかし、悪いことをしている者は、一人で歩むことを怖れるからです」
一生の間、人間が使えるもっとも貴重なものは、金銭ではない。時間である。というのは、『タルムード』は、人間は無限に金銭や富を手に入れることができるが、一生の時間は限られている、と教えているからである。
『タルムード』は、「限られているものは何か?」と尋ねている。それは、人の生命であり、時間である。金銭よりは、時間のほうが大切なのだ。それなのに、人びとは金銭を使うときには慎重であっても、時間を浪費することについては、さして気にとめない。
そして、人間は他人のお金を預って使うことになれば、緊張して、細かい神経を配る。他人に金銭的な負担をかけることには、神経をとがらすものである。そのくせ、約束の時間に遅れたり、また、つまらない用件や長居で他人の時間を潰したり、浪費することには、あまりかまわないものだ。 これは、人びとが時間よりもお金を大切にしていることを示している。 時間も、お金も、両方とも重要なものである。しかし、二つのなかでは、時間のほうが大切であることを忘れてはならない。
悪人は、人の前ではじめは美しい世界を描きだす。それは、見渡すかぎり白銀の雪に覆われた光景に似ている。 しかし、現実という太陽が照ると、雪は溶け、一面、泥沼の醜い世界が広がるようになる。悪人が美しい世界をあなたの前につくりだしても、騙されてはならない。明日、目を覚ますと、泥沼の世界になっているかもしれないから。
これは、一つのことに優れているからといって、ほかのことに優れているとはいえないという意味である。 たとえば『タルムード』を究めた、もっとも賢いといわれるラビでも、鍵をしまい忘れることがある。そして世界中の富をほとんど一人で握っているような大商人でも、学問のことになるとまったく駄目な場合もある。 このように人間にはみな限度がある。一つのことを究めたからといって、ほかのこともできるとは限らない。一つの専門に優れているからといって、その専門外の意見を聞いた場合には、まったくの 素人 とであることが多い。 そこで、自分が一つのことに 長けているとしても、自信を持ちすぎてはならないという戒めなのである。
そこで、何々〝らしさ〟とか、まともさといったものは徳目として強調されるが、実際には自己保全のための処世術なのである。といっても、個性は、服装や髪型といった 末梢的な、つまらない、表面的なものにあらわして満足するべきものではない。かえって、個性がない人ほど、そのような安易な方法で個性的であるように装いたがるものだ。奇異な服装や、外見のために人びとから警戒されたり、差別されることに対して神経を使うよりも、もっと大切なことに自分の個性を向け、活かすべきである。
民主主義は、世界で最初にユダヤ人がつくったものである。 ユダヤ人は一般にインフォーマルな服装を好む。イスラエルでは、上着にネクタイを締めている者は、政府高官でも少ない。
カリフラワーは、いろいろなところにある。そして、人は自らを閉じこめてしまうことによって、自由を失ってしまうのだ。 ユダヤ人は世界に散り、全世界を放浪したために、一つの世界のとりこになることが少ない。とはいっても、この格言があるのだから、やはりユダヤの世界にも、カリフラワーがたくさん存在してきたのだ。
若者のなかに理想主義者が多く、老人の間に保守主義者が多いのは、経験の量に比例しているのだ。 ユダヤ人が『タルムード』やユダヤの古典を、かびが生えた古書のようには扱わずに、まるで昨日書かれた書物のような新鮮さをもって読むのは、長い歴史の経験から生みだされた教訓を大切にするからである。
ユダヤ人は知的には素直ではない。ユダヤ人はつねに好奇心に燃えているので、物事をあらゆる角度から見ようとする。〝ヘブライ〟の意味は、〝もう一方に立つ〟ということで ある。 ユダヤ人は、よく質問する。 そこで、こういうジョークがあるほどだ。 「ユダヤ人は、どうしてそんなによく質問するのだ?」 「どうして、よく質問してはいけないのだ?」 事実、ユダヤ人に質問すると、質問で返ってくる場合が多い。 忍耐強く、たくさん質問しなければ、成功しないのだ。
