「アーバン・アウトドア」、たまに「アーバン考古学」!?
1970年代、まだアウトドアという概念すらない日本に、アウトドアを紹介した芹沢一洋さん。スポーツ的な側面でなくライフスタイルとしてのアウトドアという価値観を広めた方です。
1984年に発行された『アーバン・アウトドア・ライフ』が、2018年に文庫化されたもので、本棚でタイトルを見たときの期待感とカバーデザインの可愛さで購入しました。紹介されるギアなどは今現在であれば時代遅れのものが多いですが、精神性はまったく古さを感じません。
都会に住んでいるからこそ自然を思う、という「アーバン・アウトドア」という考えには同意します!私も田舎の出身だから共感もひとしおのものがありました。山と田んぼに囲まれた田舎に住んでいた10代の頃は、登山やキャンプをしたいなんて1ミリも思わなかったし。「アウトドアはスポーツではない」というメッセージにも深く共感、でもどこかこれを忘れがちなんだよなあ、後から来た登山客に追い抜かれたくないとか、どこどこのメーカーのギアの方がイケてるとか、、、と自分を省みました。
自然が豊かな田舎に住んでしまうと、自然の価値を忘れてしまいます。「生活」そのものになってしまうからです。アウトドアを楽しみにきた人々が地元の人に「こんな田舎なにが楽しいんだ」と言われる場面はよくあること。それはけして悪いことではないですが、都会にいるからこそ、遠きにありて思う自然を「アウトドア」という価値観で捉える。そうすると近所の公園の花壇や植木、通勤途中の用水路の流れにもあらためて気づくことができるようになり、人工物に囲まれた都会の生活も彩られていきます。通勤を「散策」と捉えるように、都会の生活それ自体がアウトドアになってしまうようなヒントもこの本にはあります。自然のスピリチュアルな在り方も受け入れつつ、都市生活に見合う実用的で効率的な方法で自然にふれること。そんなアーバン・アウトドアの価値観で生活はグッと楽しくなりますね。
多くの人に愛される立派な花ではなく、気づかれないような雑草への愛を語る章の、著者の子供のような無邪気さ。雑草まみれ、土まみれになった少年時代の著者が思い浮かぶ良いシーンです。一本一本、木にこっそり名前をつけるアイデアは私もトライしてみようかな。公園のお気に入りの木に、自分だけの名前をつけてみるなんてまさにアーバン・アウトドアかも。あとは部屋で木のお香を炊くことは、すでに私も嗜好しているけど、あらためてこれもアーバン・アウトドア術だったかと気づきました。今みたいにボルダリングジムが一般的になる前、一部の愛好家が某公園の石垣を練習場に使っていたエピソードなんかも、アーバン・アウトドア人の性(さが)に笑ってしまう話です。子供の頃に実家で飲んでいた清水をもとめて、自宅の蛇口に浄水器をしこむエピソードも著者の純粋さを感じます。そして極め付けは都心の高級ホテルのロビーの床や壁に使われるピカピカの石材のなかに化石を発見するという、アーバン・アウトドアどころか「アーバン考古学」の分野に足を踏み入れており、ここまでくると「いいぞいいぞ、おかしくなってきたぞ(褒め言葉)」と嬉しくなりました。ルーペを持ったサファリルックのオジサンが、高級ホテルのロビーに這いつくばるコントのような姿が浮かんできてしまったもので(笑)。
ソローの『ウォールデン 森の生活』をバイブルとしている著者なので、同書からの引用が多数ありますが、私が以前に読んだ『森の生活』の解説的書籍にはない、思わず膝を打つような言葉がたくさん。やっぱキュレーターによって切り取り方は変わるもんなんだなと思いました。てかやっぱオリジナルの『ウォールデン 森の生活』を読まないと、か。難しそうだから避けていたけど。
私に土地勘がなかったり経験が乏しいので、登山記録などは流し読みになってしまいますが、ひたすら楽しそうな芦沢さんの姿を脳裏に浮べつつ読み進められるアウトドア・エッセイです。しかし気づかぬうちにスルっと、ソローの考えやアナキズムなどの思想・哲学的トピックにも自然に興味を抱くようにもなっていました。重々しさや堅苦しさが一切ないのは、著者の飄々とした自然体な文体によるものでしょう。アウトドアに没頭し、自然と自分という関係において、深く自分を省みる時間を作っている人には、自分なりの哲学が自然と生まれてくるのかもしれませんね。