山岸良二の作品一覧
「山岸良二」の新着作品・人気作品や、最新のユーザーレビューをお届けします!
-
作者をフォローする
- フォローするとこの作者の新刊が配信された際に、お知らせします。
ユーザーレビュー
-
【感想】
「日本史の教科書」第2弾。江戸時代中盤から終盤、明治、大正、昭和の日本史が掲載している1冊。
本当に、良くも悪くも「ただの教科書」なので、面白味やストーリー性は皆無なのだが、客観的な歴史書としては本当に役に立つ1冊だと思う。
一切の主観を挟まず、少なくとも現在における一切の曇りもない真実
...続きを読むのみが綴られていて、歴史小説などと比べても信憑性は抜群だ。
(勿論、その分面白味は抜群に低いが。。。)
また、江戸終盤からは近代に近い外交が始まるため、この1冊で同じタイムゾーンの諸外国の状況も読めた。
日本が何故侵略される事なく明治維新を成し遂げる事が出来たのか、維新後どのように世界に進出していったのか、そしてなぜ第二次世界大戦に巻き込まれて敗戦してしまったのか。
そういった日本の歴史を諸外国の状況も踏まえて解説されている為、なんというか読んでいて非常に腑に落ちたなと思った。
そして、個人的には敗戦後の日本史については何故かあまり頭に入っていなかったが、この1冊は平成に至るまでの日本史までもが余すことなく書き綴られているなーと感心した。
日本人として生きている以上、自国の歴史と発展、ルーツについてはしっかりと頭に入れておきたいものですね。
【内容まとめ】
1.明治維新が成し遂げられたのは奇跡!!
明治維新は、中国の太平天国の乱、第二次アヘン戦争、クリミア戦争、晋仏戦争の文脈でとらえること。
東アジア諸国の中で、日本だけが植民地化されずに帝国主義国として発展することができたのは、歴史的な巡り合わせによるところが実に大きい。
ロシアは国内問題に忙殺され、フランスはルイ・ナポレオンの対外政策がことごとく失敗し、アメリカは南北戦争によって対日関係を消極化していった。
明治維新が達成された頃の国際的環境は、日本にとって一種の空白期でもあったのである。
2.飢饉は江戸時代を通じて150回あまり、大規模なものだけでも20回を数える。
中でも1732年の「享保の大飢饉」、1782年~1786年の「天明の大飢饉」、特に厳しかったのは1836年の「天保の大飢饉」は、三大飢饉といわれている。
3.1854年に日米和親条約、1858年には日米修好通商条約も締結する。
日本は関税自主権を失い、外国人に治外法権を認めた。
金銀の交換比率は欧米では金1と銀15の割合だったのに対し、日本では金1銀15の割合だった。
4.日清戦争
1894年5月、第2次伊藤内閣が窮地に陥っていたとき、朝鮮の各地で甲午農民戦争が発生した。
朝鮮の要請により清が出兵すると、日本もただちに出兵し、乱の鎮定後も撤兵せず、列強の干渉を排除しつつ軍隊の動員を行なった。
(日本の出兵は、形式的には「天津条約」に基づいていた)
が、ロシアが中国への南下政策を妨げられる事を恐れ、フランス・ドイツと共に遼東半島を清に還付することを要求する「三国干渉」を行ってきた。
日清戦争によって、日本は欧米列国による被圧迫国から、アジア諸民族を圧迫する国へと変わり、帝国主義へとなり、反日運動を高まらせていく要因となった。
また、三国干渉に対しては「臥薪嘗胆」というスローガンが生まれる元となり、後の日露戦争につながっていく。
5.第一次世界大戦の影響
・イギリスに代わってアメリカが世界第一の経済大国となった。
・世界最初の社会主義政権が成立した。
・社会主義政権誕生は、列強の対立を一層激化させ、複雑にした。
・労働運動、社会主義運動が激化した。
・植民地、従属国の民族運動が盛んとなった。
・極東における日本の進出が決定的になった。
・日本が列強の仲間入りをした。
・日本は国際的に孤立するようになった。
6.大平洋戦争
アメリカは軍備が整わず、また、まず対ドイツに兵力を集中したため、緒戦において日本軍はめざましい戦果をあげた。
しかし戦線の拡大につれて軍需物資の補給が困難となっていき、日米の間に次第に大きな戦力の違いが目立ってくるようになった。
1942年6月のミッドウェー海戦は、主力空母4隻を失う敗戦となり、8月からのガダルカナル攻防戦では激しい消耗戦の結果、陸軍が大敗北を喫し、翌1943年2月には撤退を余儀なくされた。
1944年6月にはマリアナ海戦で惨敗、7月にはサイパン島が陥落、日本本土が空襲にさらされることになった。
7.田中角栄内閣による「日本列島改造論」
池田内閣以来の高度経済成長政策を受け継ぎ、収入が莫大に増え、テレビや洗濯機などはほぼ全世帯に普及し、自動車の保有台数と増加した。
物価もそれに劣らずに上昇し、暴騰していった。
人口は太平洋ベルト地帯に急速に集中していったため、農村・漁村や山村・離島などでは人口流出が相次ぎ、過疎化現象が顕著になった。
高度経済成長がもたらした最も憂慮すべき問題は、環境破壊や公害の激化。
熊本県水俣や新潟県阿賀野川流域の「水俣病」
カドミウム汚染による富山県神通川流域の「イタイイタイ病」
