あらすじ
二〇二〇年、世界的なコロナ禍でライブやコンサートが次々と中止になり、「音楽が消える」事態に陥った。集うことすらできない――。交響曲からオペラ、ジャズ、ロックに至るまで、近代市民社会と共に発展してきた文化がかつてない窮地を迎えている。一方で、利便性を極めたストリーミングや録音メディアが「音楽の不在」を覆い隠し、私たちの危機感は麻痺している。文化の終焉か、それとも変化の契機か。音楽のゆくえを探る。
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Posted by ブクログ
うーん面白かった!音楽の聴き方、より、よりクラシックを知らない人にも勧められそうという所感。
「愛」が資本主義社会でのイデオロギーであるということ
(片山杜秀との「ごまかさないクラシック音楽」でもその話は取り上げられていた)
…バッハが歌った愛は神へのそれだけだったといっても過言ではないだろうし、モーツァルトには愛の甘美に目覚めつつも、その脆さにおののくというところがあった。しかしベートーヴェンとロマン派以後、そして今日のポップスにおいてもなお、近代音楽はひたすら愛と絆を歌い続けてきた。…つまり「愛」とは人を一箇所に集め、かつ、そのバックアップ装置としての家族(ないし家族の萌芽としての恋人たち)の絆を固める近代イデオロギーであり、それを身体的振動として象徴化するのが近代音楽だったのだ、と。(p.70)
パウル・ベッカーの「故郷への道」という疑似対話形式のエッセイ(1919)、第一次世界大戦後の「あれだけのことがあったのに、結局は何も変わらなかった」という無力感、読んでて今も全く同じだから、きゅっとなる
「…世紀末の時代の感情の大雑把さ、精神とは何の所縁もない娯楽衝動、芸術上のたわいなさを、この二つの作品(「カヴァレリア・ルスティカーナ」「道化師」)ほどまざまざと意識したことは珍しい。人は頭を抱えて言うー「あの頃劇場に座って拍手をしていた人たちは、いったいどんな連中だったんだろう?」と。でも僕らに怒る権利があるんだろうか?今日の人々は違うというんだろうか?戦争の業火をくぐり抜けることで、各目の結果を通して、人々は何か変わったとでも言うのかい?私たちは相変わらず、人間性というものについて、高く評価しすぎていると僕は思うね。すべては衣装が変わるだけ。友よ、それについて笑おう、怒りはもっとマシなもののために取っておこうよ」(p.103)
今日その存立が根底から問われているのは、《第九》が体現している「右肩上がりの時間」という近代の物語自体である。…いつのひか来るだろう《第九》の再演を、ただの伊「音楽イベント」として消費してはいいけない。むしろわたしは《第九》を、二百年前のベートーヴェンからの「今」への問いだと思いたいー「わたしが《第九》で夢見た理想社会を君たちは嘘だったと思うか?それとも君たちはなおこの理念を何とか再建しようとするか?」という問いである。(p.123)
ショスタコーヴィッチの第九番とプロコフィエフの第五番を比べると、体制に合う作品と合わない作品の違いがはっきりとわかる。前者はひねくれている。後者は素直に勇気づける。前者は「結局何も変わらない」と暗示し、後者は「新しい明日がある」と約束する。だが今から振り返ったとき、もちろんプロコフィエフ作品の圧倒的な筆の練達を認めるにやぶさかではないにせよ、「人間」や「歴史」や「世のならい」について深い認識を与えてくれるのは、間違いなくショスタコーヴィッチのほうだ。…安直な約束をしない音楽、耳障りな音楽、体制が望む勝利宣言にくみしない、いや、むしろその癪に触るような芸術表現こそが、明日について何かを予告してくれているのだと思いたくなる。災いが過ぎたと感じられたときほど、勝利を歌うことに対しては懐疑的であったほうがいい。(p.130)
時間モデルの諸類型、面白かった
近代音楽と死への恐怖(1)諦念型、(2)サドンデス型
(1)シューベルトの「未完成」 (2)シューベルト「グレイト」
バッハの「マタイ受難曲」は全く違っており、曲が終わった後の沈黙は、ここでは死が残した空白である、なぜならこれは、目の前で人ががっくりと首を垂れ、呼吸が止まる瞬間を再現するがごとき音楽なのだから(p.148)