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中村雄二郎
1925年東京に生まれる。1950年東京大学文学部卒業。哲学者・明治大学名誉教授
1 アイデンティティ──存在証明/自同律/相補的アイデンティティ
2 遊び──真面目/演劇/祝祭
3 アナロギア──アイデンティティ拡散/性自認/免疫
4 暗黙知──パタン認識/棲み込み/共通感覚
5 異常──正常/理性・狂気/根源的自然
6 エロス──タナトス/セックス/ジェンダー
7 エントロピー──永久機関/ネゲントロピー/開放定常系
8 仮面──霊力/神話的形象/素顔
9 記号──フェティシズム/シンボル/隠喩・換喩
10 狂気──譲渡/疎外/監禁
11 共同主観──相互主観性/間身体性/共同幻想
12 劇場国家──ヌガラ/模範的な中心/中空構造
13 交換──交通/象徴交換/過剰
14 構造論──イメージ的全体性/弁証法/言述の論理
15 コスモロジー──ブラック・ホール/存在の大いなる連鎖/現実との生命的接触
16 子供──深層的人間/小さい大人/異文化
17 コモン・センス──常識/共通感覚/共感覚
18 差異──同一性/反復/差別
19 女性原理──阿闍世コンプレックス/母権制/グレート・マザー
20 身体──歴史的身体/社会的身体/精神としての身体
21 神話──箱庭療法/原初の時との接触/ブリコラージュ
22 スケープ・ゴート──王殺し/中心と周縁/ヴァルネラビリティ
23 制度──第二の自然/見えない制度/リゾーム
24 聖なるもの──宇宙樹/聖・俗・穢/自然
25 ダブル・バインド──小さな哲学者/象徴的相互行為/禅の公案
26 通過儀礼──死と再生/永遠の少年/リミナリティ
27 道化──はじまりの不在/ヘルメス/反対の一致
28 都市──メディオ・コスモス/深層都市/脱形而上学
29 トポス──土地の精霊/決まり文句/場所の論理
30 パトス──パトロギー/イデオロギー/情動・情念・感情
31 パフォーマンス──コンピテンス/パトス的行動/演劇的知
32 パラダイム──理論負荷性/共約不可能性/学問母型
33 プラクシス──クオリティ/パフォーマンス/動的な感覚
34 分裂病──うつ病/アンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥム/反エディプス
35 弁証法──問答法/論証法/絶対弁証法
36 暴力──供犠/法体系/呪われた部分
37 病い──健康幻想/特定病因説/痛みの抹殺
38 臨床の知──科学の知/パトスの知/生きられる経験
39 レトリック──パイデイアー/政治的動物/レトリックの知
40 ロゴス中心主義──反哲学/脱構築(ディコンストラクション)/天皇制
このアイデンティティということばを特別な意味をこめた術語として最初に使った──あるいはむしろ拡めた──のはE・H・エリクソンである。彼はそのときこれを、まさに 人格的同一性 と 歴史的連続性 の両方の意味を表わすために使っている。彼は述べている。《〈アイデンティティの危機〉という用語を私がはじめに用いたのは、もしも私の記憶が正しければ、第二次大戦中、「ユダヤ系退役軍人復帰診療所」での特殊な臨床的目的のためであった。(……)当時われわれの診断では、患者の大部分は〈弾丸衝撃〉症でもなければ仮病でもなくて、戦争という切迫した危険な状況のために、人格的同一性と歴史的連続性との感覚を失っていたと思われた。》(『アイデンティティ──青年と危機』一九六八年)
日本人が日本の社会に住んでいて、あまり身分証明書のたぐいが要らないのは、どうしてだろうか。思うにそれは、日本の社会が身分や身元をなにかの証明書によって──それだけによって──証明しないでも、いろいろな社会関係の網の目がそれをおのずと示してくれる共同性のつよい社会だからであろう。それだけにパスポートをもって国外を旅行したり外地に滞在したりするとき、《自分が自分であること》の証明が──少なくとも形式的に、また正式には── 国家 によってしかなされないことに奇異な感じを受ける。そして、見ず知らずの人間しかいない諸外国で《自分が自分であること》をパスポートなしに証明するのがどんなに難しいか、思い知らされる。《自分が自分であること》は自分がいちばんよく知っているにしても、他人に対してはそれを自分では証明できない。そういうパラドックスがある。
アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。》この考え方によって、アイデンティティの問題は 役割 の問題にも結びつくのである。