大気汚染の進による「四日市喘息」や「川崎喘息」
8.日本人は、国家とは同一民族によって構成されているものであり、日本史とは日本民族、日本社会の歴史であると考えがちだが、それは世界的にはまったく当てはまらない。
お隣の朝鮮の歴史を考えてみても、漢民族や遊牧民族、それに日本民族からの絶え間ない侵入にさらされているし、イギリスでさえも11世紀のノルマン人の侵入にのって民族構成が大きく変わっている。
他の国の歴史とは、絶えざる民族交代の繰り返しであり、異民族混合の歴史なのである。
【引用】
p3
明治維新は、中国の太平天国の乱、第二次アヘン戦争、クリミア戦争、晋仏戦争の文脈でとらえること。
東アジア諸国の中で、日本だけが植民地化されずに帝国主義国として発展することができたのは、歴史的な巡り合わせによるところが実に大きい。
ロシアは国内問題に忙殺され、フランスはルイ・ナポレオンの対外政策がことごとく失敗し、アメリカは南北戦争によって対日関係を消極化していった。
明治維新が達成された頃の国際的環境は、日本にとって一種の空白期でもあったのである。
p17
・享保の改革(財政の再建)
8代目将軍・徳川吉宗
紀伊藩主であった徳川吉宗が将軍に就任した。
5代綱吉の頃から顕著になった幕府財政の窮乏は慢性化し、危機的な様相を帯びていた。
また幕府の支配体制にも緩みがみえ、士風の退廃も進んでおり、商業的農業の発展によって幕府は農業生産物の掌握ができなくなっていた。
吉宗は、この情勢に幕府の支配機構を対応させ、再び幕府支配を確固としたものにすることを目的とした。
p25
農民層の分解を激化させたものに、凶作・飢饉があった。
飢饉は江戸時代を通じて150回あまり、大規模なものだけでも20回を数える。
中でも1732年の「享保の大飢饉」、1782年~1786年の「天明の大飢饉」、特に厳しかったのは1836年の「天保の大飢饉」は、三大飢饉といわれている。
p29
・田沼時代の政治と社会
吉宗死後、後任の家重が暗愚だったために、再び側用人政治が復活。
田沼意次が実権を握った1764年~1786年までを田沼時代と言われている。
田沼意次は門閥も格式もない成り上がり者であったが、それゆえに将軍家治の信任を背景に、先例にもとらわれずに思い切った積極的な政策をとることができた。
江戸・大阪・京都の特権商人と結び、商品の流通過程から利益を吸収した。
また、商人の株仲間を公認し、多くの特権や仕入・販売などの独占権を与える代わりに、幕府に多額の運上金を上納させた。
しかし、生産者である農民や新興商人の利益を損なうものであったため、一揆を起こされ激しく抵抗された。
その上この時期には天災地変が相次ぎ、天明の大飢饉は足かけ5年に及んで各地に餓死者が続出する惨状を見せ、それが田沼の政治の結果と取られた。
意次は政権に近づくために将軍の信任を得、大奥と結びつき、一族も門閥と縁故を結び、公然と賄賂を行い、また受け取った。
結果激しい反発を招き、家治が死んで家斉が11代将軍になると、意次も老中の職を追われて失脚した。
ちなみに賄賂が盛行したのは田沼時代に限ったわけでもないが、賄賂を公然ととったために非難されたのである。
p40
・寛政の改革
奥州白河藩主の松平定信による幕政改革。
風俗の粛清に乗り出し、厳しい倹約を命じた。
田沼時代の商業資本重視の政策を改めて、農業など生産を推進し、むしろ商品流通を抑制する政策を取った。
「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
p47
・化政文化
江戸中心の町人文化。
江戸市民が担い手で、「江戸っ子」という言葉や、「通」「粋」という通人趣味が基調。
文化の面で、次第に上方から江戸へと移っていく傾向があった。
幕府が放漫な財政政策をとったために経済活動が活発となり、また大きな天災や凶作がなかったこともあり、商品生産や流通は一段と発達した。
p58
・天保の藩政改革
薩摩藩
関ヶ原の戦いで敗戦した後も旧領を安堵された。兵農分離も進行せず、厳しい農民統制を行っていた。
1753年の木曽川治水工事で財政窮乏は深刻となり、さらに化政期の島津重豪の豪奢な生活によって破局的な藩債を負った。
その藩債を「250年賦償還」という無茶な方法で処理し、奄美大島や琉球との貿易を活発にした。
p61
水野忠邦が行なった天保の改革とほぼ同時期である1840年に、中国ではアヘン戦争が起こっている。
1853年 ペリー来航
1854年 日米和親条約
1858年 日米修好通商条約、安政の大獄
1861年 イタリアの統一、アメリカの南北戦争
1867年 大政奉還、王政復古の大号令
1868年 明治元年
1871年 廃藩置県
1877年 西南戦争
1894年 日清戦争
1902年 日英同盟
1904年 日露戦争
1910年 日韓併合→辛亥革命に
1912年 大正元年
1914年 第一次世界大戦
1917年 ロシア革命
1923年 関東大震災
1925年 治安維持法、普通選挙法
1929年 世界恐慌
1931年 満州事変
1932年 五・一五事件
