児玉隆也の作品一覧
「児玉隆也」の「一銭五厘たちの横丁」「ガン病棟の九十九日」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「児玉隆也」の「一銭五厘たちの横丁」「ガン病棟の九十九日」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
小説・文芸
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Posted by ブクログ
1975年刊。これぞルポルタージュ。エッセイではないが、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
書名の「一銭五厘」は、戦時中のはがきの料金、転じて召集令状のこと。1943年、東京下谷、その地区では、篤志の写真家たちが、戦地にいる出征兵士を慰める(or安心させる)ために家族の写真を撮影して送った。その家族の記念写真のネガがそっくり残っていた。
家族は99家族。写っているのがどういう家族で、写真を送られた兵士はどうなったのか、30年の時を経て、それを尋ねてまわる。しかし、ことは容易には運ばなかった。ある一角は、東京大空襲ですべて焼けてしまった。写真の人たちは氏名不詳、その一角は存在しなかったかのよう、まるで「神隠し」。しかし、やがて、芋づる式にいろんなことがわかり始める。99枚の家族写真をめぐるタイムトラベル。なんとも言いようのない感動が残る。
取材は73年秋から74年秋にかけて行われた。出版は75年2月。児玉隆也はその3カ月後に肺がんで逝去。享年38。上記の賞は死後の受賞。
(p.s. 田中角栄のロッキード事件発覚へとつながった児玉の「淋しき越山会の女王」は「文藝春秋」74年11月号掲載。なんと、本書の仕事と並行していたのだ。)
Posted by ブクログ
昭和18年、横丁からラッパと日の丸小旗で送られ出征した兵士(召集令状のハガキに張られた切手にちなみ本書では「一銭五厘」と呼ばれる)たちの留守家族を写した写真を手に、30年後の昭和48年、著者が横丁に分け入り氏名不詳となった人々の足跡をたどるルポ。屈託なく笑う少年、恥ずかし気に微笑むお嬢さん、どういう顔をすればよいのか戸惑うような初老の親たち…一張羅で、普段着で、横丁の玄関口や小学校でアマチュアカメラマン氏の写真に納まる人々の今日では想像も及ばぬほどの波乱万丈な人生の一端が著者の足でコツコツと明らかにされるさまに、読んでいて心がわしづかみにされてしまう。
「人生とは茫洋としたもの」と振り返る元将校、「あたしは運がよかった」と息子の生還やその後の激動を振り返り胸をなでおろす老女、元特攻の飛行士は死を覚悟した瞬間に神に近づいたと独語し、祈願参りにも関わらず息子が戦死した母親は「信心はありません」という怒りと諦めを口にする。それぞれの体験から戦争を語る言葉からは「悲惨」や「苦難」という熟語に抽象化される前の血と肉を感じるし、これこそが鶴見俊輔があとがきで述べるところだろうと思う。
撮影から30年後の原著、鶴見による初回文庫化時点のあとがき、今回の文庫化に際しての著者の子息による解説と、ちょうど25~30年ごとに文章が折り重なる構成となっていて、体験が歴史になっていく過程がはからずも跡付けられているのだが、平成令和になってからもテレビ番組の取材で不詳とされた人物が特定されたと聞くと、歴史の中に忘却されることにあらがう一枚の写真の執念のようなものを感じてしまう。
現代の企画であれば往時と今の写真を並べて風貌に刻まれた時の変遷を明らかにする編集となりそうだが、戦後30年の時点ではまだそうした距離感で戦争に対峙できる空気ではなかったのかもしれない。戦後80年、節目の復刊を喜ぶ。
Posted by ブクログ
本書は、雑誌に掲載された、筆者・児玉隆也のルポルタージュ9編を収載したもので、初版発行は、1975年。
9編の中には、ノンフィクションの名作として知られる「悲しき越山会の女王」が含まれているが、私が興味を持って読んだのは、「チッソだけが、なぜ」というルポルタージュである。それは、私が最近、「水俣病闘争史」や、水俣で活動した米国人写真家のユージン・スミスについての本を読んだからだ。このルポルタージュは、「文芸春秋」の1973年10月号に掲載されたのが初出だ。1973年といえば、熊本地裁が、水俣病に対してチッソの責任を認めた画期的な判決が下された年である。
「チッソだけが、なぜ」という題名の意味は、2つほどありそうである。
■当時、有機水銀を廃水として流し、周辺住民に重篤な健康被害を出したのは、チッソだけではない。例えば、新潟では昭和電工が「新潟水俣病」と呼ばれる同じ症状を起こす公害病引き起こしている。ただ、その公害は、チッソの水俣病ほどには騒がれず、企業も叩かれなかった、それはなぜか。
■チッソは、戦前の企業グループである日本窒素グループの本家企業である。日本窒素は、野口遵という希代の起業家が起こした新興企業群の一つであり、特に、現在の北朝鮮に壮大な規模で一大工場群を建設している。戦後、北朝鮮の日本窒素の工場群は北朝鮮のものとなり、日本窒素グループのメンバーは、水俣で事業を継続する。戦後、日本窒素グループは、いくつかの企業グループに分裂する。それは、旭化成グループであり、積水グループである。次のなぜは、旭化成も積水も、大きな企業グループに発展したのに、なぜ、チッソだけが(公害問題もあろうが)、衰退していったのか。
それを、筆者は、チッソ水俣という企業が持つ「愛情のなさ」によるものだとしている。「愛情のなさ」が水俣病で苦しんでいる患者に対しての冷淡で非人間的な仕打ちにつながり、それが、他の公害病以上に、患者の「怨」を買った。
戦前の北朝鮮の日本窒素グループは新興企業としては異例の発展であったが、北朝鮮に工業を・産業を興すことは、当時の大日本帝国の国策でもあった。創業者の野口遵は東京大学出身の優れた技術者であり、技術者を大事にする人物でもあったようであり、日本窒素グループには、東京大学出身の技術者が数多く入社することとなった。そして、北朝鮮では、現地の朝鮮人労働者を日本人とは差別しながら働かせるという企業運営の仕方をしていたとしている。筆者は、戦後、その北朝鮮で働いていたエリートたちが、復員して水俣にやってきて、北朝鮮と同じ企業運営の仕方をした、と分析している。差別の対象になったのは、水俣の農家・漁師出身の工場労働者である。また、後の旭化成が延岡に工場を建設したり、あるいは、後の積水が事業を始める時等は、チッソは、最優秀の人材はチッソ内に温存し、二番手以下の人材を送り出したとされている。
こういったことにより、「(チッソは)外部の社会感情よりも内部の組織感情にこりかたまるという会社になった。他人のことは知らんぞ、という愛情のない会社になった」というセリフを筆者は文中に引用することにより、「愛情のなさ」の意味を説明している。国家と一体になったエリート技術者が、エリートでない者たちの感情を分からずに、自分たちの内部の組織の事情、居心地の良さのみを求めてできた組織がチッソだった、と言っているのだと理解した。
なるほど、と思った。
私が最近読んだ、「水俣病闘争史」やユージン・スミス関連の書籍は、患者サイドからの見方に基づいて執筆されている。患者が、如何にチッソや国と闘ったかという視点である。確かに、チッソという会社は、有機水銀が水俣病の原因であろうと分かっていたであろうにも関わらず、それを認めようとせずに、姑息なやり方で、チッソという会社の利益を優先した。それはどうしてだろうか、という、チッソ側の事情を追求したのが、この「チッソだけが、なぜ」というルポルタージュであった。興味深く読めたし、ある意味で、厚みのある読書が出来た気がする。