アウグスティヌスは、現実の世界、人間の世界での自同律の貫徹に疑いを抱き、自同律の《AはAである》を神にのみふさわしい在り様とした。彼によれば《被造物では、単に あった とか あろう とかのみがいえ、決して ある とはいえない。》なぜなら、それが存在する以前にはそれはあらず、それが存在するときにはそれは去り行くからである。自同律は ある(存在)の世界での、思惟と存在の基本原理であった。そのことを思えば、このアウグスティヌスによる ある の否定のもつ意味は甚だ大きい。 ある の原理の否定によって、現実の世界、その人間や事物が存在の根拠と自己同一性を失うことになるからである。
存在根拠の喪失は、現に ある私 を、 私でなく ならせる。 私 は 私であった し、 私であるだろう ことはできる。けれども、 私である ことはできなくなってしまう。このような状況に立ち到ったとき、現実によりよく合致した考え方としてどのような考え方が生み出されたであろうか。それは、《私は私である》や《AはAである》にもとづく自同律の考え方とは反対に、《私は私でない》や《AはAでない》ということから出発し、それをとおして 関係 のうちに、 ある と 同一性 とを回復する考え方である。
《およそ語られうるものは、明らかに語られうるものである。そして論じえぬことについては沈黙しなくてはならない。》 また、 《哲学は、語られうるものを明らかに叙述することによって、語られえぬものを意味することがあるであろう。》
〈プラトニック・ラヴ〉ということばがある。ふつうそれは、もっぱら精神的な恋愛、清浄な恋という意味に解され、またそういう意味で使われている。ところがH・ケルゼン(『プラトニック・ラヴ』一九三三年) が明らかにしたように、それは──少なくとも元来は──なんと、〈同性愛〉、〈男同士の性愛〉、とくに〈少年愛〉のことであった。そして、ケルゼンは、《このプラトンのエロスは、かつて哲学への衝迫についての譬え話に過ぎないと解されていた。人々がこのカマトト的解釈の誤りをはっきり指摘する勇気をもつに至ったのは、ごく最近のことである》と言っている。このことばが書かれたのは、いまから五十年もまえのことであるけれど、それでもこの話は私たちを驚かし、〈エロス〉の問題の見えにくさを痛感させる。
ところで、右にエロスとの対比で捉えられた〈性〉、英語ではセクシャリティを、〈セックス〉と〈ジェンダー〉とに分ける考え方が最近では強まってきている。そのちがいを簡単に述べておけば、セックスとは出生前に分化する 生物学的な 性であり、性器の解剖学的な構造、生殖の仕組み、性行為など、身体的な部分やそれにかかわる行動を指す。それに対してジェンダーのほうは、出生後に分化する 心理・社会的な 性のことである。つまり、セックスが先天的なものであるのに対して、ジェンダーは後天的に、身近な家族をとおして加えられる社会的要因によってつくり上げられる。だから、たとえば、変性者(トランス・セクシャル)とは先天的なセックスと後天的なジェンダーとの不一致に悩む人であり、性転換手術とはセックスを変えてジェンダーを確立させることになるのである。
もしこのような考え方が正しいとすれば、変性者、異性装者、同性愛者などは、まったくの出来そこないになるだろうが、果たしてそうなのか。必ずしもそうとはいえない。マネー/タッカーによれば、現在の性科学では、もう少しちがった捉え方がされている。すなわち、二本の道があるのではなくて、実はわれわれの一人一人がやがて男性かあるいは女性のどちらかの方向に分かれて進む、いくつかの分岐点をもった一本の道があるだけである。つまり、分岐点がいくつもあって、ほとんどの人はそれぞれの分岐点でためらわずに同じ性の方向に進む。しかし、なかには道にそれる人たちもいるのである。
そこでいま、仮面の働きをふりかえってみると、そこには四つほどの重要な霊力がみとめられる。まず第一には、それは私たち人間を日常の空間からふたたび有機的宇宙のなかに位置づける。一般に生ま身の人間や生物学的な人間というのは、どうしてもシンボル性が弱かったり、欠けたりしているから、コスモスのうちにはっきりした位置をもちえない。それに対して仮面は、人間の深層の現実をアクセントのつよいかたちでシンボル化し、神話的形象として示すのである。このことはとくに南アジアのヒンドゥ文化圏の仮面について顕著である。そこでは、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』という古代叙事詩に関する話を祭りの舞踊で演ずるのに使われることが多いためであろう。神話的形象の在り様はきわめて直截である。神々、英雄、王女、魔神、魔女、悪鬼、怪獣などが原色も鮮やかに立ち現われる。それらにくらべると日本の能面やコンメディア・デラルテの仮面では、神話的形象の在り様が地味になり見えにくくなっているが、根本的には同じである(たとえば、コンメディア・デラルテのアルレッキーノの仮面の右の額にある直径一センチほどの赤い丸は、 角 の名残りである)。