1933年 国際連盟脱退、独ヒトラー政権、米ニューディール政策
1936年 二・二六事件、日中戦争勃発
1939年 第二次世界大戦
1945年 ポツダム宣言受諾、財閥解体、農地改革
1947年 米ソ冷戦激化
1950年 朝鮮戦争
1951年 サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約
p64
・絶対主義王政→市民革命
市民革命によって絶対主義王政が廃絶、近代市民社会が形成され、産業革命によって資本主義的生産が発展、ブルジョアジーが社会の実権を握る。
・イギリス
清教徒(ピューリタン)革命
1642年に清教徒クロムウェルが中心となり、国王チャールズ1世を処刑、自由共和国の成立を宣言した。
名誉革命
1660年に王政が復活しチャールズ2世が反動的政治を行ったため、1688年に追放して無血革命を成功させた。
・アメリカ
本国イギリスに対して独立戦争を起こし、1776年に独立宣言を発してアメリカ合衆国を樹立。
・フランス
1789年に大革命が起こり、1792年には共和制が樹立された。
19世紀はじめにはナポレオンによる海外侵略が市民革命の輸出につながった。
p73
・日米和親条約(神奈川条約)
1.下田、箱館の両港を開港
2.下田に領事を置く
3.片務的な最恵国待遇をアメリカに与える
相次いでイギリス、ロシア、オランダとも和親条約を締結。
1858年には日米修好通商条約も締結する。
日本は関税自主権を失い、外国人に治外法権を認めた。
金銀の交換比率は欧米では金1と銀15の割合だったのに対し、日本では金1銀15の割合だった。
p83
・生麦事件→薩英戦争
1862年、島津久光が江戸から帰京の途中、生麦(横浜市)で行列の前方を横切ったイギリス人を藩士が殺傷するという事件が発生。
その報復のために、1863年にイギリスは軍艦7隻を鹿児島湾に派遣して砲撃戦を行なった。
攘夷の困難を知った薩摩藩は、イギリスと和平交渉を図り、以後親密な関係を結んだ。
p88
・王政復古の大号令
→倒幕派が徳川氏を政権から追い出し、新政権の主導権を握るためのクーデター
・鳥羽伏見の戦い
・江戸城の無血開城
・戊辰戦争
→鳥羽伏見の戦いより後の一連の戦争のこと。上野の戦い、会津戦争、五稜郭の戦いなど。
p107
・松方財政
明治14年の政変で大蔵省の大隈重信が罷免、松方正義がインフレ政策に変わってデフレ政策を推進した。
紙幣と銀が同価になるまで回収・整理を行い、一方で日本銀行を設立、兌換銀行券を発行した。
また軍事工場や運輸通信部門を除いて、相次いで官営事業が民間に払い下げられた。
三井・三菱などは政府と緊密に結びついた政商で、非常に有利な条件で払い下げを受けたため、財閥として成長するきっかけをつかんだ。
p130
・日清戦争
1894年5月、第2次伊藤内閣が窮地に陥っていたとき、朝鮮の各地で甲午農民戦争が発生した。
朝鮮の要請により清が出兵すると、日本もただちに出兵し、乱の鎮定後も撤兵せず、列強の干渉を排除しつつ軍隊の動員を行なった。
(日本の出兵は、形式的には「天津条約」に基づいていた)
開戦後も日本軍は連戦連勝で、9月の「平壌の戦い」「黄海海戦」で日本の勝利は確定的になり、翌年講和議会が開かれ、下関条約が締結された。
清は朝鮮の独立を認め、賠償金を支払い、日本との不平等条約を締結することを約束し、遼東半島などを割譲した。
が、ロシアが中国への南下政策を妨げられる事を恐れ、フランス・ドイツと共に遼東半島を清に還付することを要求する「三国干渉」を行ってきた。
日清戦争によって、日本は欧米列国による被圧迫国から、アジア諸民族を圧迫する国へと変わり、帝国主義へとなっていった。
それは当然、反日運動を高まらせていく要因となった。
また、三国干渉に対しては「臥薪嘗胆」というスローガンが生まれる元となり、後の日露戦争につながっていく。
p141
・日露戦争
日本は日清戦争の賠償金のほとんどを軍事費につぎ込み、また租税増徴も行なって、軍備拡充に邁進した。
が、国内では非戦論も多く、日清戦争のような挙国一致戦争ではなかった。
日本軍は1904年2月に仁川・旅順でロシア軍を奇襲、その2日後に戦線布告を行なったら、
ロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させて優位を占めたが、日本軍の損害も大きく、また軍事費も使い果たしていた。
ロシアは主力軍は本国にいたが、社会主義革命運動が盛んで、血の日曜日事件が発生するなど国内が不穏であった。
このため、両国とも戦争の継続が困難になってきた。
1905年、アメリカからの勧告により、日露講和条約である「ポーツマス条約」が結ばれた。
日露戦争はイギリスとアメリカvsフランスとドイツという列強同士の複雑な関係が絡んでおり、戦後日本の極東進出が強まったことで第一次世界大戦の種を蒔くこととなった。
p166
第一次世界大戦の影響
・イギリスに代わってアメリカが世界第一の経済大国となった。
・世界最初の社会主義政権が成立した。
