あらすじ
生涯にわたり信仰と文学の「コトバ」に共振し、『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』『ヴェネツィアの宿』『ユルスナールの靴』など、晩年に稀有な作品を遺した須賀敦子。高い評価を得たエッセイや訳書のほか、没後も詩集や書簡集も含めて刊行が続いた。これらの作品を生み出した69年の生涯は、さまざまな「コトバ」に支えられていた。キリスト教への入信、2度の欧州留学、カトリック左派の流れを汲むミラノのコルシア書店での活動、夫ペッピーノとの出会いと別れ、帰国後に没頭した貧困者支援のエマウス運動、そして文壇を刮目させた初のエッセイ集の上梓――。同じキリスト者である著者が、同じ情熱を以て須賀敦子の「たましい」に迫る、圧巻の評伝。[本文より]イタリアに渡り、コルシア書店で働く以前は本を読み、書店に関係するようになってからは翻訳に従事し、ときに本を売った。帰国後、彼女は研究者となり、再び本を読み、そして、あるときから自ら本を書くようになった。信仰を抜きにした須賀敦子を語っても、蝉の抜け殻を見るようなものだが、本との関係を無視した言説も同質の幻影をもたらすだろう。信仰と書物、ここに流れる雄渾な歴史が須賀敦子の土壌だった。
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Posted by ブクログ
霧の向こうに住みたい、だよね、と思って読んだら結構違った。そうか、私が読まなくなった時期がちょうど亡くなった時期だったから気がつかなかったんだ。久しぶりで評伝をちゃんと読んだ。
Posted by ブクログ
大好きな須賀敦子さんのことを若松英輔さんがお書きになるって読まずにはいられない。
大喜びで読み始めたが、いきなりガーンと来た。
もちろん須賀さんが熱心なカトリックの方とわかって読んではいたのだが、そもそもカトリックに関する素養も知識も、もっと言えば関心もほぼない私。それを抜きにして読んで、それで読んだと言えるのか。何を持って好きと言ってるのか。全くわかってないではないかとショックを受けた。ほんとに。今、私のやるべきことは、この若松さんの評伝を横に置きながら、須賀さんを読み直すことと思われる。
でも、もっと意識をして読むからと言って、カトリックの素養のない私は深くは読めないってことなのか。それを抜きにしてもやっぱり好きだから(引用されている文章が、ことごとく出典に戻って読み返したい気分を起こさせる)これを契機に読み返したいという気持ちは満々だし、これからも何度も読み返したいと思っているのに、無信仰な私は無信仰なりの理解しかできないということなのか(バカな私はバカなりの理解、と書きたいところでもある)…
ここまで書いて、それを言い出すと、たとえば遠藤周作の小説の理解も多分全然ダメで、それでもそれなりに考えることもあるわけで、全ての書物、人物等は自分の器なりの理解しかできないということなのだなぁ…
格調ある評伝の感想を、こんなふうに書いてしまって…
偉そうなことを言うと、雑誌に連載されてるのを知った時から、若松英輔さんがお書きになるって、須賀さん大喜びだろうなと思っていたのだ。
すごい組み合わせだと感動していたのだ。
こんなガサツな感想で申し訳ない気持ちでいっぱいです。
読み終えたばかりで、うれしいような悲しいような気持ちになっているので、もう少し落ち着かないと。