このような〈劇場国家〉のあり方は、誰しも容易に気づくように、祭祀性が国家の中枢部分でいまなお大きな意味をもっている〈天皇制〉の問題と大きくふれ合っている。〈天皇制〉が中心の不在あるいは 空 の中空的な権力構造をもっていることとの関連はとくに重要であろう。かつて或るシンポジウムにおいて三島由紀夫(『日本は国家か』一九六九年) は、統治機構としての国家ないし政治をとことんまでつきつめていけば、抽象的技術的な体系になるはずであり、それはほとんど道義性というものを脱却してしまうだろうと言い、祭祀の機能としての政治のほうにこそ 道義性 があると述べて、日本が国家として 道義性 を回復するためには天皇制本来の祭祀性を重んじなければならないと説いた。
どの文明でも、はじめは身のまわりの もの や こと をすべて擬人化した。人間の感情の動きをその振舞いに投入して解釈し、みずからの行動を律した。しかし、人類は次第にそれらの説明を体系的な物語に発展させ、神話という一つの形而上学をつくってきた。その意味では、各々の文明がもつ神話こそ宇宙論のはじまりであった。このように何かを体系化しようとするときに必要となる枠組みが宇宙論であったともいえる。そして『ビッグバンの発見』で扱おうとする宇宙論は、現代の自然科学という枠組みを通して捉えられた宇宙像であって、あくまで一つの宇宙論である、と佐藤氏は言っている。
とくに興味深いのはフロイトの場合である。彼は 女性原理 の支配する無意識的世界の発見者でありながら、そのような対象領域がそれを扱う思考方法──つまりは〈知〉──の転換を要求することに気づいていなかったのである。フロイトは、ヒルダ・ドゥーリトルが治療してくれる彼のうちに女性的なるものを感じると言ったとき、色をなして抗弁したという話はよく知られている。事実、彼には、男性こそが人類の理想の形態であり、それを示すのは男根の存在であるとの考えがつよかった。 このようなわけで、フロイトでは 女性原理 の支配する 無意識界 の発見がなされながら、〈女性原理〉そのものの積極的な評価も、またその立ち入った解明も、彼およびフロイト学派のなかではほとんど見られなかった。ただし、その例外的な存在としては、乳児と母親との怖るべき関係に着目したメラニー・クラインと、フロイト的な父親殺しならぬ 母親殺し のテーマによる論文「 阿闍世 コンプレックス」を引っさげてフロイトの門をたたいた日本の 古 沢 平作がいる。古沢の弟子、小此木啓吾氏(『日本人の阿闍世コンプレックス』一九八二年) が新しく照明をあてているように、阿闍世とは母 韋提希 を殺そうとしたインドの王子の名であり、〈阿闍世コンプレックス〉とは、自分の生命の根源たる母親の愛欲への子の怨みにもとづく根源的葛藤のことである。この古沢の提出した問題はフロイトの受けいれるところとはならなかったけれど、女性原理や母性原理を考える上での先駆的な着眼として注目に値する。
第二次大戦後(さらには明治維新後)このかた、私たち日本人はほとんどいつでも、外部に追いつくべき目標や見倣うべきモデルを求めてきた。ところが近年に至って事情がかなり変わってきた。一所懸命、外国を目標やモデルにして追いつくための努力をしてきたところ、そういうものとしてこれまで熱いまなざしのそそがれてきた外的な諸権威がさまざまなかたちで次々に失墜するようになった。そのことは国家目標のような問題だけでなく、思想や文化の次元の問題にまで及んでいる。つまり、世界的にこれまで権威をもって人々を惹きつけてきた既成のイデオロギーをはじめ諸理論、諸価値が、問いなおされるようになった。
各民族や各文化はそれぞれに昔から伝わり受け継ぐ〈神話〉をもっているだけではなく、その時代その時代に新しい〈神話〉を形づくっていく。そのように新しく形づくられる神話は、昔から伝わる神話のように必ずしもずうっと後世まで伝えられるわけではないが、神話というものがどのようにして形成されるか、私たち現代人の生活ととくにどういうところで結びついているかを知るにはいい手掛りになる。
一、神話は超自然的存在の振舞いの話というかたちをとる。二、この話は、実在にかかわるから絶対に 真実 であり、超自然的存在の荷なった業であるから 神聖 であると見なされている。三、神話はいつでも 創造 にかかわっており、それがいかにつくられたか、存在しはじめたかを物語る。(神話があらゆる重要な人間的行動の模範とされるのは、そのためである。)四、神話を知ることによって人は物事の起源を知るが、これはただ概念的な知識ではなく、儀礼をとおして 体験される 知識である。五、さらに神話において、人は想起されたり再演されたりする出来事の聖なる、高揚させる力によって捉えられるので、神話を 生きる ことになるのである。
