本書に含まれる「逆説としての明治十年戦争」についてだけコメントする。
渡辺京二の深い思考と、熱い情熱とを感じさせる読み応えのある論文。
そして、見事な文章。
今時、こうした文章を書ける人はいない。
タイトルにある「逆説」がキー•ワードだ。
「明治十年戦争」とは、西南の役のことだ。
歴史学では、それを、士族たちが自らの特権を守るために起こした「反動的反乱」と断定して怪しまない。
そこには、「逆説」も何もない。
明治十年戦争の「逆説」とは、「反動的反乱」という装いを纏いながらも、維新の「第二革命」であった、という認識を言う。
どう言うことかは、本論をじっくりと読む必要がある。
この見事な、示唆と哀切に富んだ論文を評する言葉を持たない。
ただ、備忘録として、論点だけを書いておこう。
本論文は四つの章から成り立っている。
そこには小見出しは付けられていないが、整理のために敢えて小見出しを付けると、次のようになるだろう。
1.「進歩vs.反動」史観(現代史家)の貧困
2.革命の本義は沸騰する制御不能の運動
北一輝の革命論/ミシュレのフランス革
命論
3.革命はどんな装いも纏う
北一輝の革命「被布」論
4.西郷の持つ人格は滅び去った文明の範型
反功利主義vs.功利主義
現代歴史学は、実証を標榜しながら、その実、「進歩vs.反動」「革命vs.反革命」という単純な二項図式をドグマとして持っている(信仰)に過ぎない)。
二項図式の問題は、複雑な歴史の動きをAか非Aかという割り切りしかしないことにある。
そこでは、歴史はその複雑さも「逆説」も「歴史法則」という貧困さの中に取りこぼされる。
だから、著者はその土俵に乗らない。
「革命か反革命か」などという不毛な議論に背を向けるのだ。
歴史の複雑さを見失わないためには「逆説」を「逆説」として発見することが必要とされる。
一般には西南の役と呼ばれる明治十年戦争の解釈こそ、「逆説」を歴史に読み取る試金石となる。
それを北一輝の議論から照らし出していく。
北一輝は23歳にして、維新革命を「裏切られた革命」、明治十年戦争を「敗北した第二革命」と捉えた。
彼にとって維新革命の目指したものは、全人口の9割を占める農奴同然の百姓の解放だった。それと共に建設されるべき国家は「倫理国家」だった。
その考えは明治政府の目指した天皇制的家族国家と真っ向対立した。
本来の維新革命が目指して達成できなかったものを、もう一度維新革命をやり直すことで達成しなければならない、それが北の基本的考え方だ。
北の革命理解は、フランス革命を論じたミシュレの考えに準じている。
革命とは、その根本的な動力においては、人間の幻想的欲求に基礎を置く「原革命」だ、という認識だ。
つまり「無計画な爆発」こそが革命の本質だというのだ。
革命の本質が噴出したのが、日露戦争における農民兵士の英雄的活躍だった、と北は論ずる。
その延長に、後年の彼の武力による革命という構想が立ち現れてくることになる。
革命は、制御のきかない民衆の幻想的欲求の噴出だ。
明治十年戦争が、「反動的反乱」と見えるのは、幻想的欲求が、そうした反動的装いをエネルギーにしたからに他ならない。
だから、北は、明治十年戦争を「反動的反乱」とも「第二革命」とも評するのだ。
彼がみているのは、表層的レッテルではない。マグマのように噴出する運動そのものだ。
北が明治十年戦争を革命として擁護するのは、明治政府の専制に対する反抗であることに加えて、西郷の人格が寄与していたと考えられる。
だが、西郷の人格を論ずるのは難しい。
何故なら、我々現代人とは隔絶した倫理を持った古い世代の最後の一人だからだ。
我々の思考を形作っているのは、近代化によって身についた「功利主義」だ。
それは一言で言えば、結果良ければ、プロセスはなんでも良い、と考えることだ。
西郷や江戸時代の人々は、そんな考えを嫌悪した。
著者は『逝きし世の面影』で滅び去った江戸文明を哀惜した。
それは滅び去ったのだから蘇ることはない。西郷はその滅び去った文明の最後の一人だったのだ。
だとすると、明治十年戦争は、功利主義に覆われようとする日本を守ろうとした戦いであったということができる。
それを著者は「夢想家の反功利主義的反乱」と呼ぶ。