・社会主義政権誕生は、列強の対立を一層激化させ、複雑にした。
・労働運動、社会主義運動が激化した。
・植民地、従属国の民族運動が盛んとなった。
・極東における日本の進出が決定的になった。
・日本が列強の仲間入りをした。
・日本は国際的に孤立するようになった。
p186
・金融恐慌
1920年の戦後恐慌以来、1922年の銀行恐慌、1923年の震災恐慌など、1920年代は恐慌に次ぐ恐慌に見舞われた。
その過程で多くの新興財閥が倒れ、その資産は三井・三菱・住友・安田など旧財閥に食いちぎられた。
また1927年には金融恐慌が発生し、鈴木商店が倒産した。
・鈴木商店
第一次世界大戦中に急成長した新興財閥で、神戸製鋼や大正生命、東洋火災海上など50社以上を擁し、三井・三菱の地位を脅かすまで成長した。
p196
・満州事変
1931年9月、関東軍は柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した。これを柳条湖事件という。
関東軍はこれを中国軍の仕業であると称し、ただちに満州における全面戦争に突入、翌年1月に満州をほぼ占領した。
対立していたアメリカは大恐慌による打撃が深刻だったため、日本の軍事行動に対して有効な対抗手段を取ることができなかった。
また蒋介石らはあえて日本軍に抵抗しないように指示を出していた。
満州事変は、軍の独断専行に対して政府がまったく無力であることを示した。
p217
・大平洋戦争
アメリカは軍備が整わず、また、まず対ドイツに兵力を集中したため、緒戦において日本軍はめざましい戦果をあげた。
しかし戦線の拡大につれて軍需物資の補給が困難となっていき、日米の間に次第に大きな戦力の違いが目立ってくるようになった。
1942年6月のミッドウェー海戦は、主力空母4隻を失う敗戦となり、8月からのガダルカナル攻防戦では激しい消耗戦の結果、陸軍が大敗北を喫し、翌1943年2月には撤退を余儀なくされた。
1944年6月にはマリアナ海戦で惨敗、7月にはサイパン島が陥落、日本本土が空襲にさらされることになった。
p269
・田中角栄内閣による日本列島改造論
池田内閣以来の高度経済成長政策を受け継ぎ、1960年には一人当たり月2万5千円に満たなかった賃金が、1970年には8万5千円を上回るようになった。
テレビや洗濯機などはほぼ全世帯に普及し、自動車の保有台数と増加した。
物価もそれに劣らずに上昇し、暴騰していった。
人口は太平洋ベルト地帯に急速に集中していったため、農村・漁村や山村・離島などでは人口流出が相次ぎ、過疎化現象が顕著になった。
高度経済成長がもたらした最も憂慮すべき問題は、環境破壊や公害の激化である。
有機水銀汚染による熊本県水俣や新潟県阿賀野川流域の「水俣病」や、カドミウム汚染による富山県神通川流域の「イタイイタイ病」などが発生し、多くの犠牲者が出た。
また大気汚染も進行し、石油コンビナートのある工場地帯は特に汚染され、「四日市喘息」や「川崎喘息」といわれる呼吸器官の病気が頻発した。
p316
・日本の位置
ユーラシア大陸の東端に位置する島国で、このことは日本史の展開過程に大きな影響を及ぼした。
適度の雨と温暖な気候は土壌に豊かな恵みを与え、日本人の自然感覚を鋭いものにした。
また島国であったために、中国で出現した強大な帝国による直接支配も遊牧民による征服も受けず、大陸から高度な文明を摂取して内的に発展していくことに成功した。
日本人は、国家とは同一民族によって構成されているものであり、日本史とは日本民族、日本社会の歴史であると考えがちだが、それは世界的にはまったく当てはまらない。
お隣の朝鮮の歴史を考えてみても、漢民族や遊牧民族、それに日本民族からの絶え間ない侵入にさらされているし、イギリスでさえも11世紀のノルマン人の侵入にのって民族構成が大きく変わっている。
他の国の歴史とは、絶えざる民族交代の繰り返しであり、異民族混合の歴史なのである。
p323
・日本の特殊性
1.日本は島国であったがゆえに、周辺の文化を吸収して順調な発展を遂げることができた。
2.日本はモンスーン地帯に位置していたがゆえに、適度の雨量と温暖な気候に恵まれ、農耕(稲作)社会として発展した。
3.島国の模倣性、単一民族の協調性、稲作国の勤勉性などのために、西欧の圧力の前に近代化を達成、非西欧国で唯一の工業国となった。
Posted by ブクログ
-
【感想】
良くも悪くも、「日本史の教科書」という一言に尽きる1冊だった。
ツラツラと何のストーリー性もなく編纂されており、日本史の流れを色んな側面から眺め、学ぶには非常に役立つ1冊だと思う
個人的には、文章だけでなくもう少しその文化に関する作品などの「画」を入れてほしかったな~とも思えたが・・・
あ
...続きを読むと、江戸時代中期までしか掲載がなく、江戸時代終盤~明治・大正・昭和・平成に至るまでの日本史も掲載して欲しかったなと思った。
最近そちらの歴史について若干おろそかなので・・・・・
(調べたところ、続編として「近世・現世版」もあるようですね!次回はコチラを読んでみよう!!)