これらの五つの点についてひとことコメントをつけておけば、一、神話が超自然的存在の振舞いの話になるのは、すべてが宇宙論的に説明し尽くされなければならないからであり、二、その話が真実かつ神聖であるのは、意味と価値の源泉にほかならないからである。また神話が、三、いつでも 創造 にかかわり、四、起源の知識が儀礼をとおして 体験 された知識であるのは、すぐれて象徴論的だからである。最後に、五、神話が 生きられる のは、ミュトス(神話のことば)とはロゴスとちがって、語ることが演ずることであり、演ずることが 生きる ことであるようなことばだからである。
〈スケープ・ゴート〉つまり 贖罪の山羊 あるいはむしろ広く 生贄えらび の問題は、子供たちの間の いじめられっ子 から、マスコミが好んで袋叩きにする魅力的な 悪役、本来の、また比喩的な意味でのさまざまな 魔女狩り、ナチズムによるユダヤ人迫害、等々、人間生活のいろいろな局面に見られる。ところがこれを正当に論じにくい。残酷な、いまわしいこととして直視したくないからだろうか。むろんそれもあるだろうが、それだけではなくて、私たちが不用意に加害者の側に立ってサディスティックなよろこびを味わうことが多いからであろう。
症候群としては、〈永遠の少年〉とは、母親離れができず、大人になりたがらない少年、思いつきや感受性の点ではすぐれているが、ねばりづよい実行力を欠いた少年のことである。河合隼雄氏(講座『精神の科学』第六巻『ライフ・サイクル』、「概説」一九八三年) によれば、たとえば〈ある大学生〉──彼は知能は高いのだが、どうもその能力を出しきれていない。友人がいろいろ誘いをかけるが、屁理屈をいうだけでやろうとしない。ところがあるとき突然、なにかの運動に賛成して行動しはじめる。言うことも鋭いし行動力もあるが、論理が一面的だし、もろいところがある。そのうち熱がさめたり、失敗したりすると、たちまちもとの無為の状態に逆もどりしてしまう。そうかと思うと、また新しいアイディアや運動に熱中する。こんなことの繰りかえしが行なわれるだけである。このような〈永遠の少年〉願望は、すべての人の心の深層にひそんでおり、働き次第によっては人々に創造性をもたらすけれど、自己のうちに十分統合されずに独走するとき、症候群となるのである。
他方、ヤクザっぽい〈暴走族〉の跳梁は、現在、成人式がまったく形骸化したなかで──裏返しのかたちながら──加入儀礼が本来もつべき、日常性からの隔離と特権的な秘儀への参加を、期せずして体現することになっている。 深夜 の街中を ものすごい爆音 を立てて 疾走 するとは、まさに現代の秘教的儀式といえるのではなかろうか。また、このような非日常的な集団行動は、あたかもV・ターナーのいう〈コミュニタス〉の概念にそっくりそのままあてはまる。
というのも、ターナーのいうコミュニタス(communitas)とは、制度化された日常のコミュニティから自由、かつそれに対立する、非日常的で感性的な共同体のことであり、さらにその典型的なものとして、通過儀礼、〈千年王国〉運動、僧院、カウンター・カルチャーなどが考えられているからである(『象徴と社会』一九七四年)。それだけではない。この…
近年、〈都市〉あるいは〈都市〉論が広く人々の関心を惹くようになった。かつては 都市 というと 農村 と相対立するもの、農村が共同体的、停滞的であるのに対して都市は自由で活動的なものとして考えられることが多かった。現在でも都市についてその面がまったく無視されているわけではないけれど、それが考えられる場合も、新しい観点をとおしての上のことである。
棲み家としての都市といえば、ハイデガーの人間の規定に〈世界-内-存在〉というのがあることはよく知られている。この規定の意味するところは決して単純ではないが、とにかくそれは、人間が根本的な存在の在り様として、世界のなかで世界と密接な関係をもって存在していることを示している。ただ単に空間的に世界の中に在るとか、世界を意識の対象としているとかというだけにつきない。しかし、このような場合に使われる 世界 という用語は著しく具体性を欠いている。
都市の深層を構成する諸要素として重要なのは、東西南北、上下(天地)などの有意味的な方向性であり、聖なる場所・俗なる場所・穢れた場所(→「聖なるもの」) の配置であり、坂・橋・川・境界などのもつ記号論的な意味である。それらは実用的な観点から都市を捉え、都市に接するときにはいわば眠ったままだが、そのなかに私たちが身体性を帯びた存在として生き、棲み、歩きまわるとき、つまり私のいうパフォーマンス(→「パフォーマンス」) がなされるとき、シンボリズム(象徴表現)やコスモロジー(有機的宇宙論)の次元をとおして、それらのかたちで浮かび上がり、捉えられるのである。