それに、もともとユダヤ人はキリスト教徒のように、金銭を蔑視したり、罪深いものであるとは、考えなかった。金銭は、使いかたによって、良くも、悪くもなる。お金自体には、責任はない。むしろ、〈金銭は、機会を提供する〉ものだと考えているのである。
ユダヤ人は、金銭を良いものだとは言わないし、悪いものだとも言わない。お金があったほうが、人生でいろいろなことができる機会が増えるというのである。
人間が権力を持っている者、また、高い地位についている者を敬うときには、その人間をほめているのではなく、その者が持っている権力や、ついている地位に対して敬意を払っている。
キリスト教が説くお金やセックスヘの蔑視のために、十分な資産をつくらなかったり、人生における楽しみを逃した者がどれだけいるのだろうか? それも、人間が自分に自信を持たないからである。
物を崇拝してはならない。お金を崇拝する者が 滑稽 に見えるのは、物を崇拝しているからである。人間は自分が崇拝しているものにできるだけ近づきたいと思い、同時に同化してしまう。だから、物を崇拝する者は、自分も物になってしまう。 人間はお金のために存在しているのではない。ちょうど洋服が人間のために存在するようなものである。逆になれば、人間はハンガーになってしまう。
誰でも、その人なりに、どうすればお金を稼げるかは知っている。しかし、お金の使いかたを知っている者は、何人いるだろうか? 人間はお金の主人であるべきだ、といっても、お金には不思議な魔力がある。たとえば、この世の中でほとんどのものは、使うことによって、値打ちがわかる。それなのに、お金だけは自分でつくってみなければ、値打ちがわからない。
ユダヤのことわざにも、似たような発想がある。〈銀貨は丸い。こちらに転がってくるかと思うと、あっちに転がってゆく〉
ユダヤ人は、悲しい目をしている。しかし、底抜けに明るい。悲しさを知っているからこそ、明るさがどれほど貴重なものかがわかり、夜を知っているから、太陽の恵みを楽しむことができるのだ。
ブドウの房は、 〝重ければ重いほど〟、下に下がる。 これは、人間は謙虚であるほど腰が低くなるということを意味している。
『タルムード』は、〈世界でもっとも不幸な人間は、自分を意識することが過剰な人間である〉といっている。 自分の失敗をいつも他人が笑っていると思う者は、自分が世界の中心にあり、他人が一日に二四時間自分を注視していると勘違いしているのである。 そこで、このようなことで自信を失っている者は、鼻もちならないほど自信が過剰であるのと変わりがない。いってみれば、自己中心で、 傲慢 なのである。思いあがりからくるかん違いなのだ。
私は読者のみなさんに、ぜひ『聖書』を読まれることをすすめたい。もし、全部読むことができなければ、初めのほうだけでもよい。数多くの教訓が得られるだろう。
人びとは 石 鹼 で体を洗い、涙で心を洗う。もう一つ、美しいことわざがある。〈天国の一隅には、祈れなかったが、泣けた人のために場所がとってある〉 喜怒哀楽。泣けない人間は、楽しむことができない。夜がなければ、明るい昼はない。 泣くのを恥ずかしがる者は、喜ぶときも、ほんとうに喜んではいない。つくって、装っているのだ。
ユダヤ人は昔から〝本の民族〟とか、〝学問の民族〟と呼ばれてきた。人間にたとえれば、ユダヤ人にとって学問は血のようなものであった。いったい、血液が流れていない人間がいるものだろうか? それと同じように、学問のないユダヤ人などは考えられないのである。
おそらく学ぶことを宗教的な義務にした民族は、世界にほかにはなかっただろう。
ユダヤ人は、教育といえば、学校という公共の教育施設よりも、家庭を思い浮かべる。家庭における教育を重視するのだ。というのは、子どもたちは学校では知識を学ぶが、家庭において知恵を教えられるからである。そして、子どもたちの生活の中心は家庭にある。
愚か者にとって、老年は〝冬〟である。 賢者にとって、老年は〝黄金期〟である。
〈ユダヤ人が二人集まると、三人分の意見が出る〉ということわざがある。ユダヤ人に質問をすると質問で返ってくるといわれるほど、ユダヤ人は好奇心が強い。とにかく、ユダヤ人ほどよくしゃべる民族はないだろう。
