易そのものについて述べているのではなく易経の成立と受けとめられ方を述べた本
易経が伏犠、文王(周公)、孔子の手によるものであるという伝説を否定している。中国人が古を尊ぶのは、知恵と経験を尊び老人を敬う農耕民族だったからと提言する。
易は占筮者集団の用いるトカゲのトーテムが由来であるとする。
卦爻辞は
...続きを読む卜辞の残片やおみくじの文句から適当に当てはめて作り、足らないところはことわざ格言のたぐいを混ぜたものだろうという。卦爻辞の成立はバラバラで一時に出来たものではないという。
左伝の占筮記事の検討によって十翼のうち大象の前半と説卦の後半がもっとも古いことを明らかにしている。そして左伝に見えるのは「人事を尽くしてのち天命を占う」ようなものであるという。
彖伝と象伝(小象全部、大象の後半部分)が次に古いとしている。その説明は儒家的なもので、道家と墨家の思想を取り入れているらしい。
陰陽思想は新しい自然科学であったという。陰陽思想の由来である斉の国が商業経済が盛んであることより数学的思考が必要になり、科学的思考が養われたから陰陽思想が生まれたとする。
天命が人の内側の性となる中庸のコペルニクス的転回を繋辞伝は経ているという。宇宙は変化するものであるが、変化しないものがある、それは象と数で捉えられる、よって象と数からなる易で不変の法則を捉えられる。だから易で人の運命がわかる。繋辞伝は倫理と未来予知技術との矛盾を言いくるめる役目をしているという。
繋辞、説卦、文言は秦漢のころにできたとしている。もっとも新しい序卦と雑卦はおそらく漢初の経学者、占筮者の手に成るものであろうという。
漢初は創業まもない不安定な時代で無為にするほかなく、無為を説く道家の思想が優勢であった。しかし、天子に神秘性を付与する天人相関、災異説がはびこることになったと述べている。易は天人相関、災異説と結びついた。それによって天の運行と人為を結びつける卦気説を生みだしたという。予言に彩られた、儒教に宗教性を与える緯書が前漢末に出て流行した。易の緯書は基本的に孟喜、京房の易の学説にそうものであるらしい。揚雄が太玄という易を模した新規の象数を作ったということ知って興味深く感じた。
後漢は経学全盛の時代であり、絶対主義的儒教倫理に縛られた社会であった。そこから訓詁学を完成した鄭玄が出てくる。この時代の易学者は卦と経文を結びつけるためにあらゆる方法を使おうとする傾向があるという。
魏晋は後漢の儒教の絶対主義の反動の時代であった。自由と合理性を尊び、玄学と清談が流行した。その中から易の解釈において後世に大きな影響を与える王弼が出た。王弼は漢代の象数易と対称的な易解釈を打ち立てた。意識下に老荘の影響が見えるという。卦を意味を引き出すための虚象とみる。人事に例えて処世訓を引き出す。宋学のテーマは六朝のころまでには出揃っていたという。
宇宙のなか、万物のなかに内在的な理を考え、理は人にあっては性となる。宋代の身分平等な社会が、易の陰陽の観念にある平等性を通して、性の平等性を生みだしたとする。宋代の人は経を目的とせず、経を通して自分の思想を述べているという。司馬光も太玄にならって潜虚という新たな象数を作っていたのは面白い。元明は経学不振の時代であった。明代の陽明学は我が心のうちに理がある、外物に理を求める必要はないということで、「六経はわが注脚」となって、易の解釈も成立しなかったという。
清代は科学的な考証学が流行った時代であるが、経典の権威までは犯せず、漢学と呼ばれるように、漢の時代の学問を復興するにとどまり、自分の思想を開陳することがほとんどないという。銭大昕の言葉からわかる清儒は学問のための学問を楽しんでいたことは、近代の雰囲気が漂う。
占筮法の具体的な紹介がある。繋辞伝に基づく正式な方法と銭による略式法とが紹介されている。数学的な検討をしているのが興味深い。
陰陽は西洋の二元論と違って、対立するものではなく、お互いに補い合い、ときには入れかわりうるものであり、そこからは西洋的な宗教が生まれなかったという。
易をテーマにした思想史ともいうべき本で、易そのものや占筮法、そのテクニックを知りたい人向けではない。読み応えがあった。