面白味は一切ないが、余すことなくかつ正確に日本史を復習するための教科書としては、非常に良い1冊だと思う。(だって教科書そのものだもの!笑)
【内容まとめ】
1.推古天皇の時代を中心に、大化改新までを飛鳥時代、飛鳥文化と呼ぶ。
聖徳太子は四天王寺や法隆寺をはじめ7つの寺を建てた。
「法隆寺」は現存する世界最古の木造建築物である。
2.大化改新=蘇我氏暗殺ではない。
蘇我氏暗殺=「乙巳(いっし)の変」である。
大化改新の目的は、「氏姓制度を廃して中央集権国家をつくる」ことだが、しかしその眼目は「公地公民制」と「班田収授制」を施行することにあった。
3.律令体制の完成
「律」は刑法・刑事訴訟法に相当し、「令」は行政法・民法に相当する。
701年に大宝律令が完成し、翌年から施行された。律令体制によって中央豪族が貴族化していった。
4.天武・持統両天皇は、薬師寺の造営をはじめ、仏教興隆につとめたので、仏教文化が栄えることになった。
710年の平城遷都までの時代を年号にちなんで白鳳時代、この文化を「白鳳文化」と呼ぶ。
5.天平文化
奈良時代の文化は、聖武天皇のときの年号にちなんで「天平文化」と呼ばれている。
律令国家の模範とされた唐文化への強い憧れの1つ。
また「古事記」「日本書紀」の編纂がこの時期に完成し、諸国に「風土記」の編纂が命じられた。
かつての飛鳥文化・白鳳文化と同じように、仏教文化としての性格を強く持っている。
6.武士の発生
地方の治安が乱れると、名主や開発領主たちは武装して武力を蓄え、自分の土地を守るようになった。
こうして発生した武芸を専門とする人を「武士」という。
武士は10世紀の頃から荘園・公領問わずに発生してきた。
武士の勢力が初めて歴史上に姿を現したのが、承平・天慶(てんぎょう)の乱であった。
7.平安中期の国風文化
藤原時代ともいうが、まず何よりも貴族文化である事に特徴があった。
摂関家藤原氏を中心に、多くの荘園からの豊かな収入の上に豪奢な生活を営み、高い文化を享受した。
一般の多くの民衆は苦しい生活にあえいでおり、その文化を享受できていなかった。
8.封建制度
主君と従者との主従関係
主君が従者に封土を給与し保護するのに対して、従者が主君に対して忠誠を誓う相互契約的な社会関係をいう。
鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士を「御家人」という。
9.元寇
二度にわたる侵攻を撃退し得たことは武士の力を示すものであった反面、領地を獲得したわけではなかったので、御家人に対して恩賞を与えることができず、御家人の幕府に対する信頼感が薄らいだ。
10.鎌倉幕府の滅亡
幕府の弱体化を見抜いた後醍醐天皇は倒幕を試み、それをきっかけとして全国各地の武士が蜂起した。
護良親王が吉野、楠木正成が河内の千早城に挙兵した。
この情勢を見た幕府は、足利高氏(のちの尊氏)を討伐軍として上洛させたが、謀反を起こし六波羅探題を滅ぼした。
こうして150年に及ぶ鎌倉幕府の幕は閉じた。
11.室町幕府時代の南北朝時代
1336年に足利尊氏が後醍醐天皇を吉野に追い、1392年の足利義満のときに南北朝を合一するまでのこの期間は、後醍醐天皇の系統を引く「南朝」と京都の持明天皇の北朝が併立していた。
12.応仁の乱
義政は弟・義視を養子としていたが、正夫人である日野富子との間に義尚が生まれると、富子は義尚を立てようとして山名持豊に頼ったため、義視は細川勝元との結びつきを強めた。
ここで持豊と勝元は、将軍継嗣をめぐって決定的に対立するに至った。
勝元側を東軍、持豊側を西軍と称して、京都を中心として10年にわたって戦闘を行った。
戦局が次々と変わり地方でも内乱が激化したため、領国支配に不安を抱いた諸将は相次いで帰国、京都での戦乱はさしたる結果もなく自然消滅した。
応仁の乱の結果、室町幕府の権威はまったく失われ、影響力がほとんど及ばなくなった。
戦乱のどさくさにまぎれて力を蓄え、守護大名に取って代わって大名化する者も続出し、「下克上」の風潮が一般化していく。
めまぐるしい勢力交代の中に、実力者が次々とのし上がってしのぎを削りあう戦国時代へと突入していく。
13.楽市楽座
楽市…領内の特定都市の商工業者の課役を免除して流通機構の統一を推進。
楽座…それまでの座商人の特権を否定した。
楽市楽座令により、座の本所として寺社が商業に対してもっていた特権は否定され、商品流通も戦国大名の統制下に組み込まれることになった。
14.豊臣秀吉
尾張の農民の子に生まれた豊臣秀吉(1537?1598)は、今川義元の臣下に仕えたが再び放浪し、1558年に織田信長の臣となった。
1573年に浅井氏の北近江を与えられ、1577年からは中国・毛利氏の攻略にあたった。
1582年、備中の高松城を包囲している時に本能寺の変を知り、ただちに毛利輝元と和議を結ぶと急いで京都に引き返し、山城の「山崎の合戦」で明智光秀を討った。