ユダヤ人は、激しい恋愛をしない。このことはユダヤ人の結婚観に基づいている。 ユダヤ教では、『聖書』の 世記のなかで、神が人間に〝生めよ、ふえよ、地に満ちよ〟と命じてから、結婚はすべてのユダヤ人にとって聖なる義務となっている。ヘブライ語で結婚は〝ギドゥシン〟というが、〝聖なるもの〟という言葉と同じである。
ユダヤ人は功利的な民族だといわれる。ユダヤの知恵は、長い経験に基づいている。 ユダヤ人は、子どもが成長して結婚すると、親は同じ家には住まないことがルールになっている。親は新婚夫婦が新居を構えられるように、援助する。同じ屋根はいただかないのだ。
これは、人間は、いっしょにいる者に影響されるということだ。 もっとも、年老いた夫が若返らず、妻がいつまでも子どものように若々しかったら、この結婚はうまくいくまい。
知識を豊富に持っている者は、人びとに大切にされる。というのは、便利だからである。しかし、彼は知識のために大切にされているのであり、人間として愛されているのではない。 これに対し、美しい心を持った者は、人間として愛される。はじめは知性のある者が、心のある者より大切にされているようでも、結局は美しい心の持ち主のほうが勝つことになる。
★ 一人の古い友だちのほうが、一〇人の新しい友だちよりも良い。
ある意味では、長い歴史を眺めれば、ユダヤ人は優れた者が生き残るという法則にしたがって 淘汰 され、ユダヤ人のなかでも知的に優れた者だけが生き残ったといえる。 そしてユダヤ人は苦難に耐え抜くだけの自信(ユダヤ教が絶対に正しいという) と、力を持ってきた。ユダヤ人が自分たちの文化に揺るぎない自信を持つところに、底力がある。
ユダヤ人は、他の諸民族から〝本の民族〟という別名をつけられている。そして間違い なく歴史を通して、世界でもっとも教育が高い民族である。アメリカの統計を使えば、今日、ユダヤ人はアメリカの人口の二パーセント程度にしかあたらないのに、精神分析医、弁護士、数学者のそれぞれ一〇パーセント前後が、ユダヤ人である。アメリカの大学では、最上位成績の者がファイ・ベータ・カッパ(ジョン・F・ケネディがこの会員だった) の会員となるが、この三分の一以上がユダヤ人なのだ。
ユダヤ教のラビは、学者、地域社会の指導者、相談相手を兼ねているが、妻帯しており、ふつうの人間生活を送っている。カトリックの僧侶や尼僧のように、生涯、異性を知ってはならないといった行者は、ユダヤ人から見れば非人間的なことである。人間をつくって性を与えた神に背くことになるのだ。ユダヤ人は誰であれ、独身でいることを神に背くと考えてきた。
ユダヤ人はキリスト教徒のように、性を不潔なものとして蔑視しない。神が人間に性の快楽を与えた以上、悪いものであるはずがないのだ。異性を見て、心のなかで色情を催したら肉体が 姦淫 したのと同じである、というのはユダヤ人にはまったく縁のないことである。反対に、ユダヤ教は夫婦であっても、快楽をともなわない性交渉を持つことを禁じている。
ユダヤ人の金銭に対する態度も、まったく同じである。キリスト教徒は金銭を性と同じように罪深く、不潔であり、千歩譲っても必要悪であるとしか考えてこなかった。しかしユダヤ人は、このようなタブーに縛られてはいない。ここでもお金は性と同じように使いかたによって、良くも悪くもなるものだとみなした。ユダヤ人は、「金銭は機会を提供する」ものだと、古代から言ってきたのである。ユダヤ人の世界では貧乏は不名誉ではないが、キリスト教徒のように清いとかいって鼻にかけて自慢できることではない。
それに、ユダヤ人が笑いが好きだということは、ユダヤ人が楽観主義者であることを示している。マーク・シャガールの絵は、ユダヤ人街に住むユダヤ人の人生観を典型的に表現している。空を漂う恋人たちや、家畜、甘い夢、花束といったものは、ユダヤ人街の世界だ。もっとも、ユダヤ人は住んでいる土地の影響を受けたから、シャガールの絵の世界は、同時にスラブ人の農民のロマンチシズムを多分にあらわしている。ユダヤ人は夢多く、楽観的なのだ。
ヨーロッパで、キリスト教徒が金銭を蔑視していたときに、為替や、銀行制度をつくったのはユダヤ人であったことを思い起こしてほしい。ユダヤ人はキリスト教会が金利を罪悪だとみなしていたときに、金利は当然のことだと思っていた。もっとも、今日、あらゆる銀行が、金銭に汚い人びとによって経営されているというのなら、これも一つの識見である。