【感想・ネタバレ】きみが死んだあとでのレビュー

あらすじ

1967年、10・8羽田闘争。同胞・山﨑博昭の死を背負った14人は、その後の時代をどう生きたのか? 全共闘世代の証言と、遅れてきた世代の映画監督の個人史が交差する、口承ドキュメンタリー完全版。

1967年10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止を図る全学連が、羽田・弁天橋で機動隊と激突、当時18歳だった京大生・山﨑博昭さんが死亡した10・8羽田闘争。この〈伝説の学生運動〉に関わった若者たちのその後を描いた長編ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』を書籍化。
山本義隆(元東大全共闘議長)、三田誠広(作家)、佐々木幹郎(詩人)をはじめ、当時の関係者への延べ90時間に及ぶ取材メモをもとにした、映画未収録インタビューを含む口承ドキュメンタリー完全版。「しらけ世代」の代島監督がいちばん憧れた「全共闘世代」のヒーロー、秋田明大(元日大全共闘議長)に迫る書き下し原稿も掲載! 若者は「10.8後」をどう生きたのか。あの時代の貴重な証言がここに。

【目次】
はじめに
「よく見比べてから判断したいので、いまは入りません」とお断りしました。──向千衣子さんの話
映画『きみが死んだあとで』を撮るにいたった動機
捕虜を撃ち殺す写真を見たのは大きかった。──北本修二さんの話
内ゲバは厭やね。だけど指令があれば、いや、わからないな……。──山﨑建夫さんの話
ぼくの話 1
だから「襟裳岬」をふと耳にするだけで胸がジンとする。──三田誠広さんの話
もうちょっとで山﨑の一周忌やなあと思ったんですけど、その前にやめました。──岩脇正人さんの話
ぼくの話 2
何の役にも立たない老人に、何の意味があるんだと思うでしょうけど。──佐々木幹郎さんの話
49歳ではじめて没頭したんです、いまの仕事に。──赤松英一さんの話
ぼくの話 3
大学では剣道部。もともとは右翼ちっくな少年だったんですが。──島元健作さんの話
わが子に「命」が何なのかを教えてもらいました。──田谷幸雄さんの話
ぼくの話 4
高校時代は何にでもなれると思ってたけど、何にもなれなかったっていうような人生ですね。──黒瀬準さんの話
エイッて、機動隊に追われてホームから線路に飛び降りたんですよ。──島元恵子さんの話
ぼくの話 5
私の救援の原点は、じつは子どもたちなんですよね。──水戸喜世子さんの話
ぼくの話 6
護送車のバックミラーに映った顔を見たら憑かれた顔で「これがハタチの俺なんやなあ」って。──岡龍二さんの話
ぼくの話 7
俺いなくなったら、絶対集まらないから待ってるしかない。だから、ひとりで待っているんだよ。──山本義隆さんの話
ぼくの話 8 終章
あとがき
登場人物紹介
本書に登場する用語の簡易解説
参考・引用文献
関連年表

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Posted by ブクログ

一年後大学に入り、そこで学生運動を少し経験した者として身につまされ複雑な気持ちで読んだ。
山崎博昭は1967年10.18羽田闘争の天神橋で先頭集団にいて機動隊との激突で死んだ。撲殺か轢死か死因は別れる。彼は大阪のベニヤ板職人の父と子煩悩な母のもとで姉と兄三人兄弟の末っ子として育つ。大手前高校で常にトップの成績で家族の期待を背負い京都大学文学部に現役で入学する。高校では思想や政治の問題に積極的な生徒が多く、大学に入って学生運動に参加していく。全国的に学園闘争が盛り上がり、彼も京大で中核派(セクト)に入り活動する。この本は当時の学生運動に憧れていた10歳年下の代島治彦が早稲田大学を出て映画監督になり『君が死んだあとで』という3時間20分のドキュメンタリー映画を制作するにあたって、山崎の友人や関係者14人から90時間に及ぶインタビューをした時の記録である。映象に漏れた部分も含めて、日大全共闘の秋田明大の聞き取りも入れて、更に自分の軌跡(自分の話1〜8)を挟んで編纂した、山崎に関わった人たちのその後の人生記録である。