翌1583年に滝川一益を伊勢に討ち、近江の「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討ち、信長の三男である信孝を滅ぼした。
大阪城の築城に着手したが、信長の次男・信雄(のぶかつ)が徳川家康と連合したため、1584年に尾張の小牧・長久手に対陣し、決戦を行わないままに和を結んだ。
1585年になると秀吉の地位は一段と強まり、関白の地位についた。
豊臣姓を名乗り、翌年に太政大臣となった。
1587年に九州に出兵、島津家を降伏させた。
1598年に死没。
15.関ヶ原の戦い
1600年、上杉家を攻めるために家康が会津に向かって東上すると、石田三成は家康討伐の軍を起こした。
家康に従った軍勢には東国の大名が多かったので東軍といい、三成に従った軍勢は西国の軍勢が多かったので西軍という。
両軍は美濃の関ヶ原にて対陣し、東軍の勝利に終わった。
16.元禄文化
5代綱吉の頃の元禄期を中心に開花した文化。
京都・大阪・江戸のいわゆる三都を中心に展開された。
町人が新興の意気に燃え、蓄えた財力が自信ともなってあるがままの現実を肯定し、自らの正当性を高らかに主張し、人間性の解放をうたいあげた。
つまり元禄文化は現実主義的傾向が強く、清新の気に満ちていた。
土壌は劇場と遊里であり、浮世草子・歌舞伎・浄瑠璃・浮世絵などが中心である。
【引用】
p26
新石器時代の日本の文化を縄文文化と呼ぶ。
日本では、先土器時代に次いで古い文化である。
土器の発生とあわせて始まったとされ、弥生時代が紀元前500~400年に始まるまでの約1万年にわたる。
自然の洞窟から竪穴式住居が一般的になり、縄文人が食べた貝や鳥、獣、魚類の骨などを捨てた跡である貝塚も発見されている。
p46
・第1代の天皇は神武天皇ではない?
大和朝廷成立の年代と一致することから、8代目の崇神(すじん)天皇からではないかと考えられている。
p60
592年、蘇我馬子は渡来人を使って崇峻天皇を殺害、このような中で最初の女帝「推古天皇」が即位し、翌年には天皇の甥である厩戸王(うまやとおう)の聖徳太子が摂政となる。
聖徳太子の治績として特に注目されるべきものは、「冠位十二階」の制定と、「憲法十七条」である。
また、607年に小野妹子を隋に派遣し、対等の立場を築いた。
推古天皇の時代を中心に、大化改新までを飛鳥時代、飛鳥文化と呼ぶ。
聖徳太子は四天王寺や法隆寺をはじめ7つの寺を建てた。
法隆寺は現存する世界最古の木造建築物である。
p66
大化改新=蘇我氏暗殺ではない。
蘇我氏暗殺イコール「乙巳(いっし)の変」である。
大化改新の目的は、氏姓制度を廃して中央集権国家をつくることにあったが、その眼目は土地の私有を廃して国家に収める公地公民制であり、それに基づいて班田収授制を施行することにあった。
p70
天武・持統両天皇は、薬師寺の造営をはじめ、仏教興隆につとめたので、仏教文化が栄えることになった。
710年の平城遷都までの時代を年号にちなんで白鳳時代、この文化を「白鳳文化」と呼ぶ。
p71
・律令体制の完成
唐の制度を積極的に取り入れて、天皇を中心とする統一国家をつくる。そのための基礎が律令である。
「律」は刑法・刑事訴訟法に相当し、「令」は行政法・民法に相当する。
701年に大宝律令が完成し、翌年から施行された。律令体制によって中央豪族が貴族化していった。
p74
少納言、式部は役職である。
今でいう国家機関のようなもの。
p92
・天平文化
奈良時代の文化は、聖武天皇のときの年号にちなんで天平文化と呼ばれている。
律令が整備され、国家意識が高まった。
ここ意識の高まりは、律令国家の模範とされた唐文化への強い憧れの1つ。
「古事記」「日本書紀」の編纂がこの時期に完成し、諸国に「風土記」の編纂が命じられた。
かつての飛鳥文化・白鳳文化と同じように、仏教文化としての性格を強く持っている。
p111
・荘園の発生と展開
墾田永年私財法の施行後、貴族・寺社による墾田がしきりに開発された。このようにして発生した私有地を荘園と呼んでいる。
荘園制は8世紀に成立し、16世紀の太閤検地によって消滅するまで存続した。
律令体制の基礎である班田制が完全に崩れ、律令の給与制に不安を抱いた貴族たちは加速度的に私有地=荘園を増やしていった。
p119
・武士の発生
政治に公私混同が一般化し、国司が私服を肥やすのに専念して地方の治安が乱れると、名主や開発領主たちは武装して武力を蓄え、自分の土地を守るようになった。
こうして発生した武芸を専門とする人を「武士」という。
武士は10世紀の頃から荘園・公領問わずに発生してきた。
武士の勢力が初めて歴史上に姿を現したのが、承平・天慶(てんぎょう)の乱であった。
平将門、藤原純友(すみとも)
p129
・平安中期の国風文化
藤原時代ともいうが、まず何よりも貴族文化である事に特徴があった。
