【感想・ネタバレ】80’s エイティーズ ある80年代の物語のレビュー

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感情タグBEST3

Posted by ブクログ

名作であった。最初は小説かと思っていたが勘違いで、橘玲が実際に経験してきた体験記的なものだった。

このままではまずいという思いを橘玲が抱えていたということに対して意外に感じた。

違う誰かではなくてこのままで経済合理的に生きたいと感じることのできる本。

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2020年08月26日

Posted by ブクログ

☆3.5 少女雑誌
 柳澤健の『2016年の週刊文春』みたいな編集者本だが、異るのは後で著者が転身すること。
 著者がブラック就労のなかでつくった不良少女向け雑誌(暇で、セックスや家出を渇望する80年代)が中曽根内閣時代の国会で取り上げられ、廃刊になるといふエピソードがすさまじい。
 明晰なかたで、高校時に読みふけったドストイェーフスキーが、高尚な世界文学ではなく、大衆向けの娯楽読み物と喝破するあたりに、只者ではない感じがする。

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2024年05月05日

Posted by ブクログ

橘玲の言ってはいけないがかなり辛辣だった印象があるので、身構えて読み始めた。すると、思ってたものと違い、面白かった。僕が橘より近い世代(少し下の世代)ということもあるだろう。たまに何となく80年代って何だったんだろう?と考えることがある。本書に答えが記されている訳ではないし、橘の過ごした個人的な80年代が書かれているに過ぎない。でも、80年代の空気感がリアルに感じることができ、新たな発見もあった。

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2022年03月09日

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不良少女雑誌作り
雑誌発行差止事件
士農工商は部落差別語か
オウムの取材
海外宝くじ購入代行会社

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2021年04月17日

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著者の他の作品のおかげでモノの見方が広くなった。教養の深さ、観点の鋭さなど尊敬する人物の1人である。その彼がどのように青年期を過ごしてきたかがわかる本である。ただし彼に興味がない方にはお勧めしない。

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2020年10月22日

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「言ってはいけない」「上級国民/下級国民」等の著者である橘玲氏の80年代を中心とした、ポストモダン思想を基底とした筆者の編集者時代の濃い時間の回顧録。当時の社会的出来事や文化を織り混ぜながら、それぞれの時期に起きたハプニングや、共に仕事をした仲間との出来事を交え、当時の時代の風を感じさせてくれる。

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2020年09月15日

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80年代~90年代に、出版·編集として働いた作者による自伝。
その時代の世相や風俗を知ることができて面白い。
一方で、バブルを中心とした世相描写やその思想については、生まれてから不況ばかりの若い読者にとっては、興ざめしてしまうようにも感じた。

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2021年09月02日

Posted by ブクログ

当時は活版から写植への切り替えの時期で 巷に溢れる自薦他薦のプロレス評論家ほど コロシウムの時代より連綿と受け継がれた格闘技の基本である 力道山の空手チョップによる反撃などは、この様式美のもっとも完成されたドラマであろう。人々はそこに、宗教的な解放すら感じたのである。 自己の存在を顕示していこうとするタイプ それでも国民の間に凄まじい力道山幻想を巻き起こした 技を日本語として表現するだけの思想がないのだ プロレスにカタルシスを求めている 宗教儀礼のクライマックスが教祖と信者の接触であることによって 堤清二率いるセゾングループの全盛期で 寡婦控除ならぬ寡夫控除 父子家庭 「共同体主義者(コミュニタリアン)」の人達とはまったく話が合わないだろう エビデンス(証拠)のある元気結果から目を背けるのではなく 「屠殺」と「屠る」の語用が多かった 凡ゆるタブーを俎上に載せて笑いのネタにしてしまおうというのだ 漂泊への抗い難い憧憬がある ファンダメンタリズム(原理主義)がテロの理論に変容する過程が分析される 世俗の暮らし 「私が愛した『爆弾娘』」 悔恨 カルト教団の引き起こした異常な事件と、「ウィンドウズ95」が予告する光り輝く未来との間には、気の遠くなるような距離があった きそん毀損 為替手数料を上乗せした価格で海外宝籤を販売するのだから レゾンデートル(存在理由) それは確かにある種の慧眼ではあった 社会の周縁でビジネスをしていると 外套がいとう 礎いしずえ さんぴん茶で郷土料理を食べていたのだ 豪奢ごうしゃ 知悉ちしつ 「差別表現」を巡って「糾弾」された一部始終を回顧する件 開陳かいちん 眺望ちょうぼう この時代を活写した回想記ならば 論客ろんかく それまでの近代の思想が奉っていた意識とか主体とかを疑い 雑駁ざつばく 意識や感情を脳内物質の作用であるとばっさりやって人気を博していた 凡ゆる綺麗事、理想、正義、道徳、価値が、偶々そういう事とされたお約束に過ぎぬと見定められた時、氏の言うように、「『自分こそが『真理』を独占している」という「ものすごく気分がいい」優越感に浸れる。そうして、「自分が何者でもない」惨めさを、一時であれ、忘れることができるのだ。では、そんなポストモダン思想によって、正義や理想を否定したとき、後に何が残るだろうか。それは、ポストモダンの大先達とされるニーチェがいう「力」とか「生」とか「無意識の衝動」、そのバージョンである「欲望」とか「快楽」とかだった。 矜情

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2020年12月24日

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