なかでも、兄建夫の話は悲しく痛ましい。
警察から連絡が来て「弟とは違う違う」と言い聞かせながら遺体にあうが、見知った「天狗のマーク」の入ったシャツを見て絶望する。
一人だと可哀想だと思い解剖に立ち合い、綺麗な体を見ながら、母親に頼まれた「遺髪が欲しいのでちょっと切ってくださいとちょん切ってもらいテイッシュに包んでポケットに入れる」。撲殺か轢死か、死因のやり取りはについては曖昧な点が多い。
家に帰って母親に遺骨を渡す、哭に泣いた。
それでも母が一番辛かったことを痛感する。
その後、母親は救援センターに毎月カンパを送る。
彼は2年後高校の国語教師になり反戦青年委員会(中核派)の活動をするが、内ゲバに嫌気がさし運動から離れる。2005年早期退職し弟のことの聞きとり・資料収集を始め、2014年に「10.8山崎博昭プロジェクト」を始める。
次に、このインタビューを通して学生運動における政治党派(セクト)の異様な悍ましさが際立つ。その幹部や指導者について「自分の立場・身分を確保しつつ革共同の指導部でもある・・・最後のところで自分の生活ということを抜きに革命のことは考えない」、「いつまでもやめないで頑張っている人たちは他のことができないからいるだけ」「彼らはイノベーションを拒否した生き方(青木昌彦)」・・・と語られる。
今はワイン醸造のブドウ栽培をしている赤松英一の言葉である。高校時代から学生運動のリーダーとして多くの後輩を引き込んだ責任は大きいが、彼の肉声である。相当言葉を選んで言っている。
セクトにはオーム真理教や統一教会と同じものを感じる。宗教に代えて革命や共産主義を題目にして、学生をオルグと称する洗脳をし組織的に推進し、挙げ句の果てが「内ゲバ」で夥しい犠牲者を生む、ということをしてきた。関わる本人の問題であることは論を俟たないが、山崎博昭のように18年で人生を切断されること以外にもどれだけの有意の人材が道を逸れたり死んだか、家族や周りの人達を悲しませたか。
セクトやその指導者・幹部の責任は極めて重い。
その罪は底知れず、決して許されることではない。
恵まれた立場にいる人を引き摺り下ろす「怨望」で党派が政治権力を奪うためにイデオロギーで学生運動を利用し大衆動員の道具に使う。
ソ連や東欧が破綻し中国や北朝鮮の現状を見ればマルクス主義・共産主義革命の誤りは結論が出ている、歴史が証明している。
このことは、ノンセクトの学生運動とは決定的に違う。今は社会に意見を言う学生や若者の存在がますます重要である。学び・考え・議論し、意思表示をする自由は日本の大学の財産でもある。それがセクトの偏狭で誤った政治性に歪められたことで、政治への無関心を生み政治が劣化し、社会としても大きな損失を被ることになってしまった。

14人の運動への関わり方の濃淡やその後の歩みの違いはあるが、青春の決定的な一時期をこのような活動に熱中した経験は切実であり、各々の人生の生き様を大きく模っている。
編者の世代故と嗜好で淡々とした比較的明るい談話集になっている。
吉見俊哉の『東大紛争 1968-69』 
  (安田講堂での最終講義のライブ配信)
安彦良和の『わかり合えないをわかりたい』
  (Eテレ 心の時代)
を見たこともあり、尚更考えさせられた。
人生を反芻し内省をもって読んだ。
あの時、活動よりもっと勉強をしたり本を読んでおけばという思いもあるが、過去は拭えず、いろいろな意味で後悔の原点である。その後50年、それを踏まえてどのように生きたか、自分が辿る現実の生き方が実際にどうであるか、これこそが重要だとつくづく思う。
人生の晩秋期に、心の整理を促すことになるドキュメンタリー集であった。

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2024年01月15日

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