摂関家藤原氏を中心に、多くの荘園からの豊かな収入の上に豪奢な生活を営み、高い文化を享受した。
一般の多くの民衆は苦しい生活にあえいでおり、その文化を享受できていなかった。
貴族は寝殿造の住宅に住み、池に舟を浮かべて釣りを楽しんだり、庭で遊宴を催した。
詩歌・管弦がよろこばれ、歌合わせ・蹴鞠などが盛んだった。
p142
保元の乱は貴族(後白河天皇と崇徳天皇)の争いに武士の戦闘力(源義朝と平清盛)が利用されたものであり、乱の結果、武力の役割が貴族にも武士自身にも強く認識されるようになった。
恩賞に不満を抱いた源義朝は、平清盛と乱を起こした。(平治の乱)
p154
・鎌倉幕府の成立には諸説あり
1180年の侍所の設置
1183年の東国支配権の承認
1189年の奥州藤原氏滅亡、制定
1192年の征夷大将軍の補任
・封建制度
主君と従者との主従関係
主君が従者に封土を給与し保護するのに対して、従者が主君に対して忠誠を誓う相互契約的な社会関係をいう。
鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士を「御家人」という。
p161
・承久の乱
独裁的に院政を行う後鳥羽上皇による乱。
北条政子が頼朝以来の恩顧を説いて御家人を感激させ、幕府への忠誠を誓い、結果、戦争は幕府方の圧勝に終わった。
この乱の結果、貴族階級は決定的な打撃を受け、院政の実質は失われることになり、幕府はその勢力を全国に及ぼすようになった。
(京都守護の六波羅探題によって京都は常にチェックされていた。)
また、「御成敗式目」も制定され、裁判にはっきりとした基準が与えられた。
p177
元寇の二度にわたる侵攻を撃退し得たことは武士の力を示すものであった反面、領地を獲得したわけではなかったので、御家人に対して恩賞を与えることができず、御家人の幕府に対する信頼感が薄らいだ。
p196
・鎌倉幕府の滅亡
幕府の弱体化を見抜いた後醍醐天皇は倒幕を試み、それをきっかけとして全国各地の武士が蜂起した。
護良親王が吉野、楠木正成が河内の千早城に挙兵した。
この情勢を見た幕府は、足利高氏(のちの尊氏)を討伐軍として上洛させたが、謀反を起こし六波羅探題を滅ぼした。
こうして150年に及ぶ鎌倉幕府の幕は閉じた。
p200
・南北朝時代
1336年に足利尊氏が後醍醐天皇を吉野に追い、1392年の足利義満のときに南北朝を合一するまでのこの期間は、後醍醐天皇の系統を引く「南朝」と京都の持明天皇の北朝が併立していた。
p231
・8代目 義政の政治
守護家同士の激しい対立の中で将軍職にあった義政には、政治に対する熱意の持ちようもなく、政務を忘れて遊び暮らし、義政の側室や側近が政治に口出しして政治は混乱した。
さらに飢饉などの災害が相次ぎ、農民や庶民は生活に苦しんだが、義政はそれを顧みずに土木工事を繰り返し、徳政令を頻発した。
p232
・応仁の乱
義政は弟・義視を養子としていたが、正夫人である日野富子との間に義尚が生まれると、富子は義尚を立てようとして山名持豊に頼ったため、義視は細川勝元との結びつきを強めた。
ここで持豊と勝元は、将軍継嗣をめぐって決定的に対立するに至った。
勝元側を東軍、持豊側を西軍と称して、京都を中心として10年にわたって戦闘を行った。
戦局が次々と変わり、地方でも内乱が激化したため、領国支配に不安を抱いた諸将は相次いで帰国、京都での戦乱はさしたる結果もなく自然消滅した。
応仁の乱の結果、室町幕府の権威はまったく失われた、影響力がほとんど及ばなくなった。
戦乱のどさくさにまぎれて力を蓄え、守護大名に取って代わって大名化する者も続出し、「下克上」の風潮が一般化していく。
めまぐるしい勢力交代の中に、実力者が次々とのし上がってしのぎを削りあう戦国時代へと突入していく。
p234
・東山文化
足利義政の治世を中心に、15世紀後半の文化を、義光に倣って京都東山の山荘を営み、戦乱の世相をよそに風流の生活を送ったことにちなんで「東山文化」という。
室町時代の文化を総称して「東山文化」と称することもある。
東山文化は、何より将軍義政とその周辺によって形成された文化であった。
政治的に無力であった義政は、わずらわしい現実を逃れ、東山で隠遁的な生活を送り、書画・骨董の鑑賞や風流の世界に生きようとした。
伝統的な貴族文化が巧みに取り入れられ、わび・さびといった枯淡・簡素な美しさを追求する武家文化がつくられた。
p243
・戦国大名の台頭
応仁の乱によって将軍の権威が失墜したことは、守護大名にとっては強力なうしろだてを失ったことであったから、そのような守護大名には新興の実力者を抑えることができず、次々と滅ぼされることになった。
こうして守護大名に代わって実力者が領国支配にあたることになった。
これを戦国大名という。
1507年に越後で長尾為景が守護を滅ぼし上杉家を築き、1516年には伊勢長氏(北条)が相模を、翌年には毛利元就が安芸を、美濃では斎藤道三。
1541年には甲斐の武田晴信(信玄)が父・信虎を追放、美濃では斎藤道三が守護・土岐頼芸を追放した。
1548年には長尾景虎(上杉謙信)が越後の家を継ぎ、1555年には浅井氏が近江を支配下に。
1560年には今川義元が織田信長に滅ぼされている。
守護家で残ったのは島津家と大分の大友家、奥州・九州を除くと近江の六角氏と越前の朝倉氏のみであった。
p253
・楽市楽座
楽市…領内の特定都市の商工業者の課役を免除して流通機構の統一を推進。
楽座…それまでの座商人の特権を否定した。
楽市楽座令により、座の本所として寺社が商業に対してもっていた特権は否定され、商品流通も戦国大名の統制下に組み込まれることになった。
p276
・豊臣秀吉
尾張の農民の子に生まれた豊臣秀吉(1537?1598)は、今川義元の臣下に仕えたが再び放浪し、1558年に織田信長の臣となった。
1573年に浅井氏の北近江を与えられ、1577年からは中国・毛利氏の攻略にあたった。
1582年、備中の高松城を包囲している時に本能寺の変を知り、ただちに毛利輝元と和議を結ぶと急いで京都に引き返し、山城の「山崎の合戦」で明智光秀を討った。
翌1583年に滝川一益を伊勢に討ち、近江の「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討ち、信長の三男である信孝を滅ぼした。
大阪城の築城に着手したが、信長の次男・信雄(のぶかつ)が徳川家康と連合したため、1584年に尾張の小牧・長久手に対陣し、決戦を行わないままに和を結んだ。
1585年になると秀吉の地位は一段と強まり、関白の地位についた。
豊臣姓を名乗り、翌年に太政大臣となった。
1587年に九州に出兵、島津家を降伏させた。
1598年に死没。
p293
1600年、上杉家を攻めるために家康が会津に向かって東上すると、石田三成は家康討伐の軍を起こした。
家康に従った軍勢には東国の大名が多かったので東軍といい、三成に従った軍勢は西国の軍勢が多かったので西軍という。
両軍は美濃の関ヶ原にて対陣し、東軍の勝利に終わった。
戦後、家康は西軍方の大名の改易(とりつぶし)や減封を大々的に行なった。
畿内の一大名になった豊臣氏滅亡のため、寺社造営をすすめ、まずはその莫大な金銀を消化させた。
無理難題を押し付けて秀頼に挙兵させ、大阪城を攻め、豊臣家は滅亡した。
1614年 大坂冬の陣
1615年 大坂夏の陣
p352
・元禄文化
5代綱吉の頃の元禄期を中心に開花した文化。
京都・大阪・江戸のいわゆる三都を中心に展開された。
町人が新興の意気に燃え、蓄えた財力が自信ともなってあるがままの現実を肯定し、自らの正当性を高らかに主張し、人間性の解放をうたいあげた。
つまり元禄文化は現実主義的傾向が強く、清新の気に満ちていた。
土壌は劇場と遊里であり、浮世草子・歌舞伎・浄瑠璃・浮世絵などが中心である。
Posted by ブクログ
-
大和王権の時代から、徳川幕府の始まりの辺りまでを、通史として一気に勉強するという目的で編纂されています。個々の時代については、出来事と背景について学ぶことで、それが次の時代にどのようにつながっていったのかを理解することができます。こういった歴史の学び方は今までになく、一通りの日本史の流れについて、す
...続きを読むっきりと整理できた満足感を持つことが出来ました。ただ骨太のため、読むのにほぼ1年かかりました。今なら、日本史で大きな革命が、大化の改新と明治維新であったことが納得できます。
この本で、日本史を通して学び、その知識の背景のもと、各時代の中身を勉強すると非常に強いと思います。昨年流行した応仁の乱についても、深く考えることができると思います。
Posted by ブクログ
-
大河ドラマ、時代劇、新書等では、物足りない感じになったオッさんの私には、体系的に近現代史を学べた良書。教科書だから当たり前か。
とくに、財閥の役割を文明開化、GHQによる財閥解体までの流れは、経済環境を踏まえて著述され理解しやすかった。
後半は、政治経済分野に歩み寄っていくので、経済に関する基礎知
...続きを読む識にもなり、再読間違いない。
宣伝文句にある、新書100冊分の価値は、伊達じゃない。
Posted by ブクログ
-
読み応えがあり、予定より読み終えるのに時間がかかってしまった。流し読みするにはボリュームがあるが、前巻から通読しだいたいの歴史の流れを頭に入れることができた。
本書はあまり授業では習うことのない近代史が充実していて、信を問うための解散総選挙は明治維新以降、特に戦前頃からよくある手法なのだな、とか、第
...続きを読む二次世界大戦をファシズムから発生したグローバルの流れとして捉えるのか、とか、新たな気づきがあったり
特定のスタンスを取らず、ただ新たな知識はベースとしつつ、各種報道を見ていきたいと思う。
Posted by ブクログ
山岸良二のレビューをもっと見る