指導改善研修の一環で、禅について勉強をするのに、一番最初に購入した本。「禅」の思想について学びたいと思っていたのであるが、思いの外、本屋に行くと「禅」の入門書なるものは、自己啓発本の類が多くを占めていて、期待していた学術的な記述のされている入門書を、上手く見つけられなかった。そこで、思想の概説ではなく、直接、「禅」の思想に触れられる本を、と思い、公案の集められたこの本を手に取った。
現代の不条理小説と呼ばれる小説は、よっぽど理屈が通っているように見えるほどの不条理。例えば、こんな感じである。
松源和尚がいわれた、「ちからのある者が、どうして立ちあがれないのか?」また「説法は演説じゃないぞ」
無門いわくーー松源は腹わたをむき出しだが、受けとり手がいないのだ。オイソレとひき受けても、無門のところにきてブンなぐられるだけ。なぜならば? 純金かニセか、火でためすのだ。
歌にーー
足でけかえす太平洋
低く見くだす銀河系。
この身一つの置きどころ、
「あとの句をたのむ。」
(p85)
まず、松源和尚の言葉の一つ目と二つ目の間のつながりが、まったく分からない。それに対して、無門は、松源が「腹わたをむき出し」だと評するが、いったい、どうしてそのような判断になるのか。腹わたの「受けとり手がいない」とはどういうことか。なぜ、松源和尚は、無門に「ブンなぐられる」ことになるのか。そして最後である。「純金かニセか、火でためすのだ」。いったい、何を試すというのであろうか。
とにかく、意味が分からないの一言に尽きる。そして、タイトルに「四十八章」とある通り、このような不条理な説話が、四十八話、続くことになる。公案というものは、悟りを開くための助けとして出されるものであるそうだが、こんなわけの分からない話を延々と聞かされていれば、悟りの一つや二つも開きたくなりそうである。
序文によると、「無門関」にある「無門」とは、「決まった入り口がない」ことを意味している。一方で、第一章「趙州狗子」によれば、「関」というのは、禅の修行を通して、悟りを得るために、通らねばならぬ関所を意味しているという。つまり、この「無門関」という書名からして、一つの矛盾なのであって、悟りにおいて解かれるべき禅問答になっている。
「趙州狗子」で、無門はこう書いている。
ところで、その関所とは何かというに、ただこの「無」ということ、これがこの宗の関所だ。だからその名も「禅宗無門関」。
(中略)
三百六十の骨ぶし、八万四千の毛穴、全身をもって疑い、「無」の意味を知れ。よるひるひきしめて、「虚無」にも落ちいらず、「有無」にもかかわるな。焼けた鉄のたまをのんだようなぐあいに、はき出すこともならず、これまでの悪分別をとろかし、だんだん練れてくると、しぜんに内もそとも一つになる。
(p19〜20)
入り口のない入り口。しかし、それは、「虚無」ではない。かと言って、それがあるのかないのかというように「有無」に関わってもいけない。
では、どうすればいいのかと言えば、一つだけヒントが書かれている。それは、「しぜんに内もそとも一つになる」という言葉だ。
「無」が、悟りに向かう「関所」であると言われると、悟りを開いていない状態から、悟りを開いた状態に向かって行く途中に、何かしらの課題のようなものがあるような印象を受ける。しかし、実際にそうではない。悟りの状態に前も後ろもなく、自分自身は、その最初から、仏たる存在だったことに気がついてこそ、悟りである。つまり、悟りに向かう入り口などというものは、はじめからなく、仏道を行く者は、すでにその修行のはじめからして、悟りの境地に足を踏み入れているのである。
これが、「内もそとも一つになる」という認識の意味ではないか。関所の内側と外側は、すでに一つの仏道であるという意味において、一つなのである。
禅の思想性をある程度分かった上で読むと、一見して意味不明な物語も、何かしらの寓話であるように読めてくる。他の人たちがどう読むのかを聞いてみたい。実際の禅の考え方からかけ離れることになると思うが、それぞれの解釈を共有しながら、みんなでわいわい読むのが、この本の正統な読み方なのではないか、という気がする。
ちなみに、はっきり言って、この本は、あくまで禅問答を集めただけなので、この本を読んでも、禅についてはまったく分からない。もっと良心的な入門書があると思うので、引き続き探そうと思う。
何か体系的に思想を学ぼうというのではなく、禅問答の空気を吸ってみたい人には、イチ